彼女の一日は、雑巾掛けから始まる。
3, 居候の日常
居候の身である彼女の朝は実に早かった。
夜明け前に起床した
冴は、寝惚け眼を擦りながら布団から這い出ると、まずは寝具を片付ける。丁寧に三折をした布団を部屋の隅に置きやり、今は寝間着として使用しているYシャツとズボンを畳み枕の下へと置いた。いそいそと小袖と袴を慣れた手付きで着付け終えると、障子を開き未だ誰も通らない廊下へと足を着けた。向かう先は井戸。桶を取りに行く序で顔を洗うのだ。
ようやく覚え始めた井戸までの道程を辿り、到着するや否や井戸から汲み上げた水を小さく平らな桶へ注ぐ。桶の水を使い洗った顔を手巾でさっと拭くと、今度は桶に残った水を取手の付いた桶へと移した。そこへ灰色をした雑巾を一度浸してからよく絞る。桶を右手、雑巾を左手に持ち向かうは廊下の端へと。
実のところ、
冴が公に雑巾掛けをすると女中が血相を変えて止めに来る。当人は世話になってばかりでは申し訳ないと思うが故に行った事なのだが、あまりにも必死で制止の声を掛ける女中に若干引きながらも仕方なく頭を縦に振った。が、他に恩を返す為の方法が見つからず、考えた結果女中の起床前に雑巾掛けを済ませる事にした。
(それにしても……広い)
角までの一辺を拭き終わらせた
冴は雑巾を桶の中で洗いながらそうぼんやりと思う。とにかく、廊下が長いのだ。その分やり甲斐があるというものだが……時間は非常に掛かる。だが、雑巾掛けの音で彼女達が目を覚ます事はまず無い。
冴は僅かな魔力で自身の行動により発生する全ての音を消去していたのだから。
(こんな事が知れたら……師匠に絞められるやも)
一人苦笑を零した
冴は、絞り終えた雑巾をぱっと広げた。油を売っている暇はない。作業再開である。
冴は女中の起床時間に合わせて部屋の前の廊下で待ち伏せていた。やがて部屋から出てきた女中の一人に声をかけ、雑巾掛けを終えた旨を告げるとそそくさ逃走を開始する。怒られたくないただ一心で後方の声を無視し駆けた。
但し、結局朝餉を運んできた女中によって余計な事をするなとのお叱りを受けたのだが。
―――ひそひそと、話し声がする。
真昼の飯野城城下。小袖に袴姿で廊下を歩いていた
冴であったが、角を曲がる手前、不意に立ち話をしていた者達の話を耳にするや否やすぐさま身を翻した。
ーー島津と長曽我部の同盟は当分の間継続するのだと。
戦は一つで終わる筈が無い。同盟を組み続けるという事は、先日襲来した毛利への牽制とまた近々起きるであろう襲撃への対策なのだろうと、部屋に戻った冴は木刀を拾い上げながら思案する。城門から程近い屋敷の一室を客人用として宛てがわれている現在、部屋内には手中以外にも数本の木刀が転がっていた。その傍らに腰を下ろすと、片手に握り込む木刀の柄頭を掻いた胡座の腿上に立てる。
戦国の世を渡り歩くのならば、護身用の得物の一つでも用意しておかなければ。そう考えた末に冴が試みていたのは、木刀への魔術による属性付加であった。
(振るだけで火が出るのなら、追い払うには十分だ…)
先日使用した槍はあくまでも切札として控えておきたかった。もともと在る物への加工はできても、一から組み上げる魔導具の制作となると冴の不得意とするところである。一度破損すれば、完璧な修理が可能かと問われれば首肯は出来かねる。
火、水、風、と基本的な属性の付与を木刀に加えていく、その最中。
ふと、廊下を渡り来る荒々しい足音が耳に届いた瞬間手を止めた。音はどたどたと、真っ直ぐに近付いてくる。火急にしては早足ではない。どちらかと言えば長身の男の歩調に近い。正体を気に掛けて木刀を目前へ置いた瞬間―――すぱーん、と。
小気味良い程に障子が滑る。瞬く間もなく全開である。
呆気に取られて茫然とした冴の視界のど真ん中、仁王立ちで姿を現したのは十日前に目にしたばかりの濃紫色だった。
「よぉ、鬼島津の居候」
「げ」
思わず洩らした言葉は意外にも内心を表す。城外のためこの部屋へ訪れる事はまず有り得ないと思っていただけに、気拙さと驚きが交錯する。
その反応を不思議に思った男はほんの僅かに隻眼を細めてみせ、それから今しがたの反応を問い質すべく口を開いた。
「にしても“げ”って何だ“げ”って」
「げ……元気ですか?」
「……変な奴だなお前。俺が病や怪我してるように見えんのかよ」
「いえ、」
何とも違和感の拭えない会話だと自負し苦笑を洩らした
冴は、頭を左右に振る。そこで多少和らいだ空気が幸いしてか、軽く笑った元親が
冴の頭部に手を置き―――ぐしゃぐしゃと、頭髪を掻き回した。
「絶対その“げ”じゃねぇだろ」
「ぎゃっ、止め、禿げる!」
「これぐらいじゃ抜け落ちるわけがねぇ」
「癖毛、余計強くなるから!!」
戯れ、と言うにはあまり似合わぬ何とも異様な光景である。面白いと掻き回す手を止めない元親は既に虐めているという表現の方が近い。元親の手を必死に止めようと手を伸ばし腕を掴むが揺さぶられて力が入らず制止が効かない。部屋ならまだしも、廊下にて行っている行為であるが故に通り行く女中達の冷ややかな目は自然とそちらへ向いた。酷い、と呟き薄らと涙を浮かべた
冴は刹那――足を、刈った。
正確には元親の両足の内側へ差し込んだ
冴の足が、膝裏を容赦なく打ったのである。当然力の抜けた片膝は地に着こうとして、突如伸びてきた腕がそれを許さなかった。
「ちょっと来て!いただいても!いいですか!!」
「おまっ……!」
元親の胸ぐら――否、上着の襟元を引っ掴んだ
冴が遠慮なく力を込めて引っ張り始める。その勢いに若干押された元親は引っ張られるまま、開かれた障子の向こうへ突き飛ばされた。半ばよろけながら部屋へ足を踏み入れた元親は即座に振り返り驚愕と怒りを露にしたが、
冴もまた同様に静かな怒りを灯していた。
「低身分の居候が歓迎されない事ぐらい知ってますよねこの野郎」
「嫌なら出ていきゃ良いじゃねぇかよ」
「そういう意味で言ってるんじゃなくて―――さっきの戯れも人目がある所では程々にしてもらいたいんです」
「人目が無いなら程々じゃなくて良いのか」
「揚げ足ですかこの半裸武将…!」
遂に涙目のまま怒り叫んだ
冴はつい先程部屋に放り込んだ木刀を手にする。一薙ぎすれば風を切る音が部屋内に響く。半ば喧嘩腰で一歩を踏み出した
冴に、元親は僅かに驚きながらも身構えた。
「俺とやろうってのか?」
「あんたとの喧嘩なら付加した木刀が妥当よ!」
「ふか……何だ?」
意味を解せず眉を潜める元親に、
冴は構わず木刀を打ち込む。二度、三度は躱したが部屋は六畳。元親が障子を開け放ち庭へと下りた事から、自然の流れで庭での喧嘩となった。
ぶん、と勢いのある一薙ぎを後退した事によって避けた元親は、その振り方が経験ある筋良きものだと気付きさらに数歩を大きく下がった。じゃり、と地面を踏み込み体勢低く身構える男に向かって、
冴は詰め寄り真上から僅かに傾けそのまま振り下ろす。咄嗟に両手を頭上へ翳し構えを取った元親が無意識に行ったのは―――見事な白刃取り。
尤も、真剣ではなく木刀なので場にはぱしん、と乾いた音のみが響く。男の予想外の行為に慌てて木刀を引こうとするも、それは挟まれたまま微動だにしない。元親が優勢に立ったかと思われた、が……問題が生じたのは、ここからだった。
木刀を挟み込む手の内が、熱い。決して摩擦熱ではない、異常な熱源。まるで火玉を手中に収めているかのような熱は、遂に痛覚へと変貌し元親の掌を刺激した。
「熱っ!」
「あ―――やば」
慌てて両手を放した元親の声にはたと我に返った
冴はふっと腕の力を抜いた。手を擦り抜け鈍い音を立てて地へ落ちた木刀を気にも留めず、冷ます為に手を振る男の様子を見守っていた。
無意識に篭めていたのは、力と魔力。木刀へ付加した属性は、炎。嘗て師匠より指摘を受け注意を払っていた無意識下での自発。それが今発動する事に
冴は驚きと焦燥を覚えていた。火傷の確認をしようと身を屈ませ、おずおずと手を伸ばす。
「ご、ごめんなさい!無意識に―――!?」
無意識にやってしまった。
そう自白し謝罪を篭めようとした
冴は突如豹変した空気に一つ目を瞬かせた。
轟、と唸りを上げて風が逆巻く。それは元親を中心として渦巻き、銀髪を揺らしながらゆっくりと顔を上げた先には、鬼と称される所以を理解させる程の貌と気迫。紺碧の眼に灯された闘志。顔を引き攣らせた
冴に、元親はにやりと口元を引き上げてみせる。
そうして、ただひとつの掛け声。
「燃えてきた……
冴、本気でやるぜ!!」
「ぎゃっ!!」
「―――おまはん達、何しよっとね」
「「ちょっと戯れを」」
広間へ戻らない元親を気に掛けて探しに行った義弘が庭で発見したのは、土塗れになりながら取っ組み合いをしている元親と
冴の姿だったそうな。
◆ ◇ ◆
翌日、大して何をする予定も無く暇を持て余していた
冴は魔道具の動作確認を終えて畳に突伏する。暇だ暇だと連呼しごろごろと転がるが、それもやがて止めた。何かを思いついたのか、のろのろと起き上がり間近にあった木刀を手にした少女が向かったのは―――庭。付加が炎ならば庭の草木を燃やすが、水ならば大丈夫だろう。
属性付加を施した木刀を片手に試験の為に庭へ持ち出した
冴であったが、ふと、先客の存在に目を細める。
先日再び薩摩へ訪れた、隻眼の海賊。鬼島津への用事を済ませたついでに
冴の逗留先へ態々立ち寄るのだという男は、庭へ下りてきた少女を目にするなりよぉ、と片手をひらりと薙いだ。
「―――元親」
「様を付けろよ様を。…そりゃあ、また火のやつか」
「いんや、水」
一見はただの木刀であるのだが、少女の得物に興味津々の元親は手元の碇槍を肩に担ぎ直しつつ
冴の元へと歩み寄っていく。今彼女の手元にあるものが先日自身の手を火傷させかけたものではない事を知り内心安堵したものの、その妙なからくりは元親の好奇心を擽っていた。…尤も、
冴が教えたところで使用できる筈も無いのだが。
―――魔術は常に隠匿すべきもの。
その掟を見事に破ってしまっている
冴だが、彼女はそれすらも気付いておらず。手中に納める木刀を一振りすると、切先を陽に翳してみせた。一見、何の変哲もない木刀。しかし、見掛けで判断し油断をすれば大怪我を負い兼ねない。これが刀に付加された場合、威力は如何なものか――。
僅かに呻り翳した木刀を眺め続けていた
冴は、不意に拾った元親の言葉に視線を下ろした。
「だったら、雷も作れんのか」
「法則的に難しいけどね」
「法則?」
何だそりゃ、の意で復唱した元親だったが、
冴は法則内容に対しての意と受け取るや否や明後日の方角を眺めつつ淡々と事を述べ始める。
「雷は常に気候条件が付くんだよ。条件としては積乱雲が半径三キロ以内に存在するか湿度が低いか。無理に起こそうとすればそれなりの魔力を使用するから、あまり雷を付加したりする人は居ないんだって。それと属性特化も関係してるけど、」
「
冴、」
「私の場合は珍しくて色んな属性に特化しているらしいんだ。だけど雷は流石に扱い辛いからせめて水属性の付加素材を使用して空気中の水分を使い切ってからすぐに雷へ変換させれば静電気が発生して、」
「おい、
冴」
説明に集中していた
冴はふと、男に名を呼ばれて振り返る。彼女はきょとんと目を瞬かせ、気難しげに顔を顰めた元親を見上げ僅かに頭を傾げた。
「え?」
「何話してんのか、全っ然分からねぇんだが」
「……あ」
元親の指摘によって、同業者では分かり易い程の説明が彼にとって未知なる領域でしかない事を知り、誤魔化しも含めて苦笑を洩らした。……この時代、日本に魔術師という存在はあったのか。何気なく気掛かりになった
冴はしかし、ふと記憶の中から浮上した過去の会話を抜粋し疑問を抱いた。傍らの男は、いつまで飯野城に滞在しているのか。
「そういえば……自分の国、空けてて大丈夫?」
「心配しなくとも、明日の朝には帰るつもりだ」
「…そっか」
何とも急な帰還の知らせに、
冴は俯いた。今は戦の備えを万端にすべく日々動いているという義弘。元親もまた他国と一戦交えるべく戦支度を行う為に四国へ帰還するのである。戦はかけ離れた場所にあるものだという何気ない感覚を持つ
冴にとって、急にそれが間近に感じられた。
僅かに眉を顰めかけた
冴はしかし、不意に頭へ乗せられた温もりに顔を上げる。男のごつごつとした逞しい手が、彼女の頭を撫でていた。
「鬼島津から聞いたが…あんた、小田原へ行きたいんだって?」
「え?」
思わぬ話にきょとんとして目を瞬かせた
冴は頭を軽く数回叩かれる事も気にせず男を見上げ続けていると、口角を緩やかに引き上げた元親が身を屈め目線を合わせた。男の顔には屈託の無い笑みがある。
「良いぜ、乗せてってやるよ」
「ほ、本当に?」
男の予想外な誘い――正式には誘いでは無いのだが――に瞠目する。乗せていく、と聞けば先日水平線上にあった船をふと思い出す。あれが恐らくはこの男の船なのだろう。そう推察し、時間の短縮に内心嬉々としていた。小田原へ行くまでの陸路が大変であると聞き及んでいただけに、嬉しさと同時に安堵が生まれる。
「戦が終わったら迎えに来る。それまで生きてろよ」
「あ、当たり前でしょ!私、戦人じゃないから!」
―――何を勘違いしているのだろう。
冴は男を凝視しつつ反論するも、それ以上の言葉を告げる事を止めた。
元親は何かを口にしようとして、ふと少女の頭に乗せていた手へ重なる熱を感じ開きかけた口をすぐに閉ざす。自身よりも一回り小さく柔らかな感触が、男の手甲を一つ撫でる。
「……待ってる」
呟くような
冴の言葉を聞き拾った元親はおう、と快活な返答を口にして、笑った。
一旦部屋に戻り、襷掛けをした
冴は再度庭で元親と合流すると、運動がてら木刀で軽く打ち合った。途中から元親が本気となった事で
冴は満身創痍となったが、身体が鈍っていた者にとっては十分過ぎるほどだった。
斜陽が始まり、薄らと茜色に滲み始めた午後の空の下、庭へ倒れ込み肩を上下させる
冴は手中から木刀を放し頭上を仰臥する。空を映す視界の片隅には、柑子色に染まった男の銀髪。男に顔を覗き込まれた
冴は笑い、元親もまた汗を袖で拭い笑むと手を差し出した。その手を彼女がゆっくりと握ると強い力で引き、半身を起こす。起こされた者はそのまま立ち上がり、ふと沈みかけている陽へと視線を投げやった。
「もう陽が傾き始めてる……早いなぁ…」
「あれだけ熱中してりゃあな」
元親の言葉に納得したように軽く頷いた
冴は、袖や裾の土埃を軽く払ってから足元の木刀を拾い上げた。激しい打ち合いの所為で、所々が凹んでしまっている。後で直そう、と内心で呟きつつ刀身に付着した土を払い除けた直後、廊下より夕餉時を呼ぶ女中の声。そこで男との打ち合いは終了、互いに部屋へ戻るべく背を向けた矢先、一度振り返った元親は苦笑を交えながら彼女の背に向けて言葉を投げ掛けた。
「お前、女子みてぇな言葉遣いは止めた方が良いぜ」
その言葉に強い衝撃を受けた
冴がばっと勢い良く振り返る。が、何事も無かったかのように立ち去ろうとする元親の姿に呆然として、廊下より響くは二度目の呼びかけ。我に返った
冴は急ぎ廊下へと駆け上がりながらも、自身の性別を元親に間違えられている事実に動揺するのだった。
(…気付いてない?)