「いいかい?この箱は私が知人から譲り受けた曰くつきの物だから、素手で触れてはならないよ」
いつになく念押しされた忠告を聞きながらも、彼女は葛藤の末に好奇心を水面上へと押し上げた。だが―――初めて支払うべき代償は、予想よりも遥かに大きなもので。
1, 好奇心>恐怖>不安
何故だ、と。
そう、先刻より何度も疑問を復唱する
冴は頭上に響く野鳥の声を聞きながら、草叢の中で呆然と佇んでいた。
周囲は前後左右へ伸び伸びと張り出した木々に囲まれ、空を仰ぎ見ようにも生い茂る深緑で覆われているばかり。木々の間を縫うようにして降り来る木漏れ日も極僅か。鬱蒼とした印象が一層不気味な雰囲気を醸し出して、彼女の身をひとつ震わせた。
(落ち着け私。師匠が出掛けてる間に地下工房で触れたのは確か蛇の脱殻と烏の羽根と…)
二つ目までの指をしっかり折って、三つ目の中指を折りかけたところで
冴の顔は凍りつく。黒棚に置かれた新顔の存在―――好奇心のあまり、指で軽く突っつくだけならば問題はないだろうと高を括った、その結果が今現在。
(結局自業自得…)
迷子になり頭を抱える、十八なりたての春。
涙目のまま忙しなく周囲を見渡した
冴は次いで、太めの樹木を探した。家の裏が山だったので、木登りは幼い頃より得意だった。が、そのお陰で四肢は女性の柔らかさを失いつつある。尤も、本人は嫌悪など微塵も抱いてはいないが。
(何処よここ……何処まで森なのよ…帰りたい帰りたい帰りたい…)
まるで詠唱のように呟きながらも、適当な木を見つけるなりするすると登っていく。全ては帰路を探すために。
ようやく木の頂上――とはいえ本当に上まで行くと折れるので、折れないギリギリのラインで留まった。
四方を見渡せど木々は続くばかり。思わず涙が目から溢れそうになった
冴はふと後方に上がる微かな煙を視界に捉えて、瞠目。慌てて木伝いに降り、ぬかるむ腐葉土に足を取られそうになりながらも必死に駆けた。煙が立つという事は、人の存在があるという事。これぞ狼煙だと内心過剰にはしゃぎながらも煙の見えた方角へと向かう。
だが――全力疾走の末、やがて見えてきたものに、歓喜と期待が根こそぎ奪取される。眼前に広がる悲惨な光景を前に、愕然とするしかなかった。
広大な野原だった場所は一帯が焼け、所々に黒焦げた物が落ちている。辛うじて残っていた布の切れ端には風にはためいてよく見えなかったが、少なくとも旗のようだった。見慣れない模様――否、家紋と、地に突き刺さる刀が戦地である事を物語る。
刹那、
冴の脳内に響くは警告音。今すぐ逃げろと彼女の勘が訴え始めた。
「うぇ……吐きそ…」
思わず屈み込んだ
冴は両手で口を覆い顔を歪めた。立ち込める生温い空気は酷く不快を齎し、気を滅入らせる。風に乗る焦げた脂の臭いに、えずきかけ地に手を着いた――その直後。
「こげな場所で何しよっとね」
独特な訛りのある言葉を聞き取って、
冴は瞬時に体を硬直させた。体内を駆け巡る緊張に負けまいと恐る恐る振り返った先……やけにガタイの良い老人が大刀を肩に乗せたまま立っていた。
胸中で叫ぶ叫ぶ叫ぶ。
いつ何時でも悲鳴を挙げるのは恥と教え込まれた者にとっては当然の事だが、内心は意外と顔に出るもの。文字通り点と化した眼に引き攣った口元――その形相はある意味凄まじい。
―――体、真っ二つにされるのでは。
そんな最悪の想像が脳裏を占めて、恐々としながらも巨躯の老人を見上げ続ける。老人は目前の少年――少なくとも少年に見えた――の様子を可笑しく思ったのか、大刀を地に突き刺し身を屈めた。膝に手を着き、そのまま首を傾げる。
「見ての通り、此所ば何も残っとらん。探しもんなら他を当たるがよか」
「……そっか……みんな、焼けたのか」
「戦はよう火を使う。おいの国も、余所ん国も―――その度に畑や野が犠牲になるんは心苦しいがのう」
過分は魔術師の本分ではないという師の言葉を思い出して俯く。魔女が時折言っていたのはこの事なのだと痛感してしまった。…火が多ければ、眼前の黒焦げた風景のように、何もかも焼き尽くしてしまうのだと。
未だ燻り立ち上る煙が風に靡いて細く伸びる。その光景に虚しさを覚えながらも心中を語る老人はしかし、すぐに視線を少年へと戻した。改めて身形を認め、そこでようやく老人が思い至った事はただ一つ。
「何じゃおまはん、迷子か」
「……え?」
老人の脳内で迷子という定位置を得た
冴はしかし、今現在佇む地の説明を受けて絶句し、次いですぐに事情を咀嚼し飲み下そうと思考を回し始めた。
ーーまず、今は戦国時代であること。
今川が健在していることから、織田による火蓋は未だ落とされていない。そして此処は薩摩―――真幸院という地域内に構えられた飯野城を居城として薩摩の地を統治しているのが眼前の老人――島津。名を義弘という。
戦跡を離れるため、歩きながら説明を聞き受けた
冴の顔はみるみる内に青褪めていく。戦国時代と言えば既に四百年以上も昔の話だ。タイムスリップしてしまったのはやはり、あの箱に触れた所為なのだろう。忠告を無視した事に絶大な後悔を抱きながらも、
冴は隣を歩く義弘へおずおずと声を掛けた。
「それで、島津殿……」
「ん?」
「私、小田原に行きたいんですが…」
何としても帰路への手懸りを探さなければならない。それには賑いのある城下が一番情報を得やすい場所であると思い至った
冴が選んだ地は、小田原。城下の繁盛は有名だったために、彼女の中でまず一番に挙がったのだが。
途端、
冴の言葉に難しい顔をした義弘は立ち止まり、僅かに呻る。
「小田原なら馬ば十日以上、船でも三日以上は掛かっとね」
「十日以上、って……」
「どげんして向かうか、それば決めるんは
冴どんじゃ」
選択肢は二択。
当然ながら、新幹線や飛行機といった交通手段があるはずも無く、九州と関東の距離を理解させるを得ない説明に
冴は思わず盛大な溜息を吐きたくなる。……だが、此処で立ち止まっている訳にはいかない。タイムスリップは衝撃的であったが、今は思考を完全に切り替えて帰り道を探す為の行動に専念する事とした。
―――となれば、時間は非常に惜しい。
「……とりあえず、船で行こうかな…」
「馬も船も四国の土佐もんがよか」
「土佐?」
土佐―――その地名に聞き覚えのあった
冴は、一先ず相槌を打つべく頭を傾け、
「!」
刹那、背後より聞こえ来た爆発音に勢い良く振り返った。振り仰ぐと同時に、遠方で火の手が上がる。おそらくは撃ち込まれた大砲によって地が砕けたのだろう、二者の頭上からは土塊が雹のように降り掛かり始めている。
突然の事態に顔を顰め緊張を走らせた二人の元へ、やがて駆けて来る男の姿がある。武装を纏い、片手には既に刀が握られていた。
「島津どん、奇襲じゃ!」
「―――!」
奇襲、との報告を受けた義弘は大刀を握る手に力を篭め、すぐに隣を振り返った。関わりの無い少年を巻き込んではならないと、直ぐ様怒号にも似た声音で催促を飛ばす。
「
冴どん、逃げんさい!」
「は、はい……!」
若干たじろぎながらも義弘の指示に頷いた
冴は慌てて駆け出す。また一つ遠方で爆発が響き反射的に身を竦めながらも、止まりかけた脚を叩いて動かした。
道なりでは流石にまずいと、途中から身の丈以上ある草を掻き分けて進む。義弘の無事を願う余裕もなく、息を切らせながらも前方の草束を分け―――途端、景色が開けた。
晴れ晴れしい蒼穹の空、深みある青々とした海。二つの青、その水平線上に挟まれるようにして浮かぶ、巨大な木造の。
(船―――まずい、逆方向か!)
さっと顔色を青くした
冴は慌てて戻るべく、なおかつ船の者に見つかるまいと身を低くして草叢に戻った。道から逸れない方がまだ良かったのかもしれない。そう、今さらな後悔も既に遅し。
何処かでやけに甲高い音と連なる鎖の音が響く。それはやがて徐々に近付いていき―――瞬間、悪寒が背を駆け上がる。直感に従い咄嗟に真横へ飛び退いた直後、深緋の波が草叢を疾走した。
瞠目する暇は無い。奇襲と言うからにはそれなりの戦法があり、さらには火力に頼る可能性も大きい。ならば今真横を走った直火は奇襲を掛けた敵のものに違いない。
草を踏み締め、
冴はさらに走り出す。タイムスリップを完全に受け入れきれていない者にとっては非常に苛酷な状況であったが、文句を言ったところで何が変わる訳でもない。……そう冷静に思案するのは、今現在魔術師としての思考へ切り替えている所為なのだろう。
(このまま進んで、)
……進んで、道なりに戻ろうとした。
彼女の身は既に草叢と道の間へ出掛かっている。だが、彼女は足を止めて硬直した。遠くからは爆撃音が続いている。しかし逃げ出す為の足は張り付いたように動かない。
なぜなら
冴の目前には、陽を遮るものが制止したのだから。
翻る濃紫の裾衣。四肢を覆う銀の冑。肩に掛けるだけの上着、その袖が道へ雪崩れ込んできた爆風にはためく。片手に握られた、身の丈以上ある槍――穂先に鋭利な碇が接合された、鈍色を放つ碇槍。靡く銀の短髪。透き通る紺碧の隻眼は今、僅かに細められて。
「よう」
(一触即発)