昨日に降り注いだ篠突雨は一過、幸いにも蒼天の下でその日を迎えた。
眼前、蒼穹の一群が水流の如く門の向こうに吸い込まれていく。振り返る者は居らず、見送る者の中から引き止める声も無い。ただ、腕を組み無言のまま見送る魔女は早々に消えていった七日月を静かな心持で見詰めると、小さく溜息を吐いた。
これが最期にならないよう、胸の奥で密かに祈りながら。
/十四.-襲来
奥州を出た蒼衣の一群は南を目指して疾走する。一見賊と間違えそうなほど人相が良いとは言い難い集団だが、面相とは裏腹に胴を纏う彼らの統率ある機動力を甘く見てはならない。本来ならば一軍の移動に掛かる時間のおよそ半分ほどで目的地への到着を実現してしまうのだから。
―――目指すは栄華の小田原。同様に進行しているであろう大国の一軍よりも早く、その地を獲る為に。
群衆の先頭、手綱に一切触れずに走る男―――政宗の、弦月の前立てが陽光を弾く。組んだ腕が手綱に触れる事は無く、そもそも彼の馬には手綱らしきものが付いていない。本来ならば危険だが、それが当然だと認識してしまった者達が指摘する事は当然無かった。
「良かったのか」
「何の事でしょうか」
「奴の事だ。目が離せねぇとかぼやいていたじゃねぇか」
突然振られた話題に小十郎は一瞬言葉を詰まらせる。“奴”と呼ばれた者から目が離せないのは確かだが、できれば彼女の言葉を信じたい。
主から目を逸らし、再び遠方を見据える男の手綱を握る手に力が篭もる。…脳裏を掠めた最悪の結果を、今は頭の片隅に追いやりながら。
「手負いの者を連れて行けるほど、此度の戦に余裕は御座いませぬ。戦を経験している者なればこそ、察して言葉を潜めたという事もありましょう」
「だといいがな」
政宗は斜め後方を駆ける腹心を一瞥する。確かに、屋敷に置いてきた者はそれ程馬鹿ではない。そもそも負傷の度が高ければ機動力の高い伊達軍に追いつく事は不可能だろう。
…もっとも、半時ほど遅らせて追跡していなければの話だが。
「昨日、
ネアは何と?」
「不調だとよ」
「……、政宗様」
「まさか今更奴を連れて行く気になった、なんて言う気じゃねぇだろうな」
「いえ、それは―――」
御座いません。
そう、返しかけた言葉が、突然左に寄せられた一騎の存在によって飲み込まれる。
焦燥に満ちた男の血相。斥候から戻ってきた者の表情から、少なくとも運んできたのは吉報ではない事が察せられる。
嫌な予感を覚えた主従が眉間に刻んだ皺を深くして耳を傾けると、兵の報告に渋面は一層深く、険相を浮かべるのだった。
僅かに立ち上る砂塵の向こうへ消えていく蒼の一軍。数名の部下と共に彼らを見送った
ネアが小さく溜息を吐くと、それを耳にした傍らの男が小さく笑った。
「
ネアさん、寂しそうですけど」
「…馬鹿を言うんじゃないよ。ほら、仕事に戻りな」
ネアは呆れ顔で男の背を叩く。一見からかっているように思えたが、これが彼らなりの気遣いだという事は彼女も知っていた。だからそれ以上は何も言わず、笑い合う男達の姿を認めてから背を向ける。
彼らもまた追従したかった。だが、城の留守を預かる事も重要な役目であると理解している。だからこうして、惜しい気持ちを紛らわせる為に笑い合い、そして緊張感を以て城の警備に当たるのだ。
それらを察しているからこそ何も言わずに屋敷内へ戻った
ネアは、ゆっくりとした足取りで自室に向かう。昨日までの喧騒がまるで嘘のように、屋敷の敷地内はしんと静まり返っていた。
(いつ、戻ってくるのだろうか…)
普段何気なく耳にしている音も、今は不思議と恋しく思える。以前、待つ者の気持ちも考えてほしいと誰かに言われた記憶を思い出し、今ならば分かると一人頭を振った。…早く、帰って来ないだろうか。
そんな思いを一人募らせていた
ネアはしかし、はっと我に返ると足を止めた。思わず周囲を見渡し、人の気配が無い事を確かめて、がしがしと頭を掻く。
「わたしは乙女か、まったく……」
零した溜息は盛大に。僅かな羞恥心と共に肩を落として、今度は足早に自室を目指して歩いていった。
その日の夜、彼女は中々寝付く事ができなかった。
布団の中でごろりと寝返りを打ち、障子を透いて射し込む月光が瞼に優しく落ちる。仄かに照らされた部屋内に満ちる静寂。それが逆に意識を冴える要素と化していた。
(……何かがおかしい)
熟睡できる条件は揃っている。不安はあるが目が冴える程のものでもない。ならば、と身を起こした直後だった。
ばたばたと近付いてくる慌しい足音を耳にした途端、神経が急速に研ぎ澄まされていく。布団の頭元に畳んだ羽織を咄嗟に掴み取って袖を通し、念の為に部屋の隅へ移動した矢先、誰かの囁きが彼女の耳に滑り込む。
「
ネアさん、起きてますか…?」
「何かあったのか」
それが聞き覚えのある兵の声だと分かれば一先ず詰めていた息を吐く。障子をそっと開いた
ネアと鉢合わせた男の表情は、すこぶる悪い。
途端、嫌な予感が彼女の胸に押し寄せる。
「何処かに隠れてください…!」
「?待て、一体何が」
「いいから…!」
眉を顰めた
ネアが迷ったのも束の間、彼女の腕を強引に引いた男は急いで廊下に連れ出すと、来たばかりの廊下を不審げに見詰める。まるで何かに怯えているような様子が、彼が語らぬ火急の度を言外に告げる。
此処に留まっていては危険だ…と。
「…奥へ退避する」
「は、はい…!」
狼狽する兵の手を引いた
ネアは屋敷の奥へと小走りで駆けて行く。遠方より微かに聞こえた雑音を、今は耳の錯覚だと思い込みながら。
「それで、何があった」
「突然、ひょろっとした銀髪の男が門に現れて…異国の女を出せと…そんな女はいねぇって、みんな頑張って誤魔化したんですけど……ここまで侵入させちまって」
すみません、と今にも泣き出しそうな声を震わせる男に、
ネアは無言で頭を横に振った。
彼ら伊達軍兵士達が戦に於いて果敢且つ粘り強い事を、彼女は知っている。だからこそ兵の恐々とした姿で来襲者の手強さが予想できた。
今しがた錯覚だと思い込んだ音が、今度は鮮明に耳を衝く。まだ遠く、けれど断続的なそれは着実に退避者との距離を縮めていた。
「ひ…」
「静かに」
時折背後を一瞥しつつ、奥へ奥へと駆けていく。無論、いつまでも逃げられる筈が無い。侵入者は誰に問うまでもなく、目標が此処に居る事を知っている。ならば、応対しなければ犠牲が増えるばかりだ。
(…奴の部下を、無駄死にさせるのか)
自国の益にならない異国の者を守らんとするが為に、命を削り或いは散華する者達。自分の存在が無意味な死を齎す現状を見過ごせるほど冷淡ではない。そう、まだ動かない左腕を掴んだ
ネアは奥歯を食い縛る。
足を止めた
ネアの真横を横切りかけ、咄嗟に蹈鞴を踏んだ男は疑問から彼女を振り返った。脱いだ羽織で左腕を縛り固定する姿に不穏を覚えたが、残念ながら彼の嫌な予感が外れる事は無かった。
「
ネアさん…?」
「お前はこのまま逃げなさい。そっとだ。なるべく音は立てるんじゃないよ」
「ちょっ…!」
とん、と男の背中を片手で押して、
ネアは駆けてきたばかりの道を辿り疾走する。制止の声は耳を掠めゆく風音に紛れ、伸ばした手をすり抜けて、届かない。
呆然とする兵士を置き去りにしたまま、彼女の姿は角の向こうへ瞬く間に吸い込まれていった。
(四半時の後には、悲鳴は止んでいた)
◇ ◆ ◇
夜目が利けば夜襲は断然有利となる。それが仮令単騎であろうとも、力さえあれば雑兵を蹴散らすのは彼にとって容易い事だった。
「散れ」
紫電一斬、月光を弾く刃が弧を描き、闇夜に澱む蒼の胴を両断する。断末魔を聞く事も無く頽れる者達へ一瞥もくれず、刀身を塗らす血糊を軽く一払いして、一度鞘に収めつつ悠然として門を潜る。関門さえ突破してしまえば支障は無くなるも同然。急襲を聞き駆けつけて来た兵を薙ぎ払い、屋敷の奥へと足を進めた。
三成がとある密命を受けたのは、一軍の将として東へ進軍する最中だった。
元々決行の日取よりも早く到着し、早々に決着をつけるべく動いていた三成は、道中に訪れた者の存在に驚きを隠せなかった。本隊で指揮を執っている筈の軍師が態々別動隊の様子を確認しに訪れたのだから。
(半兵衛様は何故、このような命令を私に)
至急と言われたからには急ぐつもりの足取りも、些細な疑問が浮上すれば僅かに遅れる。元より、燻り出すべき対象自体に疑念を抱いていた三成はしかし、突撃を敢行する兵の動きに些細な異変を見受けた途端、疑問を頭の隅へ追いやると共に双眸を細めた。
「道を開けろ。息がある負傷者は屋敷内に運べ。他の者は得物を手に待機、それ以上の犬死は許さん」
「
ネアさん…!?」
敵兵を目前にして淡々と下す指示を耳にした男達が驚き振り返る。割れた人混みの間を歩く者へ、三成はいつでも斬首できるよう刀を差し向けようとした。
だが…向けた刃の切っ先の向こうで足を止めた人物の容姿を目にした瞬間、三成は双眼を彼女一点に定める。
兵士が呼んだ名と顔立ちが明らかに日ノ本のものではなかったがゆえに。
「貴様が渡来の者か」
「そうだが、わたしに何か用か」
「私と共に来い。拒否は認めない」
「拒否する」
彼女の断言を聞いた瞬間、三成の面に不快の色が浮かぶ。感情を露骨に出し、尚且つ切っ先を間近で向けているにもかかわらず、泰然として佇む異国の者は眉一つ動かさなかった。
「貴様……私の言った事が聞こえなかったのか。拒否など認めないと言ったはずだ」
「侵入者の一方的な要求に応じる必要性は無い。お引き取り願おう」
「――ならば、」
柄に手を添えて片足を引く。低く構えた男の姿勢に、
ネアは見覚えがあった。
―――抜刀術。
抜刀から刹那の間に初撃を叩き込む剣術の一。修練を積まなければ体得は難しいと、以前に知人から聞いた覚えがあった。
対峙する男の構えは微塵のぶれも無く、相当な手練れと予想できれば自然、
ネアの警戒心が募る。
…片腕で対応できる限度など知れている。そんな本心を押し殺して、足許に落ちている血濡れの刀を拾い上げた。
「門を閉ざせ」
「無茶っすよ、一人で相手なんて…!!」
「いいから閉ざせ。これは指示ではない。脅迫だ」
叫ぶ兵士へ、ゆらり、魔女の顔が傾く。見開いた蒼の双眸に浮かぶ酷薄の微笑。反論した者から切り刻むと言わんばかりの気迫が男達の意志をへし折っていく。
彼らにある筈の選択肢は、最早有って無いようなものだった。
「っ……御武運を!!」
本来ならば体を張ってでも制止したかった男達の、悲嘆を孕む叫びと共に、重厚な扉が勢い良く閉ざされた。背後で響く閉扉の音に鼓膜が震えて、
ネアの口許が緩やかに弧を描き、向き直ると同時に下がりゆく。
―――これで、これ以上の犠牲は出ない。背後の門さえ破壊しなければ被害は最小限で済む。
…これ以上、足手纏いにはならない。
ネアがこの世界で生きると決意した裏には、自身の存在が周囲に悪影響を及ぼさないという前提があった。それが破られた今、意志を保持する意味を喪失した彼女が為す事はただ一つ。
「引き摺ってでも貴様を連れていく。逆らった代償に腕の一本は落ちると思え」
「ああ…一本ぐらい、くれてやる」
尤も、やれるものならばの話だが。
沈黙を断つ鍔鳴りは彼女の言葉に含まれた覚悟の程を問うように。応えて、刀を正眼に立てた
ネアが口にした挑発に、男の相貌が怒りを含んだものへ変わりゆく。
男が露呈する怒りにも構わず、一歩、また一歩と距離を詰める魔女は逆手に持ち替えた右手の刀を背後へ振り薙いだ。
刹那―――
〇足許から迸る漆黒の鳴神が地を抉る。
●門への道を断ち塞ぐ、紺碧の火焔。