/十五.(5/5)
「
ネア、行くぞ」
「え?」
彼は風来坊が安堵して加賀へ帰る時期を見計らっていたのだろう。片扉の閉ざされた門から引き返そうとした
ネアは、突如肘から下の無い左腕を引かれて驚き振り返る。そこには馬の手綱を携えた竜の右目があるではないか。
言葉の意味を量り兼ねて首を傾げると、先に騎乗した小十郎の手が彼女の眼前へ差し延べられる。それをおずおずと掴めば、逞しいほどの力で引き上げられたネアは高くなった目線に感嘆の声を上げる――事はできず。
ネアが抗議の声を上げる間も無く手綱が振るわれ、二人を乗せた馬は門を潜り出ると疾走を開始するのだった。
緋色、藤黄、赤朽葉―――。
流れ行く景色の中に散る秋季の色を目で追い、或いは流し見ながら、
ネアは紅葉を愉しみたいとぼんやり考えていた。
それが早々に叶うと知ったのは、屋敷を出て約一刻後のこと。
「行き先も言わないで連れ出したと思ったら……」
「言えば疲れる嫌だと駄々を捏ねるだろうが」
「…よく分かったね」
紅葉に染まり始めた低山の麓で馬を降りた小十郎と
ネアは、山道をゆっくりと通りながら秋の来訪を観望する。色付いた葉は既に落ち始め、青々と生い茂る草の葉は半ば枯れ初めて鮮やかな色を失いかけていた。
屋敷に篭もり続けていたせいか、季節の変わり目すら分からなくなっていた
ネアはほう、と息を洩らす。風が涼しくなり始めていたのは、初秋が過ぎたためだったのだ。
右手で馬の鞍を掴みながら、藤黄に染まり始めている銀杏の樹を仰ぎ見る。そういえば、祖母の故郷へ避難したあのときも銀杏の樹がこんなふうに染まっていた―――。
「―――…小十郎」
「なんだ」
「わたしと出会ったときの事を、覚えているか」
ふと懐かしい過去を思い出した
ネアは、ひらりと落ちゆく葉を目で追いながら問いを零す。不思議なことに、七年半もの月日が経過しているにもかかわらず、一日一日を鮮明に思い出すことができた。
馬の真横から聞こえてきた問いを耳にした小十郎は視線を地面へ落とし、一年半前の記憶を振り返る。
甦るのは十日にも満たない日々。それでも彼にとってあの日々は、今も鮮明に焼きついて離れなかった。
思い起こしながらああ、とだけ返す小十郎に、
ネアは笑む。
「あの最後の日、わたしは確かに気を許していた。たとえ過ごした時間が短くても」
殺伐とした日々の中に生まれた、短くも穏やかな時間。そして彼女の魔女として為す所業へ誰もする事の無かった、叱咤。その邂逅は、彼女にとって稀少なものだった。
それを一時も忘れずにいたのは事実で。
「だから、会いたかったんだ。もう一度、叱咤してほしかった」
「
ネア…?」
思えば、あの日々で惚れてしまったのかもしれない。そんな事を口から滑り落とせる性質ならばどれほど良かっただろうかと、
ネアは思う。
馬の手綱を引いていた小十郎は、ふと歩みを止めて振り返る。困ったように笑う姿も吐露も、彼女にしてはひどく珍しい。
…そう、思った所為だろうか。小十郎はこれまで微塵も明かす事の無かった胸の内を、滔々と零し始めたのは。
「―――あのとき、俺は此処へ帰る為にお前を頼るしかなかった。…だが、日を重ねていくにつれてお前が背負っているものが見えて、正直見たくはなかった」
思わぬ告白が彼女の胸に刺さる。それでも相槌を打つことで先を促す
ネアに対し、小十郎は一度区切った吐露を再び紡ぎ出す。
「政宗様が背負っているものと、似ている気がしてな。勿論形は違うものだが…誰の支えも無いまま進むお前の姿を見て、ふと思っちまった。俺が亡き後、政宗様はああして一人で戦場に立たれるのだろうかと」
「…あのときは政宗と同じぐらいの齢だったから…嫌でも重なったんだね」
「ああ……」
「昔から主思いの良き腹心だったんだな、景綱は」
尊敬するよ…と。
彼女のむず痒くなりそうな褒め言葉に妙な気分を抱いた小十郎は思わず視線を落とした。…彼女がこれだけ素直に言葉を吐き出すのは本当に珍しい。如何なる心変わりなのだろうか。
そう思えばつい本音が口から零れ落ちた。
「…普段からこれぐらい素直なら、苦労は無いんだがな」
「失礼な。わたしはいつも…ああ、いや。素直とは言い難かったな、うん」
自身のこれまでの行動を顧みたのだろう。反論を最中に飲み込んで、苦笑を洩らした
ネアは肯定から頭を縦に振った。その素直さが、余計な猜疑を小十郎の胸中に抱かせる。
「今日はどうした。随分と闊達だが……まさか、熱でもあるのか」
「失礼な。少し考え直しただけだよ。自身の恋が叶うとは夢にも思っていなかったからね。…だから、少しは自分に素直になってみようかと思って」
山道を風が吹き抜ける度、色付いた葉がひらりひらりと舞い落ちていく。裾を押さえて、その色鮮やかな光景に目を細めた。
恋も愛も、頭上に広がる紅葉のように色付いたまま朽ちるものだと思っていた。完全に諦めていたそれはしかし、眼前の男と出会ったことで覆され、契りまで交わして今此処にいる。その現実が、夢のようで。
「好きだよ、景綱。愛してる」
その瞬間、小十郎は強く思った。
ネアを此処へ連れてきた事は、間違いではなかったと。
彼女の満面の笑みを初めて目にできた上、嘘偽りの無い告白を聞く事ができたのだから。
「―――
ネア、」
微笑む彼女の口から紡がれた言葉に動悸が激しくなるのを感じながら、あくまでも冷静を装った小十郎は誤魔化しも兼ねて名を口にした。
…だが。
赤く染まりきった紅葉が眼前を落ちていった、刹那。まるで走馬灯の如く、記憶の断片が脳裏を駆け抜けていく。そして今更、本当に今ごろ重大な記憶に行き着いた己を、小十郎は叱咤したくなった。
何故、今になって思い出したのか、甚だ疑問ではあるのだが。
「おい…俺に黙っている事はねぇか」
「なにを?」
「唐橘の―――」
眉を顰めて告げようとした小十郎に対し、首を傾げる手前で動きを止めた
ネアはしかし、突然破顔した。
「なんだ。今頃思い出したのかい?」
そう、あっさりと言いのける。彼女にとって、その事実は然程重要なものではないと言わんばかりの言葉の軽さで。
「約七年前…いや、小十郎にとっては一年半前だったね。それよりも前に、わたしはお前と会っていたんだ。お前の故郷で」
「やはり……あの時の童か」
そのとき、小十郎の脳裏にはもう一つの記憶が甦る。約二年前になるだろうか。とある日の昼下がり、庭から童歌が聞こえてきた事があった。
幼子の声を頼りに庭へ向かった先で刹那の間に目にした、艶やかな黒髪の童。鞠を手に振り返ったその姿を、彼はてっきり幻覚だと思い続けていたのだが。…いや、当時の光景は本当に幻覚であっただろうが。
今更判明した正体に多少の衝撃を覚えたせいだろうか、こめかみにぴりりと痛みが走る。それをやり過ごそうと痛む箇所を押さえかけた小十郎の手を、一回り小さな掌が掬い取った。
「少し歩こう。折角来たんだ。もう少し、この紅葉を見ていきたい」
「…ああ」
握り合った手をどちらが引くでもなく、紅葉が鏤められ始めた地を歩き出す。微塵の頭痛を伴いながら目に刺激ある色鮮やかな景色を見上げた小十郎は、複雑な内心を整理しようとして、諦めた。
主から一日暇を頂戴したこの結果を、無論後悔はしていない。得られたものもある。ならば今は十分だろうと、己に言い聞かせて。
「
ネア」
「ん?―――、」
鮮やかな景色の中、呼ばれるまま振り返った者へそっと口付けを落とした。
- 了 -