/十四. - 向(下)
柔らかな陽光に意識が溶けて、ゆらり、くらりと微睡む。
身を包むものも柔らかく、藺草の香りが鼻を擽る。少しばかり硬く温かなものが開きかけの右掌に埋まっていた。
緩やかに流れ込む風は暖かく、ひどく心地良く感じる空間では揺蕩う意識を醒ますものも無い。
ただ、夢現に漠然と。
流れる平穏が延々と続いて、眼を覚ます必要が無くなってしまえば良い……と。そんな願いとは裏腹に、鳥の囀りが彼女の睡魔を啄ばんでいく。
ゆるりと瞼を起こし、頭は自然と陽の当たる方角へころりと傾いた。陽光に満ちた廊下へ降り立った二羽の雀、その戯れる姿をぼんやりと眺めて。
「起きたか」
醒めゆく意識と共に、緩みかけの頬が急に引き締まる。鈍りきっていた思考も氷が溶け出すようにゆっくりと回り始めて、
ネアは庭へ傾けていた頭を声のした方角へ向かわせた。
軒と障子に切り取られて、陽光の当たらない部屋の影。布団の傍で珍しくも胡坐を掻いた男がただ静かに見下ろす姿に、彼女はただ名を口にすることしかできなかった。
「……小十郎…」
「あれから三日が経ったが、徳川軍の撤退と政宗様が目を覚まされた事以外に変わりはねぇ」
十分な変化じゃないか、と
ネアが指摘を挙げるまでに随分と時間が掛かった。報告に含まれていた単語でようやく記憶を振り返り、現状を察するに至ったのだから。
自分の代わりに対峙の場へ赴く竜の右目の背を見送ったまでは、確かに覚えている。だが、そこから先の記憶がすっぽりと抜け落ちていて、布団に寝かされるまでの経緯は何度振り返っても甦ってはこない。……つまり、その間気を失っていた事になる。
不覚だ、と呟いたが、喉の張り付いたような感覚に上手く言葉が出せなかった。代わりに盛大な溜息を零しつつ落としかけた視線が、不意に男の左腕へ留まる。包帯の巻かれた、利腕へと。
「怪我、したのか」
「相手が相手だ、それなりにな。お前の右腕は薬師に手当てをさせたが、調子はどうだ」
「ん、少し鈍いが、動くよ」
「そうか」
証明の為に持ち上げようとした右腕が動くことは、残念ながら無かった。包帯に巻かれた男の手に、しっかりと握り締められているのだから。
意識こそはっきりとしたが、未だ虚ろ気な
ネアの顔を見下ろし続けていた小十郎はやがて安堵とも呆れともつかない嘆息を落とした。
重傷を負い臥せっていた政宗が目を覚まし、これまでの経緯と現状を説明した記憶は未だ新しい。説明を進めるにつれて滲ませていた怒りが私憤だと感じた気がしたのは、おそらく間違いではない。
この先の波乱を懸念せざるを得ない最中にこうして彼女が眼を覚ましたが、主とは真逆に未だ現から足を浮かせたままの様子を目にすれば、溜息を吐きたくもなる。
彼女には、経緯や事情を説明するその前に問うべき事があるのだから。
安堵を掻き消し、意識を切り替えた小十郎の貌が僅かに引き締まった。
「
ネア、俺の言いたい事は分かるな」
「……ああ」
静かな追窮に、間を置いて首肯がある。
足止め以上の業を為さんと動いた事。それを敵軍大将と相対しながら心の内で謝った記憶もある。
視線を逸らした
ネアの首肯に、自覚の上での行動と見做した小十郎は怪訝から眉を顰めた。
「死ぬ気だったのか」
「いいや。だが、少しだけ下手を打ったのと、思わぬ横槍が入っ」
「惨めになるだけだと分かっているなら、言い訳は止めておけ」
「……」
次第に声が戻り始めたことで、敢えて明朗を装おうとした
ネアの言葉が、小十郎の鋭い指摘によってぴたりと止んだ。弧を描きかけた口角はゆるゆると下がり、最後には庭の方向へ頭が傾く。……まるで、男から顔を背けるように。
「―――……どうしてだろうな。いつも、大事なものを守りきれないのは」
消え入るような掠れ声で紡いだ言葉に、自嘲が滲む。繋がったままの手に篭められた力は強く、微かに震えていた。
庭へ向けられた彼女の顔が何を湛えているのかは分からない。だが、掌から伝わる小刻みな震えと温もりを確かめた小十郎はその手をそっと握り返した。
「たった一人で守ろうとするからだろう」
ずきり。
その率直な答えに、胸が痛む。賜った称号に相応しく、たった独りで歩み続けてきた道をその一言で否定された気がして、眉根を寄せた
ネアは思わず掌の温もりを振り解こうとした。
だが、さらに淡々と続く男の言葉によって衝動すらも抑えられる。
「俺一人の為と言いながら、結局お前が背にしたものは国一国だ。一人では到底守れる筈が無い」
「……数の問題ではない、か」
「当たり前だ。国同士の争いに単独で首を突っ込んで一人勝ちした奴が居たらお目に掛かりたいもんだな」
「……」
小十郎のやや呆れ気味な言葉が、不満を抱きかけた
ネアの口を噤ませる。
彼女がこれまでに護ってきたものは一組織に過ぎず、その規模は国よりも遥かに小さい。それでも、国も組織も守る形は同様で、多くの手が必要不可欠。それが当然であるし、独りで立ち向かう行為は無謀以外の何物でもない。
……尤も、その無謀を独りで果たした例外且つ異質な存在が“孤高貴女”だった。故に竜の右目の指摘から不満を排除しようとも、やはり彼女の中で腑に落ちない点は残る。
―――個は群に勝る。
世間の非常識を己の内で常識として変換しているそのずれをどうにか修正できないものかと、思案する小十郎の口からは自然と嘆息が零れ落ちた。
それでも、緩みかけた掌の繋がりをもう一度きつく締め直せば、庭へ向かい続けていた顔が部屋の内へゆるりと戻ってくる。
「残される者の気持ちも少しは考えたらどうだ」
「―――今までそちらの立場ばかり味わっていたから、考えられはするのだけどね。……残していく者の気持ちは、初めて分かったよ」
悔いを残さず逝ける者などほんの僅かに過ぎない。大抵の者が無念を胸に散華するのだろう、と。
実際、真横から飛んできた槍を目にした瞬間に脳裏を掠めたのは死と記憶の走馬灯、そして大事なものを残したまま朽ちる惜しさだった。
「……すまない」
彼女の口から自然と零れ落ちた謝罪が空気に溶けていく。
ぽつりと呟くようなそれを確かに聞いた小十郎は、詰めかけた息を安堵混じりに吐き出した。……此処で無謀を顧みなければ再び同じ行動を取る可能性もある。故に謝罪を聞き入れはしたが、念を押すに越した事はない。
「今ここで誓え。もう二度と、一人で突っ走らねぇと」
交わすは約束ではなく、誓いと。
それでも、神妙な面持ちで深く頷いた
ネアに躊躇は無かった。
……嘗ての世では、戦場に駆り出される事が常、所詮汚役を負う使い捨ての影が野垂れ死んだところで誰一人としてその死を惜しむ者はいなかった。そういうものだと、当然のように思い込んでいた。
だからこそ、己の死を悼む存在がいるのだと自覚した今ならば、独り走る事も無くなるだろう。
傍らの存在、それを実感するように繋がったままの手にそっと力を篭める。伝わる温もりが与える安らぎに、身体の力を抜き始めていた……のだが。
はた、と。
おそらく傷だらけであろう手をほんの少しだけ動かした
ネアの顔が、みるみる内に強張っていく。
「……小十郎、」
「ん?」
「馬鹿」
穏やかになりつつあった彼女の表情を見下ろし、釣られて眦を緩めかけていた小十郎の片眉がぴくりと跳ねた。久方ぶりに聞いた暴言に懐古の念が胸に沸いたが、それも
ネアの仏頂面を目にすればすぐに冷める。
数秒前にあった安穏など、微塵も無い。
「……どうやら、懲りてねぇようだな」
「当然だ。怪我人の世話で“恋人繋ぎ”をする輩がどこにいる」
男の機嫌が降下していく様を表情で捉えながら指摘を告げる
ネアは右腕を上げようとした。が、押さえつけるように力を篭めた男の手を負傷中の右腕で持ち上げる事は決して容易い事ではなく。
恋人繋ぎという、聞き慣れない言葉に眉を顰めつつ手元に視線を落とした小十郎は、ぎりぎりと力の篭る彼女の手を押さえ付ける。まだ安静にしていろ、という意味合いも兼ねていたが、一先ずは手繋ぎの理由を説明するべく口を開いた。
「こうでもしねぇと指の間の傷口が、」
「理由は分かる。が、説明はするな」
現在、右腕全体が悲惨な有様になっている事は起きたばかりの当人も理解している。二の腕から指先まで綺麗に巻かれた包帯も、今では赤い染みが斑に浮かぶ。特に指の間は放置しておけば傷口が密着することから、間を空けておく為に指を組ませていたのだが。
説明が不要なら、今の指摘も不要ではないのか―――そう言いかけた小十郎の口が開きかけ、最中に噤む。
庭へさっと向けられた
ネアの顔が戻る気配は無い。が、些細ながら次第に表れ始めた異変はすぐさま目に留まった。
「―――
ネア?」
「……」
「おい」
やや間を置いて名を呼ぶが、返事は無い。
睡魔に襲われている可能性を考えたのも束の間……身の異変を察した小十郎の右手が、
ネアの頬と枕の間に差し込まれる。そのままぐいと上を向かせると、驚きに目を見開いたその顔に、己の顔を寄せた。
「こっちを向け」
「…!」
影が、降る。
距離を縮める男の顔が止まる気配は無く、思わず目を瞑った
ネアは額にこつりと当たる生温かなものを感じて、息を呑む。
どくり、と。
強く打つ鼓動を、耳元で聞いた気がした。
重ね合わせた額で体温の差を測ろうとした小十郎の胸に、己の行動に対する後悔が一瞬過ぎる。
明らかに高い熱を確認し、離れると共に吐きかけた溜息が、彼女の赤らむ顔を目にした瞬間にこくりと嚥下した。
どきり、と。
胸を突く衝動に、思わず伸ばしかけた手を堪えて、そっと退かせる。……怪我人に手は出すまいと、心の内で抑えながら。
「……暑い」
「無理をする所為だ、馬鹿娘」
ぼんやりと、そんな事を呟く怪我人に呆れ返った小十郎が語尾に暴言を付属させれば、
ネアは一瞬むっとする。…が、それが先程己が投げた暴言の返しだと気が付けばすぐに反論を飲み込んだ。
彼女の頬から武骨な手がするりと離れていく。そこで搗ち合わせた眼に些少の不満を浮かばせた
ネアであったが、対する小十郎はただ失笑を落とすばかりだった。
「独走の代償だ。もう少しの間、大人しく看病されろ」
「……」
発熱に意識が朦朧としてきたのだろう。それ以上の文句は無く、緩む眦に、ゆるりと瞬く。それを見下ろした小十郎は冷や水の準備の為に繋ぎ続けていた手をそっと放すと、音も無く立ち上がる。そのまま部屋を出ようと布団の傍を離れて、数歩。
「――景綱」
「何だ」
男を呼び止める声は珍しく細く。
障子の縁へ手を掛ける手前に足を止めた小十郎は半歩で後方を振り返る。布団の中で大人しく横臥する魔女の意識は熱に浮かされているであろう状態にも関わらず、退席者を見上げる双眸、その焦点はしっかりと定められていた。
「…あと、ほんの少しでいい」
ただ、それだけを呟いた
ネアが続きを述べる事は無かった。
布団の傍に歩み寄った小十郎がすぐに腰を下ろし、彼女の瞼を覆うようにそっと掌を落とす。塞がれた視界は闇一色に染まり、思わず己の手を武骨なそれに重ねた
ネアであったが、囁きにも似た言葉に体の力がゆっくりと抜けていく。
「心配するな。傍にいてやる」
「……ん」
今は眠れ。
次の嵐が訪れるまでの、束の間の安息を。
静寂の中、静かに告げられたものを素直に受け入れたならば、急激に瞼が重くなる。
そっと瞼を伏せ、さらに濃くなる闇の内。意識の暗転に今や惧れは無く。
この日、生涯で初めて、心の内に安穏を湛えながら深い眠りに就くのだった。
(今はただ、静かに眠れ)
- 終 -