門への道を断ち塞ぐ、紺碧の火焔。
魔女の背後一線に迸るそれは揺らめく壁と化し、男の進路を阻む。僅かに身を捻って出来栄えを確認する
ネアは、満足したように首肯していた。
「ふむ、二日は保つかな」
「私の目的を聞いていなかったのか」
「これは保険だ。…お前以外の敵を入れてしまわない為の『城壁』」
彼女が強調した単語を聞いた途端、三成の銀髪に隠れた柳眉が不快からぐっと寄る。あくまでも城や兵の護りに徹する、その生温さが余計に彼を苛立たせるなど、
ネアは知る筈も無く。
「そんな事はどうでもいい。私の目的は貴様を連れて行く。ただそれだけだ」
「ああ、そうだったな」
風が吹く度に棚引く火焔を背に、下段に構えた
ネアの双眸は真正面へ。隻腕のリスクを覚悟の上、男の得物を取る手が動いた瞬間、全力で地を蹴り上げると共に刃を振るうのだった。
/十五.(1/5)
彼が己の浅はかな思考を呪ったのは、かの日の戦――人取橋の戦以来だった。
「此処は我々が」
「ッ…!」
腹心含む部下達の頭を垂れる姿は政宗の後悔を一層強くする。彼らの発言が強気に過ぎない事は十分に分かっていた。それが、主君を信じているが故の強気である事も。
南進の最中、早馬の一報が入った。
豊臣軍が加賀へ向かうという、予め得ていた情報は敵方の策だった。豊臣軍が目指す先もまた小田原。加えて、別動隊が進軍中の伊達軍を目指し、既にすぐそこまで迫っているという。
急襲に応対はできる。だが、体力を消耗したまま豊臣軍本隊、十万の兵と衝突する事は無謀にも等しい。別動隊をすり抜けて小田原を目指そうものなら、挟撃を受けた果てに伊達軍は壊滅するだろう。
八方塞の危機に込み上げる焦燥が思考を鈍らせる。冷静を掻き始めたそのとき、腹心から挙げられた策に耳を傾けた政宗は苦渋の末、圧し切れない感情を拳に決断を告げるのだった。
斥候に紛れて駆け去る政宗の姿を、小十郎は慌しく動き始めた本陣から見送る。読みが正しければ、別動隊は遊撃を躱して本陣に突撃する。尖兵を叩く事は無いだろう。
(無駄な時間を割きたくねぇのは、互いに同じだからな)
主から頂戴した替えの陣羽織を肩に掛けると、降りた陣幕を確認して背を向ける。馬蹄が地を叩く轟音は足裏に響き、急速に近付いてくるのが分かる。
陣幕の内に緊張が張り詰めた、刹那。陣羽織の衿に片手を添えた小十郎はただ一言、直感から鋭い呟きを発して。
「―――来る」
その声を誰が聞き拾う間も無く、陣幕が裂けて落ちる瞬間を、目の端ではあるが確かに捉えていた。
――次に来るのは鉄砲隊だ。
急襲に備えて立て回した戸板の位置を確認した小十郎は一歩、構えを指示する声を聞くと同時に踏み出す。ここまで誘き寄せたのなら、影武者は不要だ。的になる必要も無い。
どっと押し寄せる喧騒を冷静に聞いていた男の耳に突如飛び込む、乾いた爆音。誰かの叫び声に重なったそれらを断ち切るように、小十郎は一部貫通した蒼の陣羽織を勢い良く脱ぎ捨てた。
露になる背の七日月。狙った筈の目標が全く異なる対象であった事実に、来襲者は動揺を隠せずにはおれなかった。
「…!君は、」
「残念だったな、竹中。此処に政宗様は居られねぇ」
鉄砲隊の構えが僅かに崩れる。目標とするべき者の姿はどこを探しても無い。彼らは動揺から思考を鈍らせたが、ただ一人、別動隊を率いる軍師だけが現状を早急に理解した。
逃げ場の無い場所へ追い詰めたつもりだった。にもかかわらず敵軍の将が見当たらないのは、おそらく腹心が斥候に紛れて逃がしたのだろう。
見事だ、と。
打倒独眼竜を目的に別動隊を率いてきた半兵衛は内心竜の右目に感心を抱く。…抱いただけに、自軍の兵へ包囲の指示を出す事をひどく惜しく思う。
「―――そうか。残念だよ、片倉君。君の才を此処で潰してしまうなんて」
「御託はいい。此処で潰れるのはてめぇの方だ、竹中。覚悟はできてるだろうな」
黒龍を引き抜いた小十郎の腹がじくりと疼く。正確には、塞がった腹の傷。それも当然だ。今眼前に立つのは、己の腹を穿った張本人。三度目にしてこれが最後の対峙となるのだから。
「それはこちらの台詞だよ、片倉君」
半兵衛が鞘から引き抜いた凜刀は真っ直ぐに対峙者へと向けられる。切っ先には微塵のぶれもなく、翳した刀身に斜陽が滑る。
それが衝突の合図だった。
包囲の外と内、双方に満ちるは鬨の声。
掲げた得物を手に内へ外へ、怒涛の如く打ち寄せ、衝突し合う。双軍の将もまた状況を打開すべく奮闘し、容赦無く刃を振るい続けた。
当初拮抗していた勢力は次第に傾き、包囲されていた筈の蒼の一軍が優勢を取った。少なくとも、そう感じ取った半兵衛の仮面に覆われた眉間にほんの僅かな皺が寄る。
振り翳した凜刀は音を立てて肉を断ち、断末魔を余所に刎ねる。…正直、彼らに構っている暇は無い。衝突の時間さえ惜しく思う半兵衛の顔には焦燥の色が徐々に浮かび始めていた。
せめて、この優劣を逆転できさえすれば。
足止めを食らっている焦りから奥歯を噛み締め、そんな考えを脳裏に過ぎらせたときだった。
突然背後から、彼にとって鶴の一声となる一報が届いたのは。
「竹中様!預かり物が――」
「ああ、分かっている。三成からだね」
待ち兼ねていた物の到着に、半兵衛は知らず口角を上げる。凜刀を濡らす紅の露を一振りで払い様に振り返ると、兵が二人掛かりで運んできた長袋に目を落とした。
(懸念した可能性から打った手は、無駄ではなかったという事か)
滲む血は抵抗の証ゆえに致し方ない。藁袋の口を開きながらそう言い聞かせると、中身を確認する。そうして、彼は劣勢が覆るのを確信した。
―――これで、暫くの間は彼らを足止めできる…と。
「片倉君。最後の選択を聞こう」
「なに…?」
「このまま伊達軍諸共潰れるか…それとも、彼女を助ける為に豊臣へ降るか」
敵兵を斬り捨てた小十郎の身が翻る。今の彼には如何なる策も通用しない。故に、今度は何のはったりだと返しかけた男の言葉は、部下のどよめきと共に喉元で閊えてしまった。
何故なら、裂いた袋から現れたのは奥州で待機する筈の存在。血塗れの左腕に枷を着けられ、枷に繋がった鎖で引き上げられた魔女の姿だったのだから。
ぐったりとした彼女の顔に生気は無い。それでも、小刻みに震えた肩から生存だけは確認できた。
「―――」
「彼女の首を刎ねても良いのなら動くといい。それとも君が自ら手を掛けるかい?」
「竹中、てめぇ…!!」
幾許の間停止していた男の思考は、脅迫を耳にした途端腹の底から溢れ出した憎悪に染まりゆく。何があったのかは分からないが、鎖を持つ兵の首を今すぐにでも縊りたい衝動に駆られて、黒龍を握る左手が震えた。
のろのろと顔を上げた魔女は、虚ろげな目で前方を見る。その姿が竜の右目の腹底に溜まった禍をさらに押し上げる事など、彼女は露とも知らずに。
「豊臣の兵を一人でも斬られた時には彼女の首を落としていい。此処は任せたよ」
「はっ」
会話を聞き、馬に騎乗した半兵衛の姿を睨み上げても、小十郎は咄嗟に一歩を踏み出しただけだった。…下手に手を出せば、人質の首が飛ぶ。その懼れが、男の足を踏み止まらせていた。
半兵衛を乗せた馬が首を巡らせ、少数の兵と共に南へ疾駆を開始した姿を合図に、攻防は再開する。ただし戦闘は反撃厳禁の応戦のみ。制限が掛かったままでは、敵兵を斬り伏せる事などできる筈が無かった。
「片倉様、どうするんスか!?」
「このまま手が出せないんじゃ、いつまで保つか…!!」
部下の尤もな意見を聞きながら、小十郎は拳を握り締める。…応戦の為には彼女を解放する必要がある。ただし、下手に手出しできないのが現状だ。助けられる可能性は絶望的だろう。
(どうする――)
悪化する喧騒の中、迫られる決断に冷や汗が浮かぶ。彼女の命を擲つ以外の方法は無いのか。
己の名を呼ぶ部下の声を耳にしながらも、眼前に迫る苦渋の決断が小十郎を追い詰める。時間が無い。守りに徹した部下も果たしていつまで保つか―――。
予想外の事態を打開する術を見出せず、最悪の選択が浮上するばかり。さらに一歩を踏み出し、無意識に柄を握り締めた、そのときだ。
彼女の口が何かを訴えて模っているのを捉えたのは。
繰り返し模る言葉を読み取ろうとした小十郎は双眸を細め、存外早く理解した声無き訴えに瞠若した。
“斬り捨てろ”
小十郎が読み取った事を察したのだろう。彼女の血で汚れた口元が僅かに持ち上がって、項垂れるように頭を下げた。
―――これは、いつかの再現か。
遠い昔。現状と似た苦境に陥った際、主君が下した決断を思い出す。同じ選択を自身もまた取ろうとしている事に気が付いた瞬間、小十郎の心中から懼れが引いていく。
選んだ末の負情はとうの昔に噛み締めた。だからこそ、あの後悔を繰り返すつもりは無い。そう、決意を新たに抱いて。
「
ネア、聞こえるか!」
「――…、ぁあ!」
声を絞り出したような声であったが、それを返事と受け取った小十郎は得物をゆっくりと下段に構えた。
「覚悟は胸にあるだろうな!!」
「っ……!」
斬り捨てろと訴える者ならば抱いているであろう思いを改めて訴えた小十郎が捉えたものは、面を上げた魔女の、口を引き結ぶ姿。言葉は無くとも、彼にはそれだけで十分だった。
下げた刀身に迸る蒼の雷電。足許から駆け上り、音を立てて爆ぜる火花もまた碧く。眼前を見据えた男の低く腰を落とした姿に敵兵が気が付こうとも、既に遅い。
「唸れ鳴神―――!!」
躊躇無く突き出した黒龍の切っ先から放たれるは迸る蒼穹の刃。
地を抉るようにして奔る一刃は、逃げ腰となった兵と人質の魔女を切り裂かんと目指して。
到達したその瞬間。断末魔が響く中、彼女の口がほんの僅かに弧を描いた気がした。