/十五.(5/5)
一応予定の通り奥州を訪れた慶次を客間へ案内した小十郎だが、政宗が客間へ現れると同時に下がるよう命じられた。
普段ならば彼のやや背後に控えているが、慣れた客という事もあるのだろう。無害は明白ゆえに、小十郎も命令に反論一つせず下がり客間を後にした。
次に彼が気に掛かったのは、主君を呼びに行った彼女の行方だった。大方いる場所は予想できるが、念の為に確認へ向かう。曲折の多い廊下を歩き、彼の自室を過ぎたところで、障子の解放された部屋にぽつんと立つ紺の髪の女性が見えた。
「
ネア」
名を呼ばれた彼女は廊下の端に目をやり、軽い瞠目を見せる。戻ってくるとは思わなかったのだろう。彼女の目の色が驚きから怪訝に変わるまでそう時間はかからなかった。
「小十郎…良いのかい?政宗の傍に控えていなくて」
「今更奴に見張りが必要なのか」
「…ああ、いや。そうだったね」
今日の客人は、無害。それを思い出せば、
ネアの顔が少しだけ綻んだ。久方ぶりに訪れた客人との再会は彼女にとって嬉しいものであったが、男にとってささやかな嫉妬を抱かせるものだとは、知る筈もなく。
「それより、障子を閉めろ。冷えちまうだろうが」
「空気の入れ替えをしていただけだ」
「だからといって全部開ける必要があるのか」
そう言いながらも障子を閉ざしていく小十郎の姿を眺めて、
ネアはすまないと小さく謝罪をしながらも笑みを浮かべていた。反省の色など微塵も無い。
最後の一枚をようやく締め終えて、彼女の微笑を目にした小十郎は表情を曇らせる。怪訝気な顔が語るのは、不満。今の障子の件といい、先程政宗から耳打ちで受けた件といい。自身の体調を省みる気は無いのだろうか…と。
「
ネア。政宗様から聞いたが、また刀を握ろうとしていたらしいな」
「それは心外だ。政宗が使用していた木刀を眺めていただけではないか」
「その口調なら、嘘か」
「……」
「俺はもう少し待てと言った筈だ」
拗ねたようにふいと顔を逸らした
ネアの姿に、小十郎は思わず眉根を寄せた。子供染みた行動の意味を知ってはいるが、それでも反抗的な態度は少々戴けない。
「ほう……俺に叱られてぇと見える」
「誰がそんなこと、」
「なら目を逸らす必要はねぇ筈だろうが。冷えて鈍くなった手で刀を持つ事がどれだけきついか、お前はよく知っている筈だと思ったんだが…どうやら俺が勘違いしていたらしいな」
外の空気は意外に冷ややかだ。長い療養期間のせいか血の巡りが若干悪くなった
ネアの手が今冷たくなっているであろう事も、小十郎は容易に察していた。
ネアの袖に隠れかけた右手を手に取れば、指先がすっかり冷え切っている。その手が抵抗の意思を以て振り払おうとしたが、彼は手を掴んだまま彼女の体を抱き込んでしまった。
最初こそ腕の中でもがいていた
ネアはしかし、やがて諦めて大人しくなると彼の胸に額を押し付けた。…顔に熱が昇る感覚。
自分が今どんな顔をしているのか、容易に想像がつく。
「……子供のような扱いは止めてほしいのだが」
「馬鹿言え、俺に稚児趣味はねぇ」
「いや、そういうわけではなく…」
―――恥ずかしいのだが。
その言葉が中々言えずに躊躇って、結果、再び俯いた。武骨な手にそっと頭を撫でられる感覚が幼子をあやす大人の手を髣髴とさせる。
稚児趣味が無い事など分かっている。あればどん引きだ。
そんな心の声を発しながらも、
ネアは腕の中に収まり続けていたのだが。
やがて、人肌の温かさが睡魔を手招く事態にまずいと感じながらも、安心感にずるずると引き摺り込まれていく。ふわふわと浮くような意識の中でそっと目を閉じた、刹那。
「
ネア、上を向け」
「ん…?」
言われるまま見上げた
ネアの口元に、柔らかな感触が降る。
視界一杯に広がる男の顔と、触れるだけの口付け。急に与えられたそれが、
ネアの睡魔どころか羞恥を一瞬吹き飛ばした。
「…意外と柔らかいな」
「言葉にするな」
「いや…だって、わたしよりも柔らか、…ん」
二度目は、少し深く。
ネアの言葉を塞ぐように重ねてから、何度か角度を変えて啄むような口付けを落としていく。
元々の文化の違いもあってか、小十郎の行為を不慣れに感じた
ネアはしかし、彼の瞳の奥で理性が揺らいだ気がした瞬間に口を閉ざした。
下手を言えば、食われる。そんな自身の直感を信じて。
「っ…これでもまだ子供扱いだと思うなら先に進むぞ」
「いい…進まなくていい」
脅しにも似た言葉を吐く小十郎を視界一杯に捉えたまま、直感は正解だった、とは間違っても口から滑り落とせなかった。
「…洗礼名だな」
「っ…待て、何を想像した」
隻腕で髪を結い上げるのは大層難儀だ。故に小十郎は進んで彼女の髪結いを手伝い――時には女中からの申し出を断ってまで――、今や後頭部まで髪を持ち上げ綺麗に結い上げられるまでに上達した。彼の心中が思わず口から洩れたのは、その最中の事。
怪訝そうな面持ちで振り返ろうとした
ネアの頭部を、小十郎が両手でがっちりと固定して振り返らせなかった。
「お前の姓が変われば、洗礼名のようだと思っただけだ」
「想像するんじゃない…恥ずかしい…」
「そう恥ずかしがるな。お前を娶るんだ、考えてもおかしくはねぇだろう」
「ああ、そう………え?」
彼が頭上で、それはごく当たり前のように告げたものだから、
ネアは危うく聞き逃しそうになった。
珍しくぽかんと間の抜けた顔をした
ネアに、小十郎は彼女の髪を弄りながら笑う。
「あの告白を受け取ったって事は、つまりそういう事だ」
「っ…」
―――俺と地獄に堕ちてくれ。
今振り返って、とんでもなく物騒な告白だと、
ネアはしみじみ思う。もっとも、そう思ったのは当人もまた同じだったのだが。
それ以降口を閉ざしてしまった彼女の様子を気にかけた小十郎は、顔を若干斜めにずらして顔を覗き込もうとする。火照ったような頬とほんのり赤い耳。別段熱があるわけではない。だからこそ、小十郎はつい揶揄しそうになって、手前で踏み止まった。
「どうした」
「…何でもない……」
読み取った彼女の心中を敢えて尋ねようとした小十郎であったが、
ネアはただかぶりを振るのみ。
今までに無かった胸の昂揚にどうすればいいのか分からず、かといって頭上の男に問う事も憚る。結果、髪が結い上がるまでに熱が過ぎるのを待っていたのだが。
小十郎が彼女の髪を結い終えたのと、庭の方から青年の声が聞こえたのは、ほぼ同時だった。
「…ああ。慶次に話すのを、忘れていた」
「大分心配していたらしいからな。しっかり話してこい」
「そうするよ」
軽く背中を押した小十郎に送り出されるまま、
ネアは廊下へ足を踏み出す。ひたひたと歩き、若干小さくなった彼女の姿を見送るつもりだった小十郎であったが、視線の先でふいに
ネアの身が反転した。
後頭部に結わえたばかりの髪一房が曲線を描くように靡く。
「ああ、そうだ……一つ聞いていいかい」
「俺が答えられるものならな」
何だ、と続けて問うた小十郎に、彼女は浮かべていた微笑を次第に消失させていく。今しがた流れた穏やかな空気には、彼女の言葉によって僅かな緊張感が加えられた。
「もしもわたしが死んだとき、お前は傍で泣いてくれるか」
喪った左腕。繋がりを断たれた部位を右手で押さえ、緊張と不安を綯い交ぜにしながらも問うた
ネアは、しかし。
暫く彼女を見詰めていた小十郎が突然零した溜息と首を傾ける仕草に眉を顰めた。
「さぁな」
「さぁな、って…小十郎、お前」
「死に顔によっては笑うかもしれねぇな」
「どうしてそうなる」
真剣な話にもかかわらず、まるで冗談に聞こえる返答を
ネアは不満に思う。勿論物騒な質問であるし、乱世を生き延びて長い余生を送る場合を考えればその時はどうなるか分からない。
それでも、嘘でもいい。一つ頷いてくれるだけで良かったのに、と。
そう、
ネアが不服を心中で沸かせていた最中。今度は小十郎からの問いが挙がった。
「お前はどんな顔で最期を迎えたい」
「それは…まぁ、顰め面は嫌だな」
「だろう。だったら心配するな」
それは――
ネアにとって――ひどく珍しい彼の反応。普段は一見強面に緊張と警戒を湛えた男の頬がふっと緩んで、笑ったように見えた、刹那。
「俺が傍にいる」
小十郎のその一言が、彼女の不満を一瞬にして吹き飛ばした。
鳥の囀りも、庭から近付いてくる声も、彼の真摯な言葉を受け止めた瞬間に聞こえなくなる。排除、される。
彼が心底から告げた言葉を疑う余地は
ネアには無く。ただ呆然として、みるみるうちに豹変していく顔を、残念ながら小十郎が鮮明に捉える事は無かった。
きれのある反転を見せた
ネアの横顔。垣間見たその表情はばつが悪そうに顰められていたが、ほのかな赤みが差した瞬間だけはけっして見逃さず。
そっぽを向いたまま廊下を降りて庭を歩いていく姿に、小十郎は呆れ混じりの嘆息を小さく吐いた。
「……素直じゃねぇのは元からか…」
地を蹴るように大股で遠ざかる後姿を眺めながら、どうしたものかと口外へ呟くように零した小十郎はしかし、言葉とは裏腹に口の端が持ち上がっている事を彼自身気が付かないまま。
遠方から聞こえた慶次の“その顔どうしたんだ”と騒ぎ出す声と、それを一喝する彼女の大声。二人の大声量でのやりとりに耳を傾けつつ、ふと目の端に映り込んだ小さなものに気が付くや否や庭の方へ視線を転じる。
そこには庭の隅に立ち枯れた細樹の枝先、季節外れの芽がひとつ花開く。
あれが彼女の意中であればと密かに願いながら、庭へ降りた小十郎はその小さな花にそっと手を伸ばしていた。
春の訪れは、まだ遠い。
- 了 -