SOMEDAY ──Part.2

 仕事帰りらしい大勢の酔客。
 騒々しく叫ぶ居酒屋の店員。
 近づいてきて卑猥な言葉をささやく客引き、女衒。
 夜の帷を寄せつけない歓楽街。
 人混みを縫うように早足で歩く。
 体も、なんだか心まで少し疲労を感じている。早く帰りたい。
 猥雑な通りを抜けてやや落ち着いた街区に入るとほっとした。それでも足をゆるめずにムサシは歩んでいく。
 先ほどまでの喧騒を、早く忘れたい。帰って一刻も早くあいつの顔が見たい。
 振り返ることなくムサシは夜の街を歩いて行った。

 **********

「あと40秒」
 ヒル魔の声が上からひびく。
「…………」
「30」
「……、……」
 ムサシは満身に力をこめて歯を食い縛る。じわりと顔に汗をにじませながら。
 うつぶせに、肘と足先だけで身を支えている。いわゆる、プランクと呼ばれる腹筋運動の体勢をムサシは取っているのだ。
 風呂上がりの軽い筋トレとストレッチはムサシの毎日の習慣だ。プランクもその一環である。ただいつもと違い、いまムサシの体にはとんでもない負荷がかけられている。何しろ同居している金髪頭──ヒル魔が背中に腰かけているのだから。
 いつものミントガムを噛みながら、ヒル魔は長い足を前方へ伸ばしてムサシの背に座る。ご丁寧に愛用のノートパソコンをいじりつつ、その体重を容赦なくムサシへと押し被せる。
「20」
 ヒル魔の声。ムサシの──恋人の声。帰宅するまでは早く聞きたいと思っていた声だ。だがそれを味わうゆとりもなくムサシは苦しい呼吸を繰り返す。背筋と腹筋が攣りそうだ。後頭部から汗が滲み出て顔へと伝う。ぽたり。ぽたり。まだか、あと何秒だ。ヒル魔の見ているのだろうテレビ横時計の秒針。早く進め、進めと願う。体の背部も前面も板のようだ。強張るを通り越して緊張の限界を迎えつつある。細かな痙攣が体の内側に起こっている。耐えろ、あと少しだ。多分。
「ゼロ」
 PCを抱えてヒル魔が立ち上がった、その刹那ムサシは脱力した。べたりと腹這いに。はあはあと荒い呼吸。肺も、全身の筋肉も酸素を求めて悲鳴をあげている。
「ケケケ、情けねえな糞ジジイ」
 床に這いつくばったムサシの耳に、ヒル魔の遠慮ない揶揄の声が届く。
「これくらいでくたばってるようじゃシーズン乗り切れねえぞ」
「……、うるさい」
「ちっと耄碌気味なんじゃねえのか、ケケ」
「……やかましい」
 呼吸を落ち着けようと努めながら、ムサシは寝返りを打った。床に寝そべってヒル魔を眺める。
 今度はソファでカタカタとキーの音を立てているヒル魔。口元で膨らむガム。一通りムサシに悪態をついて満足したのか、少し真面目な面持ちで画面を見つめる。
 はあ、と息を吐き出しながらムサシはなおもヒル魔を眺めた。



 ──テメーと同居するのはやめる
 ──これからは同居じゃない
 ──同棲だ

 スマホの画面に浮かんだ、ヒル魔からのLINE。そんな言葉で、気持ちが通じ合ったのはほんの数ヶ月前のことだ。しとしとと雨の降り続く季節だった。
 友人として同居を始めて1年余り。先におのれの想いに気づいたのはムサシだった。正直に気持ちを告げたムサシに、ヒル魔はためらうようだった。少し──少し、時間をよこせ、と言って同居中のマンションから出ていったのだ。
 ムサシは待った。淡々と毎日の勤めに出ながら、一日一日を過ごしながらヒル魔を待っていた。そのムサシに、ヒル魔は応えてくれた。たった3行の、短いLINE。短くとも、十分だ、とムサシは感じた。画面を閉じてスマホをテーブルに置く。それからほどなくヒル魔は帰宅した。おかえり、と迎えたがそれ以上何を言えばいいか分からない。寒くなかったか、とか、腹減ってないか、などとありきたりなことしか言えなかったのをムサシは覚えている。ムサシもだが、ヒル魔もまともに顔を合わせるのが気恥ずかしいようだった。ぎこちない会話。でも胸の中は暖かい。何も気の利いたことは言えないけれどとても満ち足りたような、不思議な暖かさの中でその夜は休んだのだった。

「おい、糞ジジイ」
「──あ?」
 ヒル魔の声でムサシは我に帰った。
「耄碌して耳まで遠くなったか。なんか精のつくもん食った方がいいんじゃねえかっつったんだ」
「ああ」
「効きすぎてムラムラして眠れなくなったりしてな、ケケケ」
 カタカタと打鍵の音をひびかせながらヒル魔は笑う。
「…………」
 言い返すのを諦めてムサシはまたごろりと寝返りをうった。
 寝そべるムサシの前で、ヒル魔はPCに打ち込みを続ける。長身のその姿を何か不思議なものでも見るようにムサシは眺めた。
 想いは通じた、それはとても幸せなことだ。ムサシとヒル魔の生活はもう腐れ縁の友人どうしの同居ではない。恋人どうしの、同棲なのだ。それはヒル魔のあの言葉でも明らかだ。
 ただ、こうしてヒル魔を眺めていると──特に最近のムサシは──何か妙な気持ちに襲われる。何かは分からない、けれどどこか物足りないような気持ち。どうしてこんな気持ちになるのか分からないし、どうしたら良いかも分からない。ヒル魔が好きだ、ずっとこうして一緒にいたい。告白はしたし想いも通じあった。けれどそれだけでは何かが足りないような気がする。あの、ヒル魔が戻ってきた夜はこの上なく幸せだったはずなのに。ではどうすればいいかと言うことになると思考が停止してしまう。なんだろう、この気持ちは。
 滑らかにキーを打ちながら、なに見てんだ? とヒル魔が訊いてきた。俺の顔になんかついてるかよ、と不審そうに。それで初めて気がついた。ムサシはいつのまにかまじまじとヒル魔を凝視していたらしい。ああ、いやと答えて立ち上がった。おのれの中の思い。これは何なのだろう。とにかく何か飲もうと台所へ向かった。

「…………」

 ムサシを見送って、気づかれないようにヒル魔は一人、ほっと息をつく。
 最初は気のせいかと思ったが、やはりそうではないらしい。このところ、どうもヒル魔にはよく分からない視線をムサシは送ってくるのだ。何を考えているのか分からない視線を。それは朝の起き抜けであったり、廊下ですれ違う時であったり、居間で報道番組を観ている時であったり。あるいは、つい先ほどのような何げないひとときであったり。
 ムサシの瞳。ヒル魔はそれが好きだ。ただ、ムサシがどんな思いで、どんな気持ちで自分にその視線を当てるのかヒル魔には判断がつかない。とにかく、なんだか落ち着かない心持ちにさせられる。むずむずと居心地の悪さ。不思議と胸が苦しくなるような、そんな感覚に襲われる。
 台所でムサシは冷蔵庫を開けたようだ。麦茶でも取り出して飲んでいるのだろう。
 ほうっと再びヒル魔は息を吐き出した。おのれの胸の内を振り切って、目の前の画面に集中しようと努めた。

 **********

 駅の出口から吐き出される人々をムサシは見つめる。LINEでヒル魔の乗っている電車も、到着時刻も分かっている。もうそろそろだろう。
 夕暮れの帰宅どき、駅前はたくさんの人と車両で賑わう。夕闇とネオン、車のライト。
 ムサシとヒル魔の住む街は都内西部のベッドタウンだ。朝も夜も駅前の広場は多くの利用客が見られる。他の車両の邪魔にならない場所に車を停めて、ムサシは帰宅するヒル魔を待っている。
 車を停めて待つこと数分。じっと駅の出口を眺めるムサシの目に、見慣れた長身の金髪頭が映った。ムサシはエンジンをかける。どこかを見回すようにする金髪。ぐるりと広場を見渡した後、目指すものを見つけたようだ。まっすぐにこちらへ向かって歩いてくる。

「おかえり」
 ドアを開けた恋人にムサシは声をかけた。
 ヒル魔は大きなバッグをどさりと足元に置いて、乗り込んでくる。悪ィな、といつもの台詞。
「近いんだから無理に来なくてもいいぞ」
 シートに身を落ち着けながらヒル魔が言う。いや、いいんだとムサシは答える。
 ふたりの住まいは駅からゆっくり歩いても15分ほどだ。ヒル魔の言葉通り、ムサシが無理に車で迎えに来ることはない。それでもムサシは仕事と時間に余裕がある時は、できるだけ迎車の役目を買って出ていた。運転は苦にならないし、何よりムサシはヒル魔との車中の会話が好きなのだ。のんびりと、その日あったことをお互いに報告しあう。車中での時間は短いが、ヒル魔と隣り合わせに過ごす。なんだか、物理的な意味だけではなく心まで近くなるような気がする。
「晴れて助かったな」
 ムサシは今日の天気のことをそう表現した。ここ一週間ほど、前線のせいで雨続きだったのだ。ヒル魔も応える。
「そうだな」
「どうだった、今日は」
「んー、まあ何事もなかったな。晴れたから練習は楽だった」
「そうか」
「地面が濡れてると足捌きが面倒だからな」
「お前、足は大丈夫なのか」
 ムサシは思い出して問うた。先日、ヒル魔はグラウンドで足を滑らせて少し捻ったと言っていたのだ。
「ああ、もうなんともねえ」
「テーピングは? まだしてるのか」
 昨日はずした、とあっさりヒル魔は答えた。ムサシは安堵する。それなら心配は要らないだろう。
「いつもの練習あれは。今日は出られたのか」
「ああ、今日は出られた」
 ヒル魔は夕刻からのウィザーズの練習風景を思い出した。
 ウィザーズのチーム練習は、毎日4時過ぎごろから行われる。ただ、それより前に集まることのできる──多くは講義が早めに終わる上級生たち──が中心となって、パスに特化した自主練を行うのが半ば伝統のようになっていた。レギュラーか控えか、そんなことに関わりなく複数のQBがパスを投じる。高いボール、低いボール、ターンボール。それをRBやWR、TEなどさまざまな選手がひたすら受ける。QBのヒル魔としては、いやヒル魔でなくとも高い技術と体力を要求されるトレーニング内容だ。毎日でも参加したい、だがヒル魔をはじめとする1・2年生はどうしても講義時間が重なってしまう。頻繁に出ることができないのがひどくもどかしい、と度々ヒル魔はムサシにも話していた。
「ハードだけどな、やれて良かった。4年に怒られたけどな」
 ハンドルを操りながら、思わずムサシは吹き出した。
「怒られた? お前がか」
「まあな」
 ヒル魔も苦笑する。
「一体なんだってまた怒られたんだ」
 ムサシは訊いた。この不敵で強気な悪魔が叱られる。ヒル魔には悪いが、なんだかとてつもなく痛快な気もする。
「もっと肩を使え、とさ。小手先で投げるな、ってな」
「ほう。お前、口答えしなかったのか」
 ヒル魔の強肩はムサシも知り抜いている。デビルレーザーバレットという武器を持つヒル魔のパス能力。ウィザーズの選手、それも上級生となるとそのヒル魔のパッシングですら甘いと感じるのだろうか。
「それがな」
 苦笑を含んだ声でヒル魔は答える。
「ちっと手抜きした瞬間だった。だから何も言えねえ」
「手抜き?」
「てか、ちっと力を抜いた。油断した」
「そうか。本当に気が抜けないな」
「まあな」
 グラウンドで叱責される。高校時代までのヒル魔にはほぼ無い経験だ。入学して分かったがやはり常勝軍団と称されるウィザーズのレベルは高い。その中の上級生たち、それもレギュラーともなれば百戦錬磨のつわもの揃いだ。久しぶりに参加することのできた今日の自主練では、ヒル魔はいわば彼らに胸を貸してもらうつもりで各種のパスを投げ分けた。代わるがわるに自分の投球の順が巡ってくる。何度目かのパスの時、どういうわけかふとヒル魔の頭を雑念がかすめた。一瞬、肩の入れ方が甘くなった。しくった、と思いながら球を放った次の瞬間には怒声が飛んできたのだ。ムサシに話した通りの。
 だが切り替えの速さはヒル魔の得意技でもある。むしろ、叱咤されたことで却って冷静になった。それからは再び集中して練習を続けることができた。
「テメーの方はどうなんだ。なんか、変わったことあったか」
「うーん……いや。ほぼいつも通りだな」
 ふたりの乗り込んだ車は駅前の繁華街を抜けていく。もうすぐ突き当たりで、そこを右に曲がると雰囲気はがらりと変わる。住宅地に入るのだ。
「またガキに懐かれてるんだろ」
「ああ、まあな」
 ムサシの今の現場。押し入れをワークスペースにリフォームするという単発的な仕事だ。3日程度で済むその作業の、今日は2日目だった。依頼を受けた家には小さな子供がいる。男の子で、小学1年だという。かなり好奇心が強そうな、きらきらした目が印象的な男児だった。昨日も今日も、ちゃんと邪魔にはならない場所からムサシの作業をじっと見守っていた。面白いか、と笑顔でムサシが声をかけると、黙って輝く目で頷いた。賢そうな子だな、とムサシは感じたのを思い出した。
「そういや昨日、飲み会はどうだったんだ」
 ヒル魔に訊かれてムサシは答えた。
「ああ、昨日はすっかり遅くなっちまったな。悪かった」
「俺ァ仕事してたから構わねえ」
「酷い目に遭ってな」
「酷い目?」
「ああ」
 苦笑とともに思い出す。昨夜の猥雑、喧騒を。
「妙な店に連れ込まれた」
「どんな店だ」
 ムサシはある種の風俗店の名称を告げた。全く、酷い目に遭った。
「…………」
 ヒル魔は答えない。前を見据えて無言だ。
 ふと嫌な予感がした。それでも気を取り直してムサシは言葉を続ける。
「出入りの連中と飲んだんだけどな。変な方に話が盛り上がってな」
「…………」
「俺も成人だしな。断れなかった」
「…………」
 ムサシは口をつぐんだ。ヒル魔は何も言わない。
 ふたりの乗った軽自動車。住宅地に入っている。辺りはすっかり闇だ。
 なんとも言えない居心地の悪さをムサシは感じた。口から先に生まれたような恋人。ムサシの話に何も言わない。運転中だからムサシは脇見などできない。だが隣席の恋人からはある空気のようなものが伝わってくる。
 ヒル魔が口を開いた。
「……テメー断らなかったのか」
「できるわけないだろう」
 心外そうにムサシは答える。ただの付き合いで行った飲み会ではあるが、そんなことをしたら職人たちとの関係が悪くなってしまう。
 ムサシの答え。ヒル魔は言い返すでもなく無言だ。だが明らかにある気配──不愉快さ、のようなものがムサシに感じられる。
「付き合いだ。仕方ねえだろ」
 おのれの言葉に、言い訳めいた風が忍び込むのをムサシは感じた。そうなったことに自分で腹が立った。
「…………」
「…………」
 気まずい空気。
 ヒル魔は何も言わない。
 認めたくない嫌なもの──苛立ちのようなものがムサシの身のうちに湧き上がる。同時に、昨日の晩のことがよみがえってきた。おおむね上手くいった飲み会。その後の"二次会"。されたくもない露骨な性的サービスに疲弊した夜。
 話せば、テメーも苦労するなと笑ってくれるものと思っていた。笑い話にできるものと思い込んでいた。意外な恋人の反応。機嫌を損ねているのはもう明白だ。
 苛立ち。落胆。そういうものを抑えて、穏やかにムサシは話しかけた。
「ヒル魔」
「…………」
 恋人は返事もしない。
「気は進まなかった。それでも断れなかった」
「…………」
 暗い夜道を、ライトをつけた軽自動車が走る。やがて見えてくるマンションの入り口。
 駐車場に滑り込む車。
 黙り込んでいる恋人とともに、ムサシは駐車場のいつもの場所に停車した。
「着いたぞ」
 かけなくても良い声をかけてみる。
「…………」
 恋人は無言でドアを開けた。いつものヒル魔はここで必ず、悪ィなと再び礼を言うのだ。別段、それがなかったことが気に障ったわけではない。ムサシは平静に接しようと努めた。
「ヒル魔」
「…………」
「こんなことでヘソ曲げるな」
 沈黙。
 駐車場から共用玄関にまわり、エレベーターで上がる。
 どうしようもないな、とムサシは思った。ヒル魔はムサシを見ない。話し合おうともしない。
 ヒル魔が鍵を開けて、ふたりは家の中へ入った。
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