/十四. - 向
微震が、ゆっくりと近付いてくる。
地の変化を感じ取った影基魔女は目蓋をゆるりと起こした。凭れていた樹木からそっと離れ、幹の影から覗き見れば、葵紋の旗印を掲げた軍勢が境界へ着実に迫りつつある。
揃う足並みから察せられる、順調な進軍。だが、それもすぐに乱れるであろう事を彼女は予測――否、確信していた。
―――昨晩、魔女は境界に大規模な“策”を講じた。
境界を一歩でも踏み越えようとした者の精神を一時的に切り離すというもので、彼らに前進の意思がある限り目が覚める事は無い。
大群に働き掛ける魔術は魔力量を多大に食い潰すため、たとえ魔導師と称される者であれど体内に温存する魔力の半分が持っていかれるのだった。
だが、その術を以てしても大軍の足を留めたい。
彼女の意志は酷く固かった。
と、順調だった一軍の足並みが突如乱れた。不意に起きた前列の崩れによるものだったが、つんのめって転倒したように見えた前列の兵達はその実、意識が無い。
地に頽れて動かない者達の様子に気が付いたのか、やがて動揺が少しずつ広がっていく。それを宥めるように群衆の間を割って現れた青年は、既に事態の原因を理解しているのだろう。遠方によくよく目を凝らし―――次の瞬間、一点に定められた。魔女が身を潜める樹木へと。
そこでようやく、魔女は腰を上げた。
一歩を踏み出せば、漆黒の衣が陽に曝される。さらに一歩で腕を軽く振り、敵軍大将だけを“策”の対象から外せば、察したらしき青年は黄昏色の身を境界の先へと踏み込ませた。
恐れの無い双眼。決意に満ちた貌を、互いに突き合わせて。
「やはり来たか」
情無き
ネアの第一声に、家康も負けじと落ち着いた声音で異議を唱える。……内心、初見である影の容姿に驚きながら。
「手前での制止を心掛けてはいたが、見ての通り境は曖昧だ。踏み越えても仕方がないと思うのだが」
「……そうか。印でもあれば良かったな」
これを
ネアは意外にもあっさりと受け入れた。確かに、昨晩再会を期する青年の発言を顧みれば一線を示しておかなかった己の不手際であると。
家康が背にしている、介抱される兵達を見渡すと、其方を差した指をそのままに腕を薙いだ―――瞬間、咳き込む音が無数に響く。
噎せながら息を吹き返す者達を振り返り目にした家康は微かに驚きの声を漏らした。彼らの意識が戻った事に、ではない。影が己の主張をあっさりと受け入た事に対する驚きである。
(……三河を潰すと脅しながら、先も兵の息の根を止めず失神させるだけに留めた。己に非があれば助けるような者が、本当に交戦を望むのだろうか……?)
昨晩と目前の光景が不意に脳裏を掠める。
……そもそも、と。
彼女の本当の目的を聞いていない事に気付いた家康は、ゆっくりと腕を下げる影の姿に猜疑の眼を向けながら一歩、二歩ほど間を縮めた。
「これで良いな」
「待ってくれ。―――お前はもしや、民大事で動いているのか」
「……」
「それならば心配は要らない。ワシの目的は独眼竜と話をする、それだけだ。現に此処へ来るまでに民を傷付けるような行為はしていない」
村付近を通過する事はあるが、民に手を出した事は一度も無い。もし仮に彼女が民を守る為に動いているのだとすれば、今こうして向き合う事に意義は無い。故に交戦を回避できる可能性を浮上させたのも束の間……返答は、否と。
「大軍を奥州へ差し向けた時点で、何れ周囲が巻き込まれる事は明らかだ。荒くれ者で知られる伊達軍と口で話をつけられる自信でもあったのか?」
「―――痛いところを突いてくれるな」
その点について誤魔化していたつもりはない。だが、伊達軍の気質を理解している上での指摘ともなれば、違和感を抱かざるを得なくなる。
軍と無縁の――それも南蛮の――者の発言とは到底思えないのだ。
「もう一度、尋ねて良いだろうか」
「何か」
「本当に奥州伊達軍と…いや、独眼竜と知り合いではないのだな?」
言葉の運びは慎重気味に。沈着を以て告げた家康は直後、魔女の双眸がほんの僅かに細められる様を目にする。
もしも誰かの指示を受けた現行だとしたら、指示者は間違いなく奥州の統治者である。少しでも面識があるのならば、可能性として考えなくもない。
……だが。
「お前が独眼竜と称される者を知っているのならば分かるだろう。ただ一人に姑息な手で敵軍を迎え撃たせるような男ではないのだと」
次いで発された彼女の言葉が、家康の思考を結論へ導いた。
―――やはり面識はある。だが、指示を受けてはいない。ならば此れは彼女の独断である、と。
「そうか……そうだな。あいつはそんな男ではない」
気性の荒さに反して、姑息や卑怯な手段を厭う奥州の竜。時折節度さえ窺える事もあった彼ならば、部下をたった一人で戦場に放り込むような真似はしない。何より、ただの一人に敵軍の足止めを頼むならば、おそらく今頃は自身単騎でこの地へ切り込んでいただろう。……尤も、その前に竜の右目が引き止めるに違いないが。
過去の相対を振り返れば、少しだけ砕けたように笑った。
密かに抱く再会への期待。心沸くその感情を胸に、家康の腕が前方へと伸ばされる。
「ならばお前を倒し、その先へ行こう」
堂々たる宣言は、改められた決意を以て。
境界を越えんとする男の意志を受け取った者に、それ以上の言葉はなく。
ネアが佩刀する中剣をすらりと抜き払えば、応じるように低く身構えた家康の拳がぐっと握り込まれる。
総大将の後方で沸く喧騒も、対峙の空気に圧されて次第に沈みゆく。会話も聞こえず、張り詰め始めた緊張の中で、構えを取る
ネアはしかし……交戦を目前にしながら、ただ一つだけ、心の内で謝罪を告げた。
(……許せ、小十郎)
傷の癒えきらぬ竜の右目を戦場へ赴かせまいと、足止めで終わらせなかった己の不遜を。
届く筈の無い詫びを落として、今度こそ意識を切り換える。取る構えは正眼、刃先越しに敵大将を睨め据え、地を蹴り駆け出したのはほぼ同時の事だった。
間を詰めた瞬間、振り翳された一刀と籠手が金属音を伴い鮮やかな火花を散らす。両者の視界を彩る閃光が消えゆく直前に家康が次の一手を繰り出せば、
ネアが中剣を叩き込む事で拳の軌道を逸らした。
第三撃の先制を許すまいと先に一歩を踏み込んだ魔女が中剣を持つ手首を捻り男の身を薙ぎ払いに掛かるも、突き出された拳がそれを阻止する。
そうして、互いの攻撃を弾き弾かれ、一進一退の交戦を繰り返すこと数度。一旦体勢を立て直す為に後方へ大きく跳躍した家康は、腕に覚えた痺れを腕を振ってやり過ごした。
「やれやれ―――意外に重いな」
彼が浮かべた笑みに、普段の余裕は無い。
対する
ネアには些少ながら余裕が残っていたが、未だ左腕に残留する痺れを鬱陶しげに払うように、中剣を軽く振り下ろしてみせた。
(それはこちらの台詞だ……!)
一撃を受け流すだけでも腕に走る衝撃は重い。長引けば腕が保たず、不利に繋がる事は容易に予想できる。……ならば、決着は早々に。
ネアが低姿勢で構えを取った瞬間を見計らったように、間を一気に詰めた家康の拳が懐を狙う。しかし摺り足で半歩後退し、身を半回転させた魔女は一拳をひらりと躱すと同時に中剣を振り上げた。
弧を描く紫電が交戦する青年の甲冑を走りかけ、上段に構えられた片拳でがちりと止まる。
咄嗟の判断で相手の一振りを防いだが、彼に安堵の間は無かった。刃が離れると同時に影が地から離れ、身を捻り一回転した魔女の中剣が頭上から全力を以て振り下ろされる。頭部を護るように交差させた籠手の間に刃が落ちて、衝撃を堪えた家康の顔には苦が浮かんだ。
「っ――!!」
歪めかけた顔をぐっと真顔に引き戻し、籠手の間の刃を全力で弾き返す。こういった場合、相手は大抵崩れた姿勢を直すべく僅かでも距離を置く事を知っていた家康は、この機を逃さなかった。
得物を弾かれた反動を利用して三、四歩程度分の間を開けかけた
ネアは、突撃を敢行する青年の姿に寒心を覚える。懐に潜り込むであろう事は予測できるが、足を着いたばかりでは迎撃の態勢を取る事は難しい。
家康が突撃の余韻で足を滑走させる。撃ち込むべく上体を捻り、引いた拳を押し出すまでの間は二秒掛かるか否か。相手の胸部を捉え、突き出そうとした、その直前だった。
視界に突如土気色の飛沫が飛び込んできたのは。
「っ!?」
草原を抉り土を蹴り上げた事は容易に想像できたが、障害を払う家康の片目には運悪くも些少の砂が飛び込んでいた。痛みに顔を顰めながらも片目を瞑り、すぐそこにまで迫る中剣を腕の一振りで叩き落とす。その勢いでもう片腕を突き込めば、身を翻しかけた魔女の肩口を掠った。
肩にちりりと走る熱を得た
ネアはしかし、青年の動きに内心関心を抱く。
(……大抵の者は、慣れない眼の痛みに動きが鈍るものなのだが)
片目の不自由による鈍化も減速もなく、的確な撃ち込みも不変。さらに踏み込み連撃へ持ち込んだ家康の拳を中剣で往なしながら、青年の根強さに感嘆する反面厄介さを覚えていた。
連撃の後に一瞬空いた間隔を機と見做しかけた
ネアの足が、不意に手前で縫い留められる。
これまでに無い、家康の低姿勢と振りかぶる構え。思い切り引かれたその拳が淡い光を湛えている様に気が付けば、彼女の顔色が瞬時に豹変した。
―――一刹那、思考が冷えていく。
応戦に最適な魔術を打ち出すまでに一秒。
体内の魔力を高速循環させるまでに一秒。
唸りを以て押し出す様を認めるのに一秒。
計三秒の間の後に紡ぎ出した詠唱が一秒。
二者の間で急速に逆巻いた大気が、刹那に突き出された力によって捩じ曲げられる。
「淡く微笑め、東の照ッ――!!」
「“Pagar calma”……!!」
拳に纏わせた眩いほどの光が一瞬集束した次の瞬間、周囲の大気を巻き込みながら撃ち込まれたそれは怒濤の勢いを以て地を抉りぶれ一つ無く疾走する。
対するは漆黒の鳴神。中剣の刀身に巡り走る稲妻を薙ぎ払うように全力で振り下し、同時に紡ぎ出した言の葉が滞留から放出へと形状を変動させる。雑草を黒く焼き付かせながら地を直進したそれは、数秒とかからずに襲来する閃光と衝突した。
瞬間―――轟、と。
互いの技が激突した瞬間、聴覚を塞ぐほどの爆風が地を走る。足元を掬われ兼ねない
暴風を受けて、不意に体勢を崩した家康は地に片膝を着き、低姿勢で流されぬよう堪えていた。……後方の部下をちらりと確認するも、どうやら被害は無いようだった。
目前に視線を戻せば、衝突した閃光は黒と白とが入り混じり、少しずつ収束の気配を見せている。
向こうもおそらくこの風で動けまい。そう予想していた家康はしかし……不意にざわめきが後方で上がった気がして、背後を振り向こうとした―――その時だった。
突如真横から躍り出るは、影。瞬く間に詰め寄り来る存在に、青年の内の危懼が急速に競り上がる。
――死が、迫り来る。
「っ……!」
「!!しまっ―――」
迎撃の態勢を取るにも時間が無い。この姿勢では腕を立てるのが精々の防御。だがこの機を相手が逃す筈が無い。痛手を蒙る可能性も十分にある。
急速に回転する思考の中、半ば反射的に立てた腕の間から垣間見たものは、爆風に曝されながらも鬼気迫る形相で来たる魔女の刃を振り翳す様。……そして、視界の端に捉えた、腹心の投擲後の体勢。
「――、」
この空間では一対一、故に護りは無いと考えていた
ネアは最大の後悔を噛み締める事になった。
魔女の真横――家康の後方から高速で飛来する凶器に、気付くのが遅れた。境界の向こう側から投擲したであろう、通常の数倍はあろうかというほどの槍が、最早回避も防御も叶わぬ地点にまで迫り来ていた。
息を呑む猶予すら無く、視界が焦茶に浸食される。
槍に吸い込まれる錯覚を経て一息。
衝撃は瞬きほどの間。
彼女の世界に、暗幕が落ちた。
-焉-