大坂から届いた書状の返事を送ってから、数日後。再び届いた書状には、十日後に訪ねるという旨が綴られていた。
その言葉を違えず、十日後に奥州へ来訪した豊臣一行――大将の姿は無かったが――を、竜の右目とその侍女が迎えに赴いた。すると、最初に馬上から降り立った半兵衛は以前より少しばかりやつれた面を少女へと向ける。開口一番に投げかけた言葉は、あくまでも気丈に振舞う為の一声で。
「無事だったようで何よりだ。目に負った傷も治っているようだし」
微かに口角を持ち上げる半兵衛の言葉に、反応を示したのは侍女……ではなく、竜の右目であった。
一行と対面しながらも、含みある視線を傍らへちらりと差し向ける。
「目の傷…?」
「何でも御座いません、お気になさらず」
強張りかけた顔を抑え、冷静な表情を保つのは存外難しい。それを実感しつつ小十郎の視線から逃れるように顔を反対方向へ傾ける
千代であったが、ふいと逸らした眼差しの先に有るのは、警戒心溢れる二組の双眸。見覚えのあるような銀と、初見の一見恐ろしい赤銅と。
「……それより、わたしはあちらのお二方が気になるのですが」
「ああ、君は一度刃向かっているから、警戒しているんだろう」
「……」
半兵衛は軽口でそう告げはするものの、その眼差しに含まれているのは警戒心を超えて、殺意に近い念だ。恰も呪詛を掛けんばかりの気迫で、無言の威圧を与えてくる。それに小十郎が気付かない筈も無く、念の為にと右越しに差してある黒龍をちらりと一瞥する。これを鞘から抜く時が来ない事を、切に願って。
「
千代。此度ばかりは待機するが、文句はねぇな」
「……ああ、うん。まぁ」
微妙な返事をした
千代が一歩身を退くのを傍目で確認した小十郎はそっと溜息を吐きながらも、一先ず一行を準備の整え終えた部屋へ案内するのだった。
/二十四.…窮鳥入懐
一行を案内したのは十畳ほどの部屋であったが、そこはあくまでも従者の待機場所である。そこからさらに施術を行う為の別室に移る旨を半兵衛に伝えたところ、一名の異論者が同行の名乗りを上げ、説得にも折れる気配が無かった。
結局、豊臣の従者と竜の右目を連れて施術の場に移り、治療が開始されたのである。
進行の程を調べるにあたり、最初こそ会話は交わされていたものの、やがて施術に入ると言葉が途絶えた。治療現場の実見厳禁という条件を
ネアが出したため、小十郎と従者――三成は衝立越しに待機をするしかなかった。
時折、水を浸した布を絞る音が聞こえる。その水音に混ざり何をしているのかと真隣へ疑問を投げかける三成であったが、現場を目にした事の無い小十郎も首を捻るしかない。
ようやく会話が聞こえてきた頃には、既に半時が経過していた。
「しかし、奴が条件を提示してくれて本当に助かった」
余裕が出てきたのだろう。布団上でうつ伏せになる青年の背へ手を当てる
ネアは、まるで呟きのように言葉を漏らした。すると、ちらりと後方を見やった半兵衛は少しの間考えるように視線を外すと、程無くして声音低く呟きを返す。
「勘違いしないでくれ。豊臣は天下を諦めた訳じゃない」
「そこは分かっているが、民を巻き込む事だけは避けてほしい。それだけ守ってくれれば後は勝手にやってくれ」
一瞬、衝立の向こうで緊張が走ったのを感じ取った
ネアは敢えて柔らかい口調で告げると、張り詰めかけた空気が霧散する。すぐに静まったらしき気配に内心安堵しながらも、治療を再開させた。
―――本来ならば、この治療の件を受ける義理など無い。しかしこれを申し出たのは当人ではなく主であると知ったが故に、彼女も応じたのである。
但し、他国の要求に応じるのはこれきりで終わりにしたいところではあるのだが。
「君もその民の中に入っているのかい?」
「当然だ」
「あれだけ戦に長けて暴れておきながら、今更民を主張するのは虫が良すぎると思うのだけどね」
「―――」
確かに虫の良い話だ。だが、それでいい。
少なくとも今後三年の間はまともに動ける筈も無いのだから。
そう、黙したまま考えていた―――刹那。
“ 返 し て ! ! ! ”
恰も不意打ちの如く胸中へ襲い掛かる主張が嘔気を催す。喉元から競り上がりそうになるものを何とか堪えて下すまでに、大凡三秒ほど。手が止まり、小刻みな振動が微かに背を伝うのを感じ取れば、異変に気が付いた半兵衛は顔を傾けると不審気な眼差しを背後へ送った。
「
千代君?」
「……少し、休憩してくる」
先程脱がせた上着を半兵衛の背に掛けて、平常を装いながらゆっくりと立ち上がる。胸の内を叩き付けるような痛みも嘔気も抑え込み、一旦別室で休息を取ろうと衝立を傾け、一人分が通れるほどの間を開けようとした。
……だが。
「小十郎、手を貸―――」
「!」
手を貸せ、と。
彼女はそう、言い切ったつもりだった。
しかし言葉は語尾で途切れた上、衝立の足元に突っ掛かった。そこから足を引く間も無く、衝立ごと倒れ込んでしまった。
これに慌てたのは小十郎だけではない。一瞬構えた三成も倒れた者の様に眉を潜め、この半時の間傍にいた半兵衛もまた何事かと軽い瞠目を見せた。
隙かさず
ネアを抱き上げた小十郎は倒れた衝立の向こうで身を浮かせかける半兵衛へ指示を下す。無論、傍らにて侍する従者への指示も忘れずに。
「竹中、お前はそこを動くな。石田は竹中の傍から離れるなよ」
「ああ……」
「無論だ」
突然の異変を問う暇も無く、半兵衛はうつ伏せのまま足早に出て行った小十郎の背を無言で見送る。衝立は三成によって元に立て戻されたが、彼の胸中には暫くの間不安が残されるのだった。
ぐったりとした
ネアを抱えたまま足早に歩く小十郎はすぐに自室へ足を踏み入れた。
念の為に敷いておいた寝茣蓙の上へ身をそっと寝かせると、目を伏せた少女の額には冷や汗が浮かぶ。呼吸は浅く、険しい表情が体調の悪化を物語る。
「無茶をするなと再三言った筈だ」
布団の傍らに腰を下ろした小十郎が予め頭元に置いていた手拭いで少女の額の汗を拭ってやると、薄らと目を開いた
ネアは歪む視界の中で傍らの男を捉えた。
「……切り替わりそうに、なった」
瞬間、小十郎の表情が硬くなる。
何が、とは最早聞くまい。益々迫る刻限はどうする事もできず、焦燥は募るばかり。
仰臥したまま投げやった視線の先には障子に区切られた庭、その片隅に立つ痩せた桜の樹がある。……それは、じきに無くなるであろう己が証。
「どうやら、待てないらしい」
「間に合うのか」
「間に合わせるさ」
未だ顔の青褪めた少女はゆっくりと起き上がる。さっと背に手を添えた小十郎は一瞬眉を顰めてみせたが、文句も脅しも通じない相手であるために余計な言葉は告げず。
「間に合わなければ、意味が無い」
奥州へ帰還を果たしてからの理論構築。それを果たさねば、自分には後が無いのだから。
決意と不安と焦燥と。混濁する意中を鎮静させるように、ひとつ深呼吸をする。そんな姿を複雑な気持ちで見下ろしていた小十郎であったが、ふと人の近付く気配を感じて面を上げた。
徐々に大きくなる足音は、途端にぴたりと止む。同時に部屋をひょいと覗き込む顔があって、それが不意に神妙な面持ちへと一変した。
「…客人ほったらかして小十郎と媾曳か」
「ま、政宗様……!!」
「jokeだ、気にすんな。―――で、何かあったのか」
突然訪れた政宗は横たわる少女を見下ろし、次いで腹心の元へ視線を転じる。仰臥する者の顔色の悪さと二人の浮かない表情が、少なくとも良い状況ではない事を表していた。
問いを受けて自然と傍らを振り返る小十郎はしかし、冷や汗を浮かべながらもゆっくりと起き上がる
千代の背へ慌てて手を添える。横になるよう告げようとした手前、政宗を見上げた
ネアの顔には、無理に作ったらしき微笑が浮かぶ。
「…政宗様、一つご許可を頂きたい件が」
「Ah?」
「来年、五つになるわたしの従兄弟を片倉様が小姓に寄越せと仰いまして」
「
千代、お前…!!」
「マジで言ってんのか、小十郎」
侍女からの思わぬ報告と、聞くや否や腹心の狼狽した様子に、政宗は至極真剣な表情で――眼差しには若干偏見を含んで――小十郎を凝視する。その痛い猜疑に頭痛を覚えた当人は眉間を押さえたが、述べようとした否定をすぐに弁解へと切り替えた。
開口の手前には、深い嘆息を入れて。
「近日、
千代の帰郷が決まりまして…もし迷惑で無ければ、従兄弟にあたる女子を小姓に付けてほしいと勧められていた最中です。
千代曰く、幼少の頃から様々な経験を積ませるのがあの家では当然とか」
「成程な……で、お前はどうする」
「二年ほどまでならば良いかと」
―――来年から、二年。
それは彼女がこの世に改めて降り立って、元の姿に戻るまでの期間だ。
ネアがちょっとしたからかいも含めて告げた件を、小十郎の補足によって如何にか通せる話となった。
しかしながら、既に偏見で固めた――勿論揶揄交じりで――隻眼を二人へ交互に向ける政宗は腕を組むと、少し考えてから軽く笑った。……まるで、弄り甲斐がありそうな今後に期待するかのように。
「俺は別に構わねぇが……部下には最初に説明しておけよ。稚児趣味と勘違いされるぜ」
「心得ておりまする」
普段よりも恭しく頭を垂れた小十郎の傍らでは、
千代が笑みを禁じ得ないでいる。その二人の姿が一瞬、番のように見えたのは気の所為だろうか―――。
そんな錯覚も今は念頭から払うと、退室を告げた政宗は身を翻すと共に挙げた片手をひらりと薙いでみせた。足音は再び遠ざかり、それが小さくなるまでの間、小十郎は暫し頭を下げ続けていた。
普段ならば程良いところで上げていたが、一体どうしたのか…と。そう、
ネアが疑問に思ったのも束の間。
突如ぐらりと視界が回って、襲う眩暈から後方に倒れ込む。念の為にと、頭の下に敷かれていた枕と後頭部が衝突すれば、鈍痛から思わず顔を歪めた。
「っ……」
「馬鹿娘が、無茶しやがって」
「失礼な……」
小十郎の発言を――特に前半を――きっぱりと否定をしたかった
ネアの口は、残念ながら回らずに中途で切れる。馬鹿ではない。そして無茶もしていない。そんな彼女の反論も胸の内で蟠り、結局不発に終わってしまった。
だが、小十郎は彼女の本意を斟酌した上で話を進めようとしているのだ、本気で文句を切り返すつもりは無い。
…と、再び溜息を吐いた小十郎が徐に腰を上げる。自然と天上を見上げるような形で男を見た
ネアは再度起き上がろうとしたが、未だ休息を要する身は中々言う事を聞かない。見るからに最悪の調子では、治療など到底迎える筈もなかった。
「今日は終いにしておくぞ。続きは明日にしろ」
「…ああ……、すまない」
辛うじて喉から溢れたのは、謝罪の言葉。
それきり瞼を伏せて一時の眠りに就いた少女を認めると、安堵混じりの息を吐き出した小十郎は、おそらく中断を聞き渋面を作るであろう半兵衛の反応を予想しながらも事を告げに部屋を出て行くのだった。