「秀吉ッ!!」
「―――!」
衝突する超刀と剛掌が鈍い金属音を一帯に響かせる。
得物越しに搗ち合わせた視線は互いに険しく、激情が交錯する。交わりは一瞬、すぐさま超刀を弾き飛ばすように剛掌を真横へ薙ぐと、慶次の身が大きく後退した。
崩した体勢はすぐに整えられ、再び得物を両手で構えた慶次は豊臣軍対象を真っ直ぐに見据える。久方ぶりに直視した男の顔は今、険相の内に複雑な情を混濁させているように見えた。
下げた剛掌がぎちりと鳴って、作った拳に力を篭める。まるで、何かを耐えるかのように。
「今更何をしに来た」
「勿論、お前を止める為だ」
青年の迷いの無い答えに、秀吉の紅を帯びた双眼に怪訝が滲んで細められる。嘗ての友、その後方には未だ身構えた独眼竜の姿が、さらに慶次の馬を手繰り止めた見覚えある少女が在って、予想だにしなかった現況を眼前に表情を歪ませたくなった。
「アンタが来たのは意外だな、優男。腹は据えたのか」
「ああ。わるいけど、先に失礼するよ」
互いに視線は交わさず、六爪を携えた龍は久方ぶりに見た傾奇者の背へ投げ掛ける。
彼にとっては乱入者に対する牽制のつもりだったが、得物を携え身構える青年は至極淡々としていて、対峙への本気が窺える。
ようやく此処に至った、しかし自身の眼前を塞ぐ男をどう退けるべきかと思いあぐねていたのだが。
ふいに、政宗の真横を一騎が駆け抜ける。左側を過ぎたからこそ視界の端に映る光景を、彼は見逃さなかった。
伊達一軍の手前で馬の手綱を引き留まる、少女の姿を。
「……
千代?」
猜疑を含んだ呟きが、振り返った少女の顔を捉えたことで確信に変わる。何故彼女が居るのか――そんな疑問を覚える一方で、
千代が騎乗する馬を認めた政宗は納得の意を得た。
「奴を連れてきたのはお前か」
後方に投げ掛けた言葉に反応を示したのは、馬上の者だけではない。乱入者と対峙する豊臣軍大将もまた視線を逸らして少女を捉えると、表情をほんの僅かに険しくさせた。
厄介な者ばかりが此処に揃った……と。
/二十. …盛者必衰
小田原城前にて巻き起こった戦は半ば混沌とした状況に陥っていた。
豊臣軍大将と肩書き上前田軍大将の対峙。次第に激しさを増す口論と、今にも交戦が始まりそうなほどの緊張感が場に漂う。
その背後では伊達軍と豊臣軍の激しい衝突が起こり、数では圧倒的な豊臣の兵を士気の高い蒼群が次々に蹴散らしていく。絶えぬ喧騒の中、優劣は見定めるまでもない。
馬上から見守っていた
ネアは、程無くして決断に踏み切った。
鞍から飛び降りると、丁度馬の付近に寄った伊達軍兵士を呼び止めて手綱を放った。兵士がそれを慌てて掴んだと同時に駆け出して、ごった返す戦場に迷い無く飛び込む。その只中、主を失って彷徨く豊臣軍の馬を易々と拝借し、颯爽と鞍に騎乗した。そのまますぐに馬首を巡らせようとした―――刹那。
「何処に行くつもりだ」
龍の声が、ふいに魔女の身を引き留める。
振り返った先には、一爪を携えた政宗の姿があった。本来ならば豊臣軍大将と刃を交えるところ、己の位置を突如乱入した慶次に取られているのが現状だ。前田の風来坊を、彼を連れてきた者にも若干の苛立ちを覚えていた政宗は、彼女の戦場から退き兼ねない行動を見逃さずにいたのだが。
馬上から政宗を見下ろした
ネアは、喧騒を抜けたところで双眸を僅かに細めると明朗な声で返答を告げる。
「片倉様を迎えに」
「―――」
喧騒に負けず通された返答に対し、政宗は怪訝そうに隻眼を眇めた。また西に戻る気なのか。すれ違う可能性は高いだろうに、それでも行くと言うのか。
思考を巡らせながらも、不意に真横から振り下ろされた敵兵の刃をひらりと躱す。躱し様に一爪で叩き斬ると、ごしゃりと音を立てて頽れる兵を一瞥すらせず、馬上の少女を見据えていた。
「事を済ませ次第小田原に向かってる筈だ。行き違うのは目に見えてるだろ」
「それは元より承知の上。しかし、」
「それでも西に向かうのは野暮だぜ」
迎えに行ったところでどうなる訳でもない。ただ、共に東へ戻ってくるだけだと。
告げかけた男の口が、ふと脳裏に浮かんだ可能性によって閉ざされる。
―――或いは、迎えに行ってまで果たすべきものがあるのだとしたら。
「アンタ、何に焦ってんだ」
喧騒を背に口走った、瞬間。
怒気でも哀感でもない情を灯した少女の双眼が龍を射貫く。あたかもその質疑が触れてはならない件であるかのように、眼光鋭い眼差しを向けられた政宗は思わず隻眼に怪訝を濃く滲ませる。まるで睨み合うかのように視線を搗ち合わせていたが、彼女の言葉による返答は無い。
戦場で余所見をするつもりなど毛頭無かった……いや、そもそも豊臣軍大将との決着を当然考えていた政宗にとって、現状を引き起こした者の退席など見逃せる筈が無かった。故に行かせまいと引き留めていたのだが。
視線は逸らさぬまま、不快感を面に表してみせた政宗は後方を指す代わりに顎をしゃくってみせる。
「大体、奴を連れてきたのはアンタだろ。それを放置したままで行くなんざ―――」
“許せる筈がねぇ”。
その先の言葉は、突如盛大に響いた鈍い音によって容易く掻き消されてしまった。
驚きに眼を瞠った兵士は複数。中には交戦の手を止め驚愕を露にする者もいる。無理もない。乱入者によって後退を許した不敗の将、その男の上肢が前かがみになり、もう少しで膝を地に着き兼ねないほどに屈している。
衝撃に耐え、勢い良く顔を上げた男は覇気を放つと共に対峙者を睨め付ける。今、傾奇者の手には得物が握られていない。手にあるべきそれは地に突き刺さったまま、利き手はぐっと拳が作られていた。
衝撃の所為か微かに震えるそれは、今まさに友の頬を殴り飛ばしたばかりだった。その証拠に、男の左頬は薄らと赤くなっている。
「何故超刀で戦わぬっ……!」
「今言ったばかりだろ。戦をしに来た訳じゃないって」
利き腕を軽く回しながら二、三歩ほど対峙者に近付いた慶次の面は真剣そのものだ。そこにはいつものゆったりとした余裕など微塵も無く、ただ覚悟一心が湛えられるばかり。
「―――喧嘩だ。俺はお前をぶん殴りに来たんだ、秀吉」
「まだそのような戯言を吐くか…!」
「戯言じゃない。俺は本気だよ」
超刀から距離を置くように前へ出た慶次が地を強く踏み締める。迷いは無い。…少なくとも、先日の対面時と比べると断ち切られているように見えた。
吐き出した返答の、続きを明朗に紡いで。
「本気で、お前を止める」
決意を吐露した慶次は共に構えを取った。眼前の友と、最後の対峙を図る為に。
再び戻り始める喧騒の中、膨れ上がる緊張を肌で感じながらも彼らの様子を傍観していた政宗と
ネアは再び顔を見合わせた。彼女の面は再び冷静に戻り、淡々と言葉を紡ぎ出す。
「わたしでは止められそうにありません。ですので、」
「―――アンタの狙い通りって訳か」
涼しい顔から一旦視線を逸らすと、近付く敵兵を一掃した政宗は軽く鼻で笑ってみせた。…慶次の乱入も、豊臣軍大将との対峙も、おそらく彼女が仕組んだ事であると。
そう考え、柳眉を寄せる政宗の姿を横目に、今度こそ馬首を巡らせた
ネアは僅かに距離の縮まった青年を静かに見下ろすと、そっと嘆息を零した。
「……わたしは、豊臣軍が日ノ本の外に向かいさえしなければ、それで良いのです」
「どういう事だ」
説明したところで分かるまい。今は解釈を述べる時間すら惜しい。
自然、政宗との会話を無返答という形で終わらせた
ネアは手綱を振るい、走り出す馬の背で戦場を見渡しながら場を駆け抜け始めた。
敢えて黙した蒼穹が、瞬く間に遠ざかる。
駆け抜けざま膝を屈しかけた男とふいに目が搗ち合ったが、すれ違うまでの間は僅か三秒足らず。今は体勢を整えるだけで終わるその間、秀吉は戦場を離れ行こうとしている少女を注視していた。
険相とは異なる、別情を双眼に浮かべながら。
やけに長く思えた視線の交錯。それによって彼の眼に滲んだ情を酌み取れた
ネアは、今度こそ前方を―――西を目指し馬を疾走させる。
決してすれ違いにならぬよう、東へ疾駆しているであろう竜の右目の所在を己が持つ術で探りながら。
『何処にいる……もう時間が、無―――』 千切れ雲の点在する蒼穹に、斜陽が薄く射し始める。
共に染まり出す周囲の木々には陰が濃く差し、次第に日暮れの気配を醸している。西から東への移動の最中、流れ行く景色の変化を馬上で捉えた小十郎は微かに嘆息を吐いて、身に走る鈍痛をやり過ごした。……豊臣軍参謀との交戦で辛くも勝利を納めた先の記憶がふと脳裏に甦る。
―――東は片付いただろうか。主の怪我の程は。伊達軍の被害状況は。
様々な思考を走らせる小十郎であったが、そこに伊達軍敗北の可能性を見出す事は断じて無かった。…否、敢えて考えなかっただけなのかもしれないが。
山を越えると、右も左も平原ばかり。低山の山林に踏み込んだと思えば、暫くの間は緑ばかりの景色が続いている。
一刻も早く伊達軍との合流を。
その一念で進み続ける小十郎はしかし、荒くなり始めた馬の息を聞けば休憩を挟むのは止むを得ず。焦燥を抑えながら手綱を引こうとした―――その時だった。
何気なく目をやった空に、傾れる星一つ。
夕刻すら迎えていないこの時に目撃するのは珍しい事だと、稀少な現象として済ませようとした。
……だが。
真っ直ぐに落ちるそれは千切れ雲の下を駆け抜けて、光の一点は然程の時も経たない内に地上との距離を縮める。鮮明な形を捉えるまでにそう時間は掛からず、落下してくるものが淡い光を帯びた鳥だと分かった瞬間、小十郎は思わず口を開いた。
「
ネア、」
あのような奇怪――と言うのは失礼だが――なものを飛ばせるのは、かの魔女のみ。自身の元へ真っ直ぐに降り立とうとしている“鳥”へ片腕を伸ばせば、それはゆっくりと降り立った。
強いて当て嵌めるのならば白鳩だろうか。羽を畳んだその“鳥”を間近で眺めていた小十郎はしかし、突如嘴を開いた“鳥”が聞き慣れた声で言葉を紡ぎ出せば、驚きに一瞬目を瞠る。
“何処にいる”
「――、駿河付近だ。夜には小田原へ着けるだろう」
“そうか。……無事で何よりだ”
鳩越しの会話は奇妙な感覚であったが、それでも真面目な返答を告げると、彼女の安堵を含んだ声が耳に浸透する。
安否を伝えると同時、彼女の無事を確認できたことでほっとしたのも束の間。疾駆の振動によって緩みかけた気を再び引き締めた小十郎は“鳥”の円らな瞳をじっと見詰める。
「便りを寄越すのは良いが、お前こそ何処にいる。猿飛の話が本当なら、甲斐か越後まで逃れた筈だが」
“残念ながら、彼の勧めを受けなくてね。今は相模と駿河の境界、あたりか”
―――近い。
“鳥”の話を聞きながら、道すがらに合流を果たそうと考えた小十郎であったが、彼女へ合流の指示を出す手前に確認しておきたい事があった。
彼女の現在位置からして、おそらくは小田原を出た後だろう。ならば戦の様も目にしている筈で。
「政宗様は御無事か」
“大丈夫だろう。何せ豊臣の相手は前田という男だ。伊達ではない”
「なに……?」
予想外の名を耳にした途端、小十郎の真剣な面持ちが僅かに歪んだ。
西にいる筈の青年が、豊臣軍大将との交戦に臨んでいる。その理由が解せないだけに、疑問が一番に浮上する。
「何故前田が小田原にいる。……まさか、お前が連れて行ったのか」
“さてね”
「おい、」
誤魔化しのつもりか、素っ気無く短い返答を耳にした小十郎は思わず追及の意を口にしかけたが、先を急ぐ今は言葉を飲み込んだ。もう少しで合流する、その折に問い詰めれば良いのだと割り切って。
「途中で拾っていく。そこを動くなよ」
“ああ…頼む”
嘴が紡ぐ素直な返答を珍しく思いながら、“鳥”が腕から飛び立つ姿を見送る。誘導の為、騎馬の速度に合わせて羽搏くそれを視界に入れ続ける小十郎は、一先ず魔女の待つ場所へと向かい始めた。
恰も久方ぶりの再会を期待するような鼓動の高鳴りを胸に秘めて。
(十)