少女が主の懸念となるのならば。
己への治療を断固として行わぬのならば。
ならばいっそ斬ってしまえと、本気で斬り捨てに掛かって、結局仕留め損ねた。
その結果がこれだろうかと、眼前の光景に険相を湛えた半兵衛は凛刀を片手に前方を阻む竜の右目を睨め据える。
「覚悟はできているか」
そこらに伏した兵を背に、髪を僅かに乱した男は佇む。吐き出した問いは低く、怒気が濃く含まれていた。
それでも、と。
決して退いてはならないこの状況下ならば刀を構えるより外に無く。
胸の息苦しさを覚えながらも、竜の右目の一刀目を弾くべく凛刀を奮うのだった。
/十九. …緊褌一番
夜明けを越えた先に、蒼穹が広がる。
千切れ雲の点在する天を仰ぎ見、さらに地の見渡す限り広がる緑が地の境界線を挟んでよく映えた。
風景こそ疾駆によって流れ行くが、今は一瞥をくれるだけで良い。かの軍勢よりも先へ出られるのならば―――。
豊臣軍を先回りすべく馬を走らせていた青年の、手綱を掴む手に力が篭る。逸る気持ちを抑えながら東へ疾駆を続ける慶次の脳裏には、嘗ての友ともう一度対峙する、その一念だけが在った。
このまま馬を走らせていれば、あと少しで隣国へ入る。そう考えながら国境付近――はっきりとした線引きが無いため、おおよそだが――に差し掛かった、その手前。
突如上がった嘶きに、慶次は驚く間も無く身を振られた。背を反り前肢を振り上げた馬を何とか宥め、落馬は辛うじて免れたのだが、何気なく視線を持ち上げた瞬間に警戒心が首を擡げる。
息荒い馬の鼻面の先。日中にも係わらず、影が一つ落ちている様を目にしたが故に。
「忍…?」
「傾奇者……お前が前田慶次か」
佇む黒頭巾の小さな影と慎重な声音から、影の中身を少女と踏んだ慶次はすぐに警戒を解いた。口調こそ素っ気無いが、敵意は微塵も感じられない。装束は忍というよりも浪士に近いだろうか。
眼前の者を観察しつつ、己の名を呼ばれた慶次は軽く首肯する。
「そうだけど…誰かの遣いかい?」
「豊臣だ」
「え……」
刹那、青年の表情が一瞬だけ強張ったのを、
千代は見逃さなかった。
縁ある者ではないのかと内心首を捻ったが、続けて懐から取り出した物を馬上の男へと差し出す。するとみるみる内に慶次の顔が驚愕の色に染まって、恐る恐るとそれを受け取った。
先日に失くした筈の御守りが何故大坂城主の手にあったのかと、疑問に思いながら。
「これ……」
「渡してくれと奴に頼まれた。確かに渡したぞ」
「ま、待ってくれ!!」
慶次が受けとるや否や踵を返した影を、彼は慌てて引き留めた。鞍から降りても少女の背丈は低く、自然と見下ろす形になる。
制止の言葉と共に肩になるであろう部位を掴もうと手を伸ばしたが、影は制止をするりと躱し、すぐに青年を振り仰いだ。
二者の眼が真っ向から搗ち合う。一方は怪訝を、もう一方は猜疑を湛えながら。
「本当に、秀吉からなんだな…?」
「ああ」
はっきりとした答えに、青年の瞳が微かに揺らいだ。同時にふと甦る、先日の対面。
加賀国主として大坂城を訪れ、中立の立場を貫くと断言したあの時、友が最後に己の名を呼んだ意味を探していた。その一呼に籠められた、牽制とは異なる情を。
御守りが如何なる経緯で豊臣軍大将の手に渡ったのかは分からない。だが、今ならば解るだろうか。嘗ての友の心情を―――。
片手の御守りを見詰めながら黙考する慶次の表情は硬い。何事かを決心しているようなその様子に
千代は口を挟む事無く傍観していたが、程無くして頭上の快晴を振り仰ぐ。
……悠長にしていられる程の時間は無い。
迫り来る豊臣の一軍よりも早く目的地へ到着しなければならないのだから。
「もう行くぞ。奴より早く小田原へ入らねば」
「小田原……」
影は今度こそ背を向けて歩き出す。その姿を慶次は黙って見送ろうと決めた――はずだった。
大凡で立てた計画では、小田原へ向かう道中で秀吉の前方を立ち塞ぐつもりでいた。だが、目的地の手前に立てば通過される可能性も少ない。真っ向から向き合い、しっかりと対話を交わし、或いは刃を交えるかもしれない―――。
考えた末、一歩を踏み出した慶次の口から再び問いが零れ落ちる。
「あんた、名は?」
「名乗る名は無い」
「そっか。……わるいけど、小田原行きに同行させてもらうよ」
「一人で行け。連れを作る気はない」
「そんな寂しいこと言うな――って!」
「っ!!」
拒絶の意をたっぷりと籠めて断ったつもりの
千代であったが、慶次にとって彼女の返答は予測の範囲内だった。故にそっぽを向くように揺れた頭巾を認めた直後、少女の身を素早く担ぎ上げると馬上の鞍に押し上げてしまった。
突然の強硬に抵抗する間も無く、後部にひらりと騎乗した慶次の両腕が
千代を半ば包むように伸ばされる。手に取った手綱をすぐさま振るえば、二者を乗せた馬は勢い良く駆け出した。
若干冷ややかな風が首をすり抜ける。そのまま深く被っていた頭巾の内に入り込んで、押さえようと手を伸ばしたけれども、少しばかり遅く。
脱げた頭巾を追うように振り返った
千代の露になった顔を目にした慶次は思わず眼を見開いた。
「!怪我してるのか」
「治りかけだ。問題は、無い」
少女の左頬から額にかけて、瞼上を走る傷に驚いたのも束の間。答えるなり頭巾を被り直した少女が面を再び前方へ向かせると、それきり口を閉ざしてしまった。
だが、そこで会話を終わらせる気の無い慶次はすぐに抱いた疑問を投げかけてみる。
「豊臣の忍……じゃあないよな」
「所属は奥州伊達軍だ」
「伊達軍?…どうして秀吉からこれを」
受け取ったんだ、と。
実のところ、一番の疑問であったそれを言い終える手前、ふいに眼前の頭巾が疾駆の振動とは別の動きを見せる。振り返った者の、傷の無い右目が意味有り気に慶次を見詰めていたが、程無くして視線を切った。まるで、彼から興味が失せたように。
「…奴に喧嘩を吹っ掛けた。ただそれだけの話だ」
御守りを届ける経緯と喧嘩を吹っかけた事と。繋がりの無い、答えにならない返答を受けた慶次は思わず首を捻る。その二つの情報から内容を察するには難しかった。
そこでさらに詳細を訊ねようとした慶次の口が開きかけ、流れ行く景色から眼を逸らしたところでふいに噤んだ。鞍を掴む少女の背が目に見えて丸くなったのだ。
心なしか震えている気さえして、不安を覚えた慶次が横から覗き込むように身を傾けた。落馬の無いよう、少女の身を片手でしっかりと支えながら。
「大丈夫か?……もしかして、まだ何処か怪我してるんじゃあ、」
「いや―――大丈夫だ」
体中に亀裂が走るような激痛を抱えながら、声は健常を装い続ける―――そんな事が長く続く筈も無かった。
時間が経つにつれて激痛は増し、背を丸め叫声を上げたくなる衝動を抑える。そんな状態でも青年に無事と言い張ったのは、自ら魔術の代償を負ったためだ。己の選択の結果に泣き言など不要なのだ、と。
深く息を吐き出して、激痛の波を乗り越える。それでも外部から絶え間なく流れ込む高濃度の魔力に、刻一刻と限界に近付いている体は悲鳴を上げ続けていた。
(……小田原へ着いて動けないのでは、意味が無い)
故に、仕方がない。
今回ばかりは妥協した
千代の身が後部の青年に凭れる。なるべく負担を掛けないようゆっくりと、遠慮がちに軽く預けて。
「……すまないが、少し休む」
「ああ。小田原に近付いたら起こすよ」
頼む、と小さく告げた
千代の体から、次第に力が抜けていく。…実のところ、これまで痛みに耐えてきた体は既に疲労困憊で、加えて意識は此処へ来て霞み始めていた。正常な判断を下す事すら儘ならない現状で戦場――後になるであろう――へ赴く事は流石に拙いと、ここで休息に踏み切った……が。
集中が急速に凋落する。視界が、荒む。
遠退く意識を維持できず、背後の青年に声を掛けられた記憶を最後に、彼女は意識を手放すのだった。
“籠の中の鳥はいつか飛び立つ夢を見る”
「おい、起きてくれ!」
「!!」
深淵からの覚醒は唐突に。
突然強い力で身体を揺さ振られた
ネアは、はっと目を覚ます。ぱっと瞼を起こせば、地に照り返す陽光が視界を白く焼いた。その眩しさに細めた目が蠢く風景を捉えるまでに、そう時間は掛からなかった。
遠方に聳える城を目指して、黒と紅の武具を纏う者達がぞろぞろと羅列する。列に沿って駆ける馬を目にした群衆は時折声を上げていたが、殆どが風を裂く音に消されていく。
小田原城に到着した事を知ると同時、
ネアの表情が刹那に曇った。豊臣軍が先に到着した、即ち三つ目の条件は無かった事になる。
この男に構いさえしなければ。そんな後悔が胸を過ぎったが、役に立たない負情を早々に切り捨てるとすぐに前方―――列の先を凝視した。
「馬は乗れるのかい?」
「ああ」
「じゃあ、わるいけど頼むよ」
眼前の手綱を急に預けられた
ネアは思わず手前へ引きそうになった。上がりかけた手をすぐに押さえた慶次であったが、振り仰いだ少女の怪訝に満ちた眼差しと搗ち合えば、一際大きな鼓動が胸を打つ。
己がこれから為す事を、今しっかりと確かめて。
「俺はあいつを止めてくる。今度こそ……これが最後の機会なんだ」
「お前……」
「あいつが…秀吉が、これを捨てずに俺に渡してくれって頼んだのなら、止められる可能性はあるのかもしれない」
先刻戻ってきたばかりの、首から提げた御守りを大切に握り締めて、慶次は真剣な面持ちで胸中の思いを吐露する。
過去を顧みないと、彼は確かに言った。
だが、これは彼と己と、かの故人を繋ぐ過去の産物だ。それを破棄せず、託したというのならば、彼は全ての過去を置き去りにしたわけではないのかもしれない。
正面から向き合うのはおそらくこれが最後になる。そう、揺るがぬ確信を抱きながら、彼は前方を真っ直ぐに見詰めた。
…対峙の場は、列が切れたその先に。
「何故、奴を止めたい」
「友達だから。……賛同するだけじゃない。誤った選択を止めようと必死に動けるのも、友達だからこそできる事なんだ」
「命を懸けてでもか……?」
青年の過去を知らない
ネアには真意が分からず、首を捻る。その様子から少女の疑問を汲んだ慶次は補足を加えようと開口したが、ふいに思い出した過去の記憶が面に陰を落とす。
…胸の奥がずきりと痛んだのは、後悔しているからだろうか。
「俺はあいつを一度見捨てたんだ。過去を思い出したくなくて、どんどん離れていくあいつを見たくなかった。それがこの結果だ。……本当なら、俺が止めなきゃならなかったのに」
あの時、背を向けてしまった事をずっと悔いていた。必死になっていればこんな現状を迎える事は無かった筈だ。それを今頃痛感するばかりで。
「……一度心に決めたものを解くのは難儀だぞ」
「もちろん分かってる。だから、俺も覚悟を決めるよ」
複雑な面持ちの
ネアが低声で呟くと、慶次は表情を引き締め即答する。
背反から対面へ――関係を修復する難しさはよく知っているつもりだった。だからこそ、緊褌一番で取り掛からねばならないのだと。
背に負っていた超刀を掴んだ手が微かに震える。それを疾駆の振動の所為にして、じきに切れるであろう列の先頭を見据えていた。
彼の腹を据えたらしき様子をちらりと一瞥した
ネアの口からは溜め息が零れ落ちた。彼女もまた前方へ向き直ると、手綱を強かに振るう。
(……巻き込んだと思ったのだが、実際巻き込まれたのはわたしの方か)
流れ行く群衆の喧騒立てる姿を横目にしながら、
ネアは立場の逆転を確かに感じていた。……小田原へ行くつもりの無かった者が今此処に居て、本来の対峙者はおそらく後退する。それは不思議な所縁でもある。
兎に角、豊臣軍大将との駆け引きは失敗に終わった。ならば、他に出来る事は無い。
「……見守っても良いだろうか」
「ああ。―――どちらにしても、見物人はいるみたいだ」
「ん?」
頷いた慶次の物言いが最中に変化を見せる。眼差しを向けた先は遥か前方。途絶えた群衆の向こうには巌のような巨漢がたった一人、自軍を背に仁王立ちで佇んでいる。向かいには蒼穹の一軍が迎え撃つように横並び集う。その手前に在る弦月は陽光を弾き、紫電――或いは鳴神――を帯びた竜の爪が突き出されていた。
急に垂れ込め始めたのは暗雲か、或いは。
「独眼竜――」
「どうする前田。お前も見守るか」
刃の届かない、この場所で。
躊躇を置きかけた慶次の心中が、最後に付け足された
ネアの言葉によって大きく揺らいだ。だが迷う暇は無い。既に豊臣軍大将の背が捉えられるまでに迫っている。
―――腹を据えるしかない。
傾けた超刀を握り込むと、疾駆する馬の歩調に合わせて潔く抜刀する。抜き身を中段から後方へ払い、背後から聞こえた音の源を確認しようとする
ネアへ、慶次は即座に要望を差し挟んだ。
「真横を走り抜けられるか?」
「任せろ」
若干前屈みになった
ネアは馬首を僅かに傾けさせ、列を成す群衆から僅かに距離を置く。弧を大きく描くようにして駆け抜けると、ふいに間近で刃を引き抜く音がした。
「!」
「危ないから、そのままでいてくれよ」
上体を倒した
ネアの頭上を、分厚い太刀がぶんと音を立てて通り過ぎる。超刀を片手に鞍上へ足を掛け、馬上から身を乗り出した慶次の視界には、嘗ての友の背がもうすぐそこに。
―――刹那。
「秀吉ッ!!」
「―――!」
鞍を蹴り上げた慶次が叫ぶのと、男が振り返ったのはほぼ同時のことだった。
(定めの軸は綻び、物語の軌道は今逸れる)