『 カ エ シ テ ! ! 』
“鳥”を仲介に小十郎との会話を終え、外部からの魔力供給から方法を切り替えた途端、突如叩きつけるような叫び声が胸の内を遡上する。
まるで異物が競り上がるように沸騰する、主張と不快感。悲愁の色濃く滲む訴えはやがて四肢の自由を奪い、抑制を強めようとすればするほど吐気が増していく。
既に馬を降りていたために落馬こそ無かったものの、その場に崩れるようにして蹲る
ネアは予想外の事態に苛立ちを隠せずにいた。
(
グリューネヴァルトとの邂逅は逸れた、豊臣との戦もどうにかなった、小十郎も無事だった―――だというのに…!!)
ここまで来て、刻限を知る。その悔しさ。
身の主権が移る…否、戻るのをいつまで抑えられるか。遅くて十日か、早ければ……明日。
歯を食い縛りながらゆらりと立ち上がった
ネアが見た先には、彼方の夕暮れ。じきに沈もうとしている陽と共に、いっそこの思いも沈んでしまえと、丹色の空を睨んで。
次第に膨張する主張を抑え込みながら、じきに現れるであろう男を平原で待ち続けていた。
/二十一.…空即是色
濃くなった丹色の空に薄らと夜陰が滲む。
闇夜が迫り始めると、辺りが暗むまでに然程時間は掛からない。周囲の景色が見えなくなるその前に、合流を果たさなければ。
胸に募る焦燥からか、手綱を強か振るい、馬を急かしていた小十郎はひたすらに東を――既に決着がついているであろう小田原を目指して進み行く。
前方には魔女の居場所へと誘導する“鳥”が淡い光を帯びて羽搏き、その姿はやがて夕闇に溶け込み始める。生き物ではない証を目にしながらも、不可解なものを見慣れた所為か、動揺は微々たるもので。
前方によくよく目を凝らす小十郎が魔女を捉えたのは、日没間近の事だった。
「
ネア!」
疾駆の速度を落として馬を走らせながら、身を僅かに左へ傾けた小十郎は地に佇む者の名を叫ぶ。
その声を聞けば、彼女は誰何するまでもない。疾走する馬が駆け抜けるであろう方向へと走り出し、時折背後を確認しながら疾走の速度を上げていった。
先を急く今、一度馬を止めて乗り込むのはまどろっこしい……と。そういう事なのだろうと察した小十郎は、彼女との距離を少しずつ縮めていく。そのまますれ違いとなる手前に左手を伸ばせば、黒い外套から伸びた少女の手がしっかりと掴み取る。逞しい腕が彼女を馬上へ引き上げるのに、然程力は要らず。
後部へ騎乗しようとした
ネアを力尽くで前部に乗せると、不満の眼差しが男を射る。それを敢えて流すと、次いで小十郎の双眼が彼女の有様を捉えた。
「無事……には見えねぇな」
「無理に大坂を脱出した代償だ。心配は要らん」
「……」
黒の外套の間から覗く、一見手酷くやられたようにしか見えない襤褸の着物。腕を伸ばした際、袖が無いように見えたのはおそらく気の所為ではない。
それでも淡々と無事を告げる
ネアに対し、小十郎は追究を告げなかった。……少なくとも今はいい。後で聞き出せば良いのだから、と。
そんな男の意を知る筈も無く、一先ず鞍の前部に落ち着いた
ネアはちらりと背後を見やる。戦闘の跡と見られる上着の破れと土埃の汚れ、頬に薄らと残る痣のような痕が交戦ぶりを物語っていた。
「お前も随分と手酷くやられたようだが」
「竹中との交戦で受けた傷だが、それほど深くはねぇ。―――それより、」
「気になるのは伊達軍大将の無事か」
ああ、と首肯した小十郎の表情が曇る。
本来ならば主の背を守るべき腹心が敢えて西へ向かった。自身の選択とはいえ、致し方の無い行動ではある。しかし今や大規模と化した軍との決着ともなれば不安が付き纏う。
背後を見やった
ネアは、彼の心中を察したのだろう。目を合わせる前に再び進行方向を見詰めながら、己の知る情報を淡々とした口調で紡ぎ出す。
「残念ながら、負傷の具合は未確認でね。勝敗は今しがた確認したが……辛くも、といった感じだったな」
「…そうか……」
此度ばかりは無茶に対する小言は告げまい……と。安堵を得つつ考える男の面は未だ硬いものの、緊張は気休め程度ながら解れたようだった。
ほんの僅かに和らいだ様子に
ネアもまた一時の安堵を得た。……だが。
男にとっての山場は過ぎたとしても、彼女にとっての峠は未だこれからで。
「…景綱」
「ん?」
「…………いや、今はいい」
今言わずにいつ言うのだ。そう内心で己を叱咤しながらも、
ネアは口を噤んだ。
小田原へ着けば告白する間が無くなるのは目に見えている。…だが、どうしても此処で告げる気にはなれなかった。
何故だと自問を反復させる事でようやく自答を見付けたのは、小田原へ到着する手前のこと。
恐れているのだ。
この男の反応が怖い。いや、それよりも別れる事自体が。何故。…否、答えは分かっている。ただ、認めたくないだけで。
―――いつの間にか竜の右目に依存してしまっている。だから、この男から離れたくないのだと。
ほぼ沈黙した状態のまま小田原へ到着した小十郎と
ネアであったが、闇夜にぼうと浮かび上がる堅城、その手前を目にするや否や思わず心中を口走った。
「……何だ、この異様な雰囲気は」
ネアの言葉に内心同意する小十郎もまた双眸を細めて辺りを見渡す。点在する篝火のお陰で周囲はぼんやりとながら明るかったが、見て取れるのは赤と黒。つまりは豊臣軍兵士の群衆。それも皆座り込んだ状態のまま、時折通り掛かる一騎を見上げてはすぐに視線を逸らす。沈下する空気の中に、戦意は殆ど感じられなかった。
群衆が避けている、大手門へ続く一本道を駆け抜ける。門扉は丁度一騎が通過できる程の間が開けられていて、若干速度を落として潜り抜けると、ふいに小十郎が手綱を引いた。馬の嘶きが辺りに響く。
点在する篝火の明かりによって浮かび上がる青の影が此方を向いた気がした。
途端、小十郎が張り上げた声に
ネアは肩を僅かに竦める。
「おめぇら、無事か!」
「!――か…片倉様っ!!」
突如静寂を破る声に、目を瞠った者達が振り返る。夜陰の所為で鮮明に捉えるのは難しかったが、その聞き慣れた声によって、西で別れた竜の右目だと判別する事は実に易かった。
蹄の音が近付けば近付くほど姿が鮮明になり、小十郎と
千代の姿を認めるや否や青甲冑の男達は表情を豹変させる。
「俺らは無事ッス。…けど、筆頭が」
彼らの変化は一喜一憂。数人の部下揃っての反応だけに、馬上の二者は思わず顔を見合わせた。手傷を負った、という反応にしては憐憫の念が窺えない。主の身を按じているというよりは奥州でよく見られる喧嘩の行き先をはらはら見守っているような、そんな若干ずれた様子だった。
一体どういう事だと小十郎が問うその手前、部下が先導を始めてしまったために一先ずは案内に従う事にした。
篝火を頼りに暗い夜道を通り、その先に現れた闇夜で輪郭の淀んだ門を潜り抜ける。さらに奥へ進むと、やがて一軒の御殿が見えてきた。手前に集う群青の一軍へ鞍を下りた小十郎が掛けるは、帰還の一報。
「皆無事か」
「!!小十郎様、」
「此処で騒ぐな。…政宗様が中に居られるのだろう」
「あ、はい」
けど、と続けようとした部下の目の前を、小十郎が通り過ぎていく。すると慌てて別の数人が御殿の扉を開けに掛かり、同時に中へ声を掛けた。……何故か声音に焦燥を滲ませながら。
「筆と――」
「人の邪魔すんのもいい加減にしろ!!」
「う……?」
扉を開けた先と、苛立ちを含んだ叫声と、床を踏み叩く鈍い音と。
ほぼ同時に重なった殿内の音に驚く者と肩を竦める者、そして眉を顰める者がある。反応は様々であったが、途端に誰もが口を噤むと、竜の右目を筆頭に中の様子を覗き見始めた。既に床から身を起こしている青年達のやり取りが扉の間から漏れてくる。
「だから、分かったって!」
「全然分かってねぇじゃねぇ――っか……!!」
「ぁあほら、動いたら傷に障るだろ?」
「テメェの、所為、だろうがっ……!!」
苛立ちを露にすればするほど苦悶の色を滲ませる一方と余裕に聞こえるもう一方。彼らの妙な会話に耳を傾けていた小十郎は扉の内から視線を外さぬまま、そろりと忍び足で隣へやって来る者の気配を感じ取っていた。
「……何だこれは」
「わたしに分かると思うか」
「いや、」
別段訊ねた訳ではなかったのだが、偶然独り言を耳にした
ネアが反応を示せば小十郎の頭が僅かに横へ振られる。…共に来たばかりなのだから、分からないのは当然だ。
そんな思考を脳裏に浮かべると同時、埒の明かない現状を打破するべくゆるりと立ち上がると、ほんの僅かに開いていた扉を勢い良く開放した。
「政宗様」
「!小十郎――」
「ご無事で何よりです。……が、これは一体何の騒ぎでしょうか」
突然現れた腹心の姿に、政宗が覚えた驚喜も刹那の間。前半には安堵の声を、後半には這うような低声を吐き出した右目の真面目な顔が、何故か恐ろしい。
腹心の名を呼んだきり、告げる予定だった言葉を飲み込んでしまった政宗は渋い顔をする。大役を果たしたにもかかわらず、何故苦い思いを抱かねばならないのか。
不服を覚えながらも、この騒ぎ――普段とは違い他者に迷惑は掛けていないが――に対する反論を言い出せないでいる。そんな主を横目に、小十郎の標的はもう一人の青年へと転じた。
「前田、お前もだ。何してやがる」
「えーと…今回の事を、独眼竜に責められてる最中で、さ……」
「……」
苦笑を浮かべつつ言い訳染みた説明を始める慶次であったが、冷徹な小十郎の前では次第に言葉が途切れていく。身を縮こめる姿に、昼間の豪胆はどこへ追いやったのかと甚だ疑問に思いながらも、政宗は黙したままゆっくりと身を引く。……腹心による落雷の予感がしたのである。
だが無理もない。一見で分かるほどの満身創痍で言い合いなどしているのだから、部下にとっては肝を冷やすものだろう。かといって部下が主へ一喝する事はできまい。
(Timingが悪ぃな……)
入口には扉を背にした竜の右目が在る。逃走は不可能だと諦めかけた政宗はしかし―――腹心の後方に、見てしまった。
抜き足差し足忍び足。こっそり抜け出そうとする、少女の背中を。
お、と洩らした政宗の声に、慶次と対面していた小十郎が反応する。主の眼差し、その先を予測すれば、背後の変化を察する事は実に容易い。
片足を軸に摺り足で半歩引けば、背を見せる少女の衿を即座に掴み寄せた。
「逃げるな元凶」
「失礼な。話の邪魔にならんよう隅へ移動しようと」
「しなくていい。黙って此処で座ってろ」
小十郎のぶっきらぼうな言い方とぞんざいな扱いに思わずむっとした
ネアは、衿元を掴まれたまま振り返る。睨め付けるように男を見上げたが、すぐに目を逸らされてしまった。
元凶扱いを受けた
ネアが黙っている筈も無く、そこで再び反論をすべく開口しかけた―――のだが。
「騒がしき輩共よ」
突如戸越しに聞こえてくる、重低な声。一瞬身構えそうになった政宗だが、隣室を仕切る障子を目にするなり身に入れかけた力を解いた。脅威として見做していた大国の将が突然声を発するものだから、驚くのも無理は無い。
「―――豊臣」
「何だよ秀吉、昔もこんなに賑やかだっただろ?」
一時小十郎と
ネアの心中で警戒心が首を擡げたが、それを砕くように口を挟んだ慶次が片手をひらりと振って苦笑する。……複雑な情こそ抱いてはいるが、今はこれで良い。そう割り切れば、ゆっくりと立ち上がる慶次は襖を開けると隣室へ足を踏み入れていく。
そんな彼の姿を見送る政宗であったが、ふいに名を呼ばれたことで意識が逸れた。
「政宗様、」
「―――勝ったぜ。一応な」
改めるように姿勢を正した腹心の意図を察すれば、政宗はややあって結果を告げた。だが、その顔には若干苦い思いが浮かぶ。
善戦ではあったが、私的には腑に落ちない戦だった―――。そんな伊達軍大将の心中を、竜の右目の背後に座する少女が衝く。
「前田の後にか」
「おい」
不遠慮な一言を聞けば、小十郎は思わず咎めるような声を発する。…慶次の図った秀吉との“喧嘩”が奏功した事は、彼らの会話と態度から酌み取れた。となれば伊達軍と豊臣軍の衝突はその後。休息を入れる間もなく二戦目に突入した秀吉が不利である事は火を見るよりも明らかである。
だが今は乱世。故に咎める者は少ないが、それでも挟まれた一言に政宗もまた反応を示せば、即言葉を切り返した。
「そういうアンタは他力本願だろ」
―――他者の力を利用して事を終息させようとした、その行いに相応しい言葉ではないだろうか。
そう考えを巡らせ、口元をほんの僅かに引き上げつつさらなる反撃を待つ政宗は、しかし。
竜の右目の背から顔を出した魔女は青年と同様に笑み――此方は薄笑いだが――を浮かべると、恰も独り言のようにぽつりと呟いた。
違いない……と。
「で、アンタは結局何がしたかったんだ」
「小十郎の無事と、豊臣の進攻範囲を国内に留める。これさえ叶えば、何もしないというのに」
「………は?」