/十五.(4/5)


　誰もいない庭の片隅。
　そこにひっそりと生えた唐橘の鋭利な葉を、落ちかけた白い小花を眺めては、小さな溜息を吐く。
　別に思い詰めている訳ではない。悩みも無い。だが、一人でいると寂寥にも似た負情が心の片隅をじわじわと食んでくる感覚に耐えられず、つい外に出てしまう。仮令それが、竜の右目に止められていようとも。
　左腕を失って早一月。
　隻腕での生活にも少しずつ慣れ始めてきたネアは体の調子も十分に整え終えて、少しばかりの余裕が表れ始めていた。
　そこで活動範囲を少しずつ広めてはいるが、外となると小十郎が判断を渋る。それで仕方なく、ネアは彼の目を盗んでは庭をこっそり散策していたのだが。

「ネア！！」
「！」

　足音と共に聞こえる呼び声。それが誰のものかを察するよりも早く、庭伝いに屋敷の角を曲がってきた男を視界に捉えた。遠方からでも分かる豪奢な傾奇者。紅の袖、黒の木目細かい鎖帷子、まるで女性に負けじと伸ばされた茶色の長髪―――

　慶次、と小さく口にした瞬間ネアは焦燥に駆られたが、今の彼女は追い払う術を持ち得ていなかった。
　慌てて駆けて来た慶次の、勢い余って蹈鞴を踏む姿を見たネアが思わず二、三歩足を引く。

「お前…わざわざ来てくれたのか」
「独眼竜も片倉さんも怪我したって聞いて居ても立ってもいられなかったんだ。色々あって一月もかかったけどさ…でも良かった、ネアは元気そ――」

　彼から距離を置こうとしたネアの身体が、刹那に翳る。
　大股で彼女に近付いた慶次の安堵に満ちた声は、伸ばした手が掴んだものによってぶつりと途切れた。眼下にはしっかりと掴んだ、左腕の袖。…だが、そこにある筈の中身は無い。
　結果、袖だけを掴んだ慶次は驚きに目を見開かせたまま、思わず手前へ引っ張る。

「へっ？」
「ッ、馬鹿…！！」

　不意打ちに身構える間も無く、体勢を崩したネアは蹈鞴を踏み何とかその場に留まった。左肩からずり落ちそうになった着物を慌てて引き寄せ、ぱっと袖を離した慶次から再び距離をとる。彼の愕然とした顔は、左袖に釘付けられたまま動かなかった。

「…ネア、その腕……」
「色々あってな。失くしてしまったんだ」

　そう、右手で左の肩口を押さえたネアは微苦笑を浮かべる。単に落し物をしただけのような、比較的明るい声音。それが慶次をさらに愕然とさせた。

――片腕を失うほどの不手際。
　そこで慶次が思い当たったのは、二月前に小田原で起きた大戦だった。
　豊臣軍が各地に残した爪跡は規模が大きく、加賀もまた例外ではない。……そして、この奥州もまた被害を受けた事実を、慶次は此処へ来るまでに目にしてきた。
　弔われた者達の墓の群集、隅に寄せられた戦の残骸、僅かに崩れた屋敷の壁。
　…だが、よもや手練れの彼女が片腕を喪失したなど予想できようか。
　微かに表情を曇らせながらも苦笑を浮かべるネアを眼前に、言葉を失って、立ち尽くす。その矢先だった。

「ネア！」
「ああ、小十郎。賓客は客間に案内すれば良いかい？」
「俺が代わる。お前は政宗様に声をお掛けして来い」
「はいはい。相変わらず過保護気味で」
「何か言ったか」
「いいや何も」

　二人の元へ大股で歩いてきた男はやや渋い顔を瞬きする魔女へ向ける。相変わらずの態度に呆れながらも、行け、と最後に指示を伝えれば、彼女は渋々歩いてきたばかりの廊下を引き返していった。

「…なぁ、片倉さん」
「奴の事は後で話してやる。行くぞ」
「あ、ああ……」

　複雑な面持ちで声をかけた慶次の言葉に対して、先手を打つように先導の旨を伝えた小十郎はそれ以上の言葉を紡がずに客人へ背を向ける。此処ではけっして語らぬと言外に告げる広い背に、先導を受けて歩き出す慶次はそれ以上声をかけることができないまま。








「政宗公、慶次が来たよ」
「！…随分早かったな」

　振り下ろした木刀を片手に額の汗を拭った政宗は、軒下を歩いてくる人物を庭から認めるや否や隻眼を細める。この屋敷で政宗を公と称する者は一人しかいない。ゆえに、陽が切り取られて薄暗い軒下でも彼女を判別する事ができた。
　先に客間へ通しておけ、と短い言伝を頼もうとした政宗の左目が、ふいに留まる。陰翳に慣れ始めた眼はネアの眼差しを捉え、それが己の手中に据えられていると知った瞬間、彼女の心中が垣間見えた気がした。

「……」
「……」
「……、」
「やらせねぇよ」
「…ちっ」
「おい、主君に向かって舌打ちすんな」

　本来ならば無礼にあたる行為を、政宗はここ一月の間接する度に目にしてきた。それが自分に対する反抗ではなく、己の腹心へのささやかな対抗だと気付いたのは、果たしていつだったか。
　念の為に指摘を入れた政宗であったが、彼女はすまない、と小さく謝罪を述べて間も無く隻腕を胸元へ掲げてみせる。

「だが、右腕で十分戦える」
「言っとくが、たとえ戦えたとしても後々小十郎から説教を受けるのは俺だからな」
「む…」

　途端、双方の顔色がほぼ同時に曇った。
　竜の右目の説教。その恐ろしさと辛さを身に染みて分かっている政宗とネアにとって、それは回避しなければならないものだ。そして彼女を説得させる政宗の奥の手でもあったのだが。

「俺が来るまでは触るなよ」
「ああ、分かってるさ」

　政宗の予想通り、諦めたように肩を落として縁側に腰を下ろしたネアを見やりつつ、廊下に上がるとその背後を横切っていく。少なくとも彼女は小十郎が来るまでの間大人しくしている筈だ、と。ここ一月で覚えた彼女の行動手順を振り返りながら自室へと向かっていった。




















「―――……そっか…片倉さんが」
「伊達軍の壊滅を回避するには必要な犠牲だった。それは奴も理解している」

　所在一転。着替えを済ませた政宗は客間へ向かい、慶次との再会を果たしたが、彼が訪ねてきた訳を概ね予想していた。
　彼女が腕を喪失した経緯を明かせば、胡坐を掻いた慶次は僅かに俯く。あのとき、もう少し早く説得できていれば小田原への侵攻も、彼女が腕を失う事もなかったかもしれない…と。

「腕が無くなっても奴は奴だ。あまりoverな反応はすんなよ。アイツもなるべく面に出さねぇようにしてるからな」
「だけど…」

　まるで先を読んで告げたような政宗の言葉に、言い返そうとした慶次はしかし、口を噤んだ。…既に失ったものに対して言葉をかけるのは、彼女にとって傷を抉るようなものだろうか。
　対面者を見、再び思い詰めたような表情で俯いた慶次に、政宗は思わず呆れ混じりの嘆息を吐いた。気持ちは分からないでもないが、余計な言葉で新たな火種を作るのは勘弁してほしい、と。

「――それと、アンタがあの山猿を助けた件について何も言うつもりはねぇ」
「っ…」
「安心しろ。喧嘩を吹っ掛けて来ねぇ限り討つ気もねぇよ」

　政宗が早々宣言した、慶次のもう一つの懸念。彼の言う山猿とは、二月前に小田原で政宗と一騎打ちを果たした豊臣軍大将を指す。死闘の末に政宗が勝利を得はしたが、止めは刺さなかった。その理由を慶次は知らず、その後重傷を負った秀吉を“友”として助けた事もあり、聞くにも恐れがあったのだが。

　緊張を抱いていた慶次は彼の言葉を確と聞いて胸を撫で下ろし、背を僅かに丸めた。
　しかし、次いで彼の心中に別の疑問がふっと沸いた。

「……片倉さんは、どう思ってるんだろうな」
「本人に聞けよ。…聞く勇気があるならの話だがな」
「さっき会ったけど、流石に怖い気がするよ…はは…」

　此処へ来るまでに隻腕となった彼女と対面した。それだけでどこか不機嫌に近い様相をしていたのだから、尋ねる為には睥睨を受ける覚悟で向かわなければ。
　乾いた笑いを浮かべながら頬を掻く慶次の姿から、政宗は僅かに隻眼を逸らした。巻き添えだけは御免である。

　…と。
　そこで政宗が何かをふと思い出したようにああ、と声を上げると、どこか生温い空気を払うように一変、明るい声音が部屋に響いた。

「ついでに加賀へ目出度い土産話でも持って行けよ」
「え…？」
「まだ本人には話しちゃいねぇが、どうせ時間の問題だ。近々やるだろ」

　何を、と尋ねる慶次に向かって、政宗の口元が弧を描く。まるで悪戯を思いついたような顔をしてはいたが、目出度いという言葉が慶次の胸に引っ掛かり、思わず身を乗り出すように上体を傾ける。
　いくらの間も置かずに政宗が切り出したその話題は、慶次を嬉々とさせるには十分な一報だった。