「―――で、好きにされた結果がそれか」
「言ってくれるな」
翌日。
机上で頬杖を着いた城主の半ば呆れたような様を前に、対面する少女は眉間を揉む。
首に巻き付けた布切れが昨日の結果を物語っていたが、幸い彼が追究の意を示す事は無く、溜息を吐いた魔女は密かに胸を撫で下ろすのだった。
-後日-
秋分の季。
深緑の葉はどれも色濃く鮮やかに。風は残暑の気配を消し去るように涼やかに。城内にはやや湿り気を帯びた冷気が満ちる。日に日に変化する気候により、部屋から一歩を踏み出した瞬間、思わず首を竦め袖に手を引っ込める者も少なくはない。冬の気配さえ感じるのだから、今年の秋はおそらく短い。
少しばかり涼しさを増した爽風が廊下を抜けて、開いた障子の間から部屋へと流れ込む。その冷風に眉根を寄せながらも障子の縁に切り取られた秋空を、彼女はぼんやりと眺めていた。
…政務を執る竜の右目に背を向けたまま。
「……お前の主君に苦笑いされたのだが」
独り言つ
ネアの背をちらりと見やってから、小十郎は敢えて彼女の耳に届くよう深い溜息を吐いた。
「背を向けたまま話すつもりなら、聞く耳は一切持たねぇぜ」
「む……」
刹那の沈黙の間、紙に筆を滑らせる音が小さく響く。次いで衣擦れの音と共に彼女の体が反転する。徐に向き直ったその表情には反意がありありと浮かんでいて、どうしたと問いを投げかけるのは野暮に思えた。……文句の内容は概ね予想がつく。
「政宗様の反応に対する不満か。それとも、今出回っている噂の件か」
「前者だ。下馬評など気にはしないが、お前の主にだけは訂正を入れろ」
「必要があれば動くが、今不要なものに掛ける暇は無い。大体、噂に翻弄される質でもねぇだろう」
「接触する頻度が多い者に誤解を抱かせたままなど、我慢ならん」
噂の当人による釈明で誤解が晴らせるのならば、とうにそうしている。しかし彼の主君は適当に聞き流すばかりで、事実を受け入れたような反応が今一窺えない。そこで腹心から話を伝えることで聞き入れてもらえるのではと考えた
ネアは、しかし―――主君と似たり寄ったりの反応を眼前に、彼女は思わず渋い顔をする。
すると、筆を音無く置いた小十郎は若干呆れ気味の面を持ち上げた。
「だったら聞くが―――噂の何処を訂正するつもりだ」
「わたしの正体が異国からの忍だとか、実は竜の右目を誑かしているのではとか、いつかは側室に迎え入れるつもりではとか」
「それぐらいの噂は聞き流せや」
最初の二例は彼女の身の保安に関わるものだが、小十郎は内心訂正の必要を感じなかった。彼女を危険視して討たんとする者が現れたとしても、返り討ち以外の結果を考えられない。……そして、三例目も訂正の必要があるだろうか。
抱いた疑問と共に首を捻りたくなった小十郎に対し、
ネアは反意を以て顔を歪める。
「わたしの思惑が疑われるのはまだいい。だがお前の心中を疑われるのは我慢ならんと言っている。特に、最後の噂は」
「
ネア」
反論の最中に名が重ねられる。むっとしたままではあるが、呼ばれたことで言葉を区切った
ネアは何だ、と小声で応じた。人の話を切ってまで呼ぶからには相応の話があるのだろうと考えていた……のだが。
「つがいの刀でも造るか」
「人の話を聞かんか、馬鹿」
彼女はそれはもう、ひどく顔を歪めて罵声を発した。同時、考えた自分が馬鹿だったと頭を抱えそうになりながら。
小十郎は別段揶揄を告げたつもりではなかったのだが、仏頂面の
ネアを眼前にしては話を戻すより外に無く。
口を開きかけたが、喉元まで出掛かっていた言葉を一旦飲み込んだ。
……不意に沸くは、悪戯心。それは恰も試すように、反応を密かに愉しんで、開口。
「最後の噂には訂正を入れておく」
「ああ、頼――」
「側室ではなく正室に、とな」
瞬間、空気が凍結する。
今にもぴしりという音が聞こえてきそうなほどの硬直ぶりは見事なほどに。たっぷり十秒を置いてから、
ネアはようやく我に返った。彼の言葉の意味を理解して、思わず頭を抱えたくなる。更には頬が微熱を帯びたような気がして、むきになっていた自分が途端にどうでも良くなってしまった。
「……もういい…」
疲れたようにがくりと項垂れた
ネアの先では、小十郎の含み笑いが浮かぶ。別段からかったつもりは無かったのだが、眼前の落胆ぶりを目にするとつい失笑を零したくなる。
「ったく、仕方ねぇな」
「お前の為に言っているのだがね」
砕けた口調で譲歩を仄めかせば、中々妥協する気配を見せない魔女は嘆息を吐く。
帰還してからというもの、
ネアは自分が傍にいる事で度々浮上する不穏な噂に対して敏感になっていた。特に、竜の右目に影響を及ぼし兼ねない噂を主君が耳に入れた際には訂正を勧めてきた。
しかし、その実。政宗は既に彼女の実情を腹心から聞き及び、理解している。故に全てを分かっていながら、
ネア対しては理解し難いという態度を取るのだ。
彼女の反応を楽しんでいるのだ…と。その一件で内心小十郎が頭を悩ませている事は、現在三傑の二人のみが知る。
一先ず要望を呑む意を示せば、頷いた
ネアは大人しくなる。そこで小十郎がほっとしたのも束の間、すぐに新たな件が切り出された。
「……そういえば、あの娘はどうした」
「
千代なら普段通りの振舞いだと聞いた。何せ、あの間の記憶はねぇらしいからな」
「…そうか。それならいい」
そっと安堵の息を洩らした
ネアはゆっくりと目を伏せる。
…
千代の体を拝借していたのは致し方ないとして、身体に刀傷を作ってしまった事には少なからず罪悪感があった。身内からの追及も考えると尚更負い目を感じたが、それでも普段の生活に戻る事ができたのなら、謝罪に向かう事はかえって
千代に悪影響を及ぼすだけだ。
「二度と遠くへ行くなよ」
「!」
ふいに思考が途切れる。
先程の表情から一変、小十郎の真剣な表情を前に目を開いた
ネアは何度か瞬いて、それから発言の意味を酌む。釘を刺す彼の言葉は懸念とも憂慮とも取れて、稀に見る心配ぶりに思わず顔が綻んだ。
真面目に告げたにも関わらず、
ネアの破顔を目にした小十郎は眉を顰めかける。こういった際に見せる彼女の笑顔の裏には大抵悪戯心が潜んでいるのだから。
と、腰を浮かせて少しだけ距離を詰めた魔女の頬笑が僅かに傾いた。
「何だ、寂しかったのか」
「そうだと言ったらどうする」
ネアはからかいと冗談半分に告げたつもりだった。それだけに、予想だにしなかった小十郎の躊躇無き肯定に思わず瞠目する。真っ直ぐに向けられた双眸には羞恥の色も負情も無い。ただ、答えを聞く為だけにじっと据えられている。
―――どうすると聞かれても、答えは一つしかない。
「…傍に居てやるしかないじゃないか」
距離を置いた時間と、本当の再会と成るまでに掛かった月日と。少なくとも、此処に至るまでに掛かった、短いようで長い歳月を埋めるまでの間、付き従ってやろうではないか―――。
(……尤も、わたしもお前の元から離れる気は更々無いのだが)
口にすれば羞恥を招くであろう言葉を、今は胸に秘めたまま。
再び腰をずらした
ネアは小十郎の背へ自身の背を預けた。おい、と抗議の意を短く上げた声を聞きつつも、構わず凭れ掛かる。
温かな背から伝わるのは、微かな鼓動。その心地良さに瞼を伏せると、すぐに小十郎の抗議の声も止んだ。代わりに落ちた嘆息が一つ。それ以降、庭から聞こえる葉の囁きと風の音が部屋に小さく滑り込んで、一層合わせた背中の温もりを感じ取る。
今はこのままでいい。
言葉の代わりに繋がりを認めて、口角を緩やかに持ち上げる。
穏やかなこの日々が、どうか一日でも長く続いてくれたならばと、切に願いながら。
- 終 -