「よう」
「は……」
声を掛けられて、
冴が初めて漏らしたのは吐息に混ざった言葉にならない声だった。草叢から出て来る所を待ち伏せされていた事に驚き、なおかつ危機感は最高潮に達する。今なら戦に巻き込まれる民の気持ちが、分からなくもない。
侍同士が起こした戦に巻き込まれる、罪のない民の気持ちが。
2, 鬼の誼
「坊主、鬼島津は何処だ」
「へ……」
見当たらねぇ、と零しながらも周囲を見回す男はまだ若い。そして賊に見えなくもない。侍の想像からかけ離れた言葉遣いから、その可能性を否定する事ができない。
坊主、と性別を間違えられた事に僅かな怒りを覚えるも、
冴への警戒心が少ない事が幸いだった。爆音に紛れて腰のポーチを開き、そこから筒状の物を取り出して再びチャックを閉める。未だ遠くを眺めている男は“坊主”の僅かな動きにふと反応するなり振り返った。
「坊主、あんたさっきまで鬼島津と一緒に居ただろ。爺さんの孫か?」
「いや、ただの迷子です…」
「迷子?……国は何処だ」
「―――加賀」
咄嗟に思いついた旧名の地を口にした
冴はしかし、実際は関東南部出身の地元育ちである。一切足を踏み入れた事のない地名を挙げて不安に煽られるも、そうか、と呟きを返した男は軽く顎をしゃくった。
「ただの迷子に用はねぇ―――早く行け」
見逃す、と告げた男にほっと胸を撫で下ろした
冴は軽く頭を下げてから身を翻す。未だ焼けていない草叢の中へ戻ろうと一歩を踏み出して、しかし背後より再度掛かる低声に若干身を竦めた。
「待ちな」
冴の背後で草を掻き分ける音がする。足音を一歩聞く毎にぞくりぞくりと背筋を這い登ってくる悪寒と緊張に耐えながら、
冴は恐る恐ると振り返った。再度向けられる眼差しはただの一つとはいえ、その威圧は凄まじい。この時改めて男への恐ろしさに息を飲み、身を硬くする。
「あんたの手に持ってるそれは何だ」
背後まで来ていた男はそれ、と視線を目的の物へと視線を下げる。その先は彼女の手中にあった筒へ。思わず間抜けな声を挙げそうになった
冴はしかし、咄嗟に言葉を詰まらせた。本当の事を吐露してしまえば、敵意を覚えられ兼ねない。敵視されないよう敢えて手を胸元まで上げ、筒を男の目前にまで持っていった。そして、一言。
「…形見」
「―――、そうか。余計な事を聞いちまって悪かったな」
誰の、と明言しない意図を彼なりに斟酌したのだろう。男は若干眉間に皺を寄せながらも、軽い謝罪を入れるや否や早々に踵を返した。草叢を再度掻き分けて戻り行く濃紫の、次第に遠ざかっていく姿を
冴は呆然として見送る。…一瞬、罪悪感にも似た心中が見て取れた気がしたのは、おそらく錯覚だろう。
小さくなっていく濃紫の背をぼんやりと眺めていたのも束の間、再度近辺に撃ち込まれた大砲の腹底に響くような爆音に軽く悲鳴を上げた。ここは既に戦場である、ぼんやりとしていれば命が容易く吹き飛んでしまう。
まだ肉塊にはなりたくないと慌てて草叢の中へと潜り込んだ
冴は、そうして戦場から離れるべく雑草を掻き分けながら駆けて行く。
「……」
叢の中へ沈んだ彼女の様子を男が遠巻きに凝視していた事など、
冴は知らないまま。
身を潜めながらも一心不乱に草叢を掻き分けること暫し。不意に雑草地帯が途切れた。
進んだ先に広がるのは、壮大に広がる海。息を切らせていた
冴は身体から緊張が抜けて思わず地に両膝を着いた。ここに兵や船の姿はない。ようやく到来した安堵感に溜息を長く吐き出した。
「た、助かった……」
良かった、と呟いた
冴はしかし、今頃になって膝が笑い始めた事に苦笑を零した。自身が戦場―――戦そのものを怖れていた事にやっと気が付いたのだ。
昔の人は凄い。そう、純粋に思うと同時に彼女の脳裏を過ぎるのは先刻まで言葉を交わしていた老人とは言い難い者の姿。無事を祈る他に出来る事は、おそらく無い。人の命を奪う事は彼女にとってあまりにも重圧で、しかし戦に死は付き物。そもそも、日々精進する兵に勝てる自信も無く。
(本当、情けなくて困ったよ……師匠)
堂々巡りの思考の中、芽生えるは葛藤。
土に強く爪を立てながら、暫しの時を逡巡していた。
(…あの紫の人が島津殿を探してたって事は、奇襲の相手で…多分、大勢の死傷者が出るって事で…)
炎天下の下、身がじりじりと焼ける感覚の中、額から伝い落ちる汗もそのままに、己の影へじっと目を落とし続ける。戦には無関係である筈なのに、怪我人が出ているというだけで背を向けられなくなってしまう。親から常々言われてきた事が、今更足枷となって後退を阻む。
ーー怪我人がいるのに見てみぬふりをするのはろくでなし。貴女はそんなろくでなしになっちゃ駄目よ。
だからといって、戦場に飛び込む覚悟も勇気も無い。つまりろくでなし。
(…戦が終わるのを待って、島津殿を探すしかない)
兎にも角にも、伝が無い現状で言葉を交わしたのはあの老人のみ。彼の無事を祈りながら、徐に立ち上がった
冴は抜けてきたばかりの叢を振り返る。
…躊躇いは数拍。
深呼吸の後、腹を括ると逃走してきた道へ再び飛び込むのだった。
◇ ◆ ◇
彼女の母親は東北、父親は関東南部の出身。当然ながら暑さにあまり耐性の無い
冴にとって、炎天下の中で全力疾走するという行為は実に厳しいものだった。
(…何でこんなに暑いんだ、九州)
そう、内心で呟きながらも道を辿り行く。爆音は引き返している最中に止んでおり、喧騒も聞こえなくなった。戦の終結を可能性として入れてしまえば酷く焦燥に駆られるも、あくまで冷静を保ちながら疾走する。……息はとうに上がり切っている。だが、此処で立ち止まるつもりは無かった。
やがて上り坂を駆け上がった先に生成色の陣幕を捉え、遅くなり始めていた足が自然と早まる。周辺に集う兵が制止を叫び、或いは彼女を追い掛け始めたが間に合わず。陣幕内へ駆け込んだ
冴はしかし……整えるべき息を、止めて。
「何じゃ、
冴どんか」
「よぉ、さっきの坊主じゃねぇか」
「………酒?」
つんと鼻を突く酒の匂い。傷だらけになりながらも楽しげに酒を飲み交わす二人組。あまりにも緊張感のない場の空気に、
冴は思わず脱力した。この状況下を目前にしては、最早無駄足としか考えられない。心配損だと訴えたくもなったが、心配は所詮自身が勝手に生み出したもの。訴えなど身勝手な話である。
どっと押し寄せる疲労からその場にへたりと座り込んだ
冴は盛大な溜息を吐き出す。その姿に豪快な笑いを零した男が杯に並々と入った酒をぐいと煽る。飲み方もまた豪快であった。だが―――あまりにも宴会的な雰囲気を醸している場に違和感を抱いた
冴は、思わず首を傾げた。
「あの……戦は?」
「ああ、最初は奇襲のつもりだったが……天敵の進軍がこっちに反転したってんで、急遽島津と同盟を組む事になった」
「はぁ、同盟―――」
戦国時代、と言えば隣国でさえみな敵同士でありどの国の境でも一触即発という、どこか逸脱した印象を抱いていた
冴にとってはあまりにも和やかな場を目前にただ開口するのみ。これ程までに平穏で良いのだろうか、と。
「元親どん、
冴どんは」
「勿論本人から聞いてるぜ。迷子、なんだろ?」
強調される、迷子、の単語。その様子にむ、と
冴は閉口し眉を顰めるも、どうやら相手方に効果はないようだった。さらに益々不快さを露呈させたところで、男は不敵な笑みを浮かべながら手を差し出した。その掌は
冴の柔な手よりも一回り大きい。
「俺は西海の鬼、長曽我部元親だ」
朗々とした声で、鬼は自身の名をはっきりと紡ぐ。躊躇いなく真直ぐに差し出された元親の手を
冴はおずおずと手を伸ばし、ゆっくりと握り締めた。
「茂庭
冴です」
男の自己紹介に便乗し名を告げたところで、男の動きがぴたりと止まる。手に篭められた力は然程変わらなかったが、一瞬片眉をぴくりと跳ね上げた男は手を握る目前の人物を上から下までまじまじと眺めていた。
「茂庭?聞いた事ねぇな」
「確かに珍しい名字ですけど―――あ」
話の最中、
冴は唐突に間抜けな声を挙げる。そこでようやく自身の過ちを見い出し、思考が硬直した。戦国時代では身分の高い者のみが名字を所持し、それを名乗る事を許される。当然、この時代において
冴の地位は農民同然。安全を保証される事は、まずあり得ない。
「どうなってる」
「おいもよう分からん。……
冴どん」
「いや、元だよ元。今はただの
冴」
「……」
慌てて弁解を述べた彼女へ向けられる、猜疑の双眸。あまりにも気拙い雰囲気にたじろぐ
冴はやがて、見定めているのか沈黙し凝視される中で冷汗を掻きながら口元を引き攣らせていた。勘弁してほしい、と内心で呟きながら閉口し続けていた矢先、その沈黙に元親もまた気拙くなったのか軽く溜息を吐き出してからぐいと杯の酒を呷った。
「……まぁ良いか。あんた、迷子だって言ってたがこれからどうすんだ?」
「え?あー……」
元親に問われ、
冴は今一度思いあぐねる。一先ずは小田原へ行きたかったものの、考えを改めると現代の常識が必ずしも通る訳ではなく、こちらでの“非常識”を振舞えば目を付けられる可能性は非常に高い。帯刀がある程度認められていた時代なのだ、いつ背からばっさりと斬られるか分かったものではなかった。喧嘩の経験も無いため、無闇に行動する事が上策とは考え難い。
一頻り呻ってから、
冴は俯きかけていた顔を上げる。
「…島津殿。此処に暫く滞在しても良いですか?」
「よかよか。おいの為に戦場ば戻り来るおまはんの度胸、まっこと気に入ったど」
快活ながら訛ある言葉を放つ義弘の顔は実に明るい。日本酒か焼酎か、先程から多量の飲酒を行っているにも関わらず老人――と言い難い程元気だが――の顔色は変わらない。ざるだ、と胸中で呟いた
冴は、突如立ち上がった者へと視線を移した。
「さてーーーそろそろ向かうぜ」
「向かうって、」
何処へ、と訊ねかけた
冴の口が止まる。口端をにやりと持ち上げた鬼の隻眼に灯るは、闘気。傍に置いていた碇槍の鎖を引き上げると同時、碇の先を足で踏み上げた元親の手中に柄が収められた。
「言った筈だぜ。天敵が進軍してくるってな」
容赦の無い陽射しが浜辺に照り、強風によって立つ波は荒い。これを良い風と波だと称する元親の、警戒しながらも何処か浮足立つ様を、
冴は彼の部下達に紛れて見上げていた。
島津軍と長曽我部軍が浜辺と海上に配置した兵士達の中、何故か参加しろと強制的に連れて来られた
冴は不安に満ちた顔を元親へ向け、次いで海上を一望する。普段ならば水平線の向こうには安芸の国の陸が薄っすら見える筈だと、隣に立つ源という男が教えてくれた。だが……今は数多の船が水平線を阻む。一際大きな船の左右を挟む多くの船。あれは上陸する兵士が乗っているのだという。
「…船の上で戦うことはあるんですか?」
「あるにはあるが、今回は
頭を纏めて叩くつもりなんだろうよ。
陸の戦いになるだろうな……ま、陸に上がってこれたらの話だが」
え、と
冴の首が傾いたーーその刹那。
腹底に響くような低音を聞き受けて、びくりと肩を竦ませる。一体何処から、と周囲を見回すが音の大元の姿を捉える事は叶わず。が、ひゅろう、と甲高い音が徐々に降下して、最中に海が盛大に弾けた。
それは船の軍勢の手前で多大な飛沫を上げると共に、わっと長曽我部軍が喧騒に包まれる。大砲を撃ち込んだのだと
冴が理解できたのは、二発目が敵軍の舟を一隻見事撃沈させた光景を目の当たりにした為である。
それでも尚敵軍の進行は止まらず、ふと船上の動きを目にした
冴は咄嗟に声を上げた。
「弓矢…!!」
「一旦森に入れ!」
元親が声を張り上げる。ほぼ同時に島津軍と長曽我部軍の兵士達が身を反転し後方の森林を目指して駆け込むが、矢が放たれたのはその直後の事だった。
冴が森へ滑り込み、樹木を背にして座り込む間、耳にしたのは木々の散る音と悲鳴と怒号ばかり。
(…本当に、此処は戦場なんだ)
何故来てしまったのだろう。
何故連れてこられたのだろう。
震える手を誤魔化すように、片手に携えたままの筒を両手で強く包み込む。こうして此処に隠れていれば戦も終わるだろうか。その隙に逃げ出してしまおうか。そんな考えばかりが頭を過ぎりーーー不意に、眼前で膝を屈する男の姿が目に入った。
先程隣に立っていた源だった。苦痛に歪めた顔を地に向け、押さえた肩口には生えた棒と羽根ーー否、矢。
当たってしまったのだ、と
冴は思わず腰を浮かせた。四つん這いで近付き、源の肩口にそっと手を添える。
「頼む、抜いてくれ」
「…分かりました。歯、食いしばって下さい」
男がぐ、と口を引き結んだ様を目にして、
冴は矢を一気に引き抜いた。…血に塗れた鏃。鉄の臭いに、一瞬くらりと眩暈がする。
だがーーー同時に、
冴の中で固まる意志ひとつ。
(…駄目だ。これじゃ、帰り道を見つける前に死ぬ。いつまでも人を頼ってばかりで渡って行ける時代なんかじゃない。自分で生き残らなきゃ)
血に塗れた矢を捨て、源からの礼を受け取ると、立ち上がった
冴は右手に筒を持ち替えた。前方へ突き出した腕へ、その手先へ流し込むは、ごく僅かな魔力。
瞬間、筒から勢い良く飛び出したのは石突と槍の穂先。持主の身の丈を超えたそれを低く構えて、
冴は森から飛び出した。
矢の雨が止む隙を狙い森林から浜辺へ戻ってきた兵士達が目にしたのは、浜辺へ飛び降り来る敵兵の姿であった。
次々に上陸する敵兵を、長曽我部軍と島津軍が迎撃するべく奔走する。だが敵兵の数は多く、浜辺は程なくして混戦と化した。
冴もまた未熟と自負しながらも槍を奮う。敵兵の一刀を受け流し、槍の穂先を突き入れ、蹴り飛ばす。周囲を把握する余裕などあるはずも無く、殺意を向け来る兵士を只管薙ぎ払っていた――その最中だった。
一際大きな衝突音が海上より響いたのは。
思わず振り仰いだのは
冴ばかりではない。敵味方かかわらず、半数以上の者が海上の船へ視線を送る。いつの間にか船上へ上がった元親と対峙するのは、敵軍の大将である、浅緑を基とした具足の青年だった。刀を輪状にした得物なのだろう。振り下ろした西海の鬼の得物を弾く度に金属の衝突音が激しく響く。
「
冴どん!」
「!島津殿、」
「無事でよか、最後まで生き延びんさい!」
「はい…!」
駆けてきた義弘の喝に大きく頷いた
冴は槍を握り直した。…気を取られている場合ではない。此処で落命する訳にはいかないのだ。
そうして身構えた
冴の肩を軽く叩いて、義弘は浜辺の先、舟目掛けて跳躍する。厚みある大刀を担いだ老体とは思えぬほどの俊敏さで舟を飛び渡り、敵本陣とも言える巨大な船に乗り込んでいった。
(…この世界の武将達って、如何なってるんだろう…)
疑問は色濃く。しかしそれを問う余裕は無く、船上での激しい交戦を視界の端に収めながら再び槍を奮うのだった。
激戦が終息へ向かったのは、それから半刻後の事。
敵大将の負傷によって敵勢力が退却せざるを得なくなり、まるで引き潮のように舟が遠ざかっていく。
噎せ返る鉄錆臭の中、浜辺に満ちる勝鬨の声。汗と誰のものとも分からない血水で汚れた頬を手の甲で拭って、
冴は戻り来る二人の武将の姿を見詰めていた。
「よかよか!無事生き延びたのう!」
「ええ、なんとか…」
「迷子の癖にやるじゃねぇか」
「迷子関係ないと思います…」
義弘に背を叩かれ元親に頭をくしゃくしゃと撫で回され、
冴は目を回しそうになりながらも褒め言葉を受け取る。…一先ず、生き延びた事への安堵で一息。体力の限界を迎える前に片が付いて良かったと胸を撫で下ろして。
「そろそろ帰るぜ。また日を改めて来る」
もう行くんか、と問う義弘に軽く頷いた元親は部下に帰還の一声を飛ばすと、踵を返した。ざくり、と砂を踏み締め浜辺を歩き出した元親はしかし、視界の内から消えた存在を再度収めるべく半身を振り返らせた。紺碧の隻眼が目を付けたのは……加賀出身の迷子へと。
「見送りに来い」
「へ?」
彼女の襟元――彼女が着ていたのはYシャツ――を軽く掴み引く元親に、
冴は動揺を窺わせながらも足を縺れさせつつ連行に従う。足を動かさなければ首が絞まるのだ。故に仕方なく同行し、コンパスの差がありながらも
冴は必死で着いて行く。
元親の部下に囲まれるようにして歩いていたが、暫くすると襟元を離され、そこで漸く元親の隻眼が傍らへと下ろされた。
「もしかして、あんた…今回の戦いが初陣だったか」
「そう…なりますね」
「なら、悪かったな」
え、と
冴の眉尻が下がる。予想外の謝罪にどう反応するべきか思いあぐねたが、一先ず首を横に振るだけに留めた。正直、
冴が記憶する戦国時代の知識は義務教育で受けた必要最低限のものである。初陣とは気にされるほど大事なものなのだろうか。
そう、ぼんやり考えながら歩を進めーー最中、視界に入った山影にふと足を縫い止められた。
これまでは森に阻まれてよく見えなかったが、そこには大きな山が在った。…そう、誤解したのは刹那の間。
少しばかり目を凝らした先には、海に浮かぶ「建物」があった。少なくとも船の形状ではない。巨大な何層もの櫓を組み上げ、その頂に長大な鉄の筒が傾斜をつけた状態で固定されている。
先程敵軍の上陸前に撃ち込まれたのはこの大砲だったのだ、と漸く結び付いた
冴は絶句したまま「建物」を見上げていると、傍らに立つ元親が豪快な笑い声を上げた。
「大分驚かせたみてぇだな!こいつは移動要塞富嶽、どうだ、凄いだろ!」
「これ…元親殿が?」
「おうよ!」
「凄いどころの騒ぎじゃないですよ…!」
冴は愕然とした顔のまま、自慢気に語る要塞の主を振り仰ぎ見る。地上での築城ならまだしも、海上に移動式の城を造り上げるなど初耳にも程がある。史実には確実にない眼前の建物。矢張り此処は捻じ曲がった世界の戦国なのだと痛感していた最中、不意に肩を叩かれる感覚がして元親が立つ方とは反対側を振り返った。
「どうだ、アニキは凄ぇだろ!」
「あっ、さっきの…肩の傷は」
「これぐらいの傷なら何ともねぇ。ありがとうな。それより、アニキの造った富嶽、かっこいいだろう!」
「これなら天下取れちゃいそうですね…」
「おっ、言ってくれるねぇ。悪くねぇ褒め言葉だ」
そう口にしながら隻眼を細めて笑う男は大分嬉しそうに見受けられる。がたいの良い男の、どこか少年を思わせる複雑さの無い笑みがひどく意外だった。
…もしかしたら、思ったより悪い人では無いのかもしれない。
「野郎共、全員富嶽へ乗り込め!出立の準備だ!」
「了解です、アニキー!!」
元親の声量に負けじと上げる男達の声が反響する。渡板をばたばたと駆け上がり、富嶽の入口へ飲み込まれていく屈強な男達の後ろ姿を茫然と見送っていた
冴であったが、不意に頭部へ置かれた温かな重みに思わず視線を持ち上げた。
「またな、
冴。鬼島津に宜しく頼むぜ」
少女の頭を一頻りわしゃわしゃと撫でると、濃紫の衣が翻る。部下達と共に富嶽へ乗り込んでいく後ろ姿を茫然と見送りながら、荒れ放題の癖毛を手櫛で静かに直すのだった。