「鬼娘」
「!」
「らしき奴と会った」
朝議にて、開口一番に主より告げられたのは衝撃の事実。
三傑ははっと顔を上げ、その後方にずらりと座る群集の中から声が一つ、恐る恐ると挙げられる。
「筆頭、まさかあの山へ行ったんじゃあ……」
「いや、一つ隣だな。随分と低い、」
「政宗様!」
これに声を荒げたのは彼の腹心である竜の右目、片倉小十郎だった。眉間に寄せた皺は一層深くなり、接触への危険性を脳裏に過ぎらせながらも昨晩聞く事の叶わなかった問いを投げかけた。
「その鬼娘に、馬をやられたと?」
「それも大太刀じゃねぇぜ。脇差一本で、だ」
そう証言する政宗は嬉々として部下へ説明を告げ、掻いた胡座を解き片膝を立てる。目前に広げられた地図を一瞥の後、確信を以って告げられた予想は広間に集う者達を閉口させて。
「奴は今日か明日、あの山中に現れる。Targetを探しにな」
そうして、青年の口角は引き上げられた。
鳥-下
―――思えば。
“
平八重 涼”という存在は異質である。
己の身に起きた次元への転移にも然程動じず、現代にて禁じられていた得物を携え、振るい、賊を手に掛ける。この乱世で人の死は絶え間なくとも、それに拍車を掛ける行為を平然とやってのけた。
あたかも、生存の為に行う術の如く。
『困ったな……おまえには、人として必要不可欠な箍が、少しばかり足りない』
『箍?』
『
涼。おまえはわたしが死んだと聞いたら何を思う』
『……分からない』
少女の瞼の裏に駆け行くは、走馬灯。
それはぐるぐると巡りに巡って、嘗ての大切な会話へと行き着いた。
『おそらく、おまえの中では善悪の判断が薄いのだろう。自分が生きる為なら、人を傷付けても当然だと』
『違う?』
引き取られたばかりの頃……十二歳の
涼は不思議そうに頭を傾け、初めて己の思考に疑問を抱くようになった。欠落しているものがあるのだと、自覚すら叶わずに。
『人間の中にはね、人の生死を何とも思わない者が居るのだそうだ。一割にも満たないが……そういった輩は最初から箍が無いんだ』
『……私も、そうなのか?』
酷く不安になった少女を見下ろした師匠はゆっくりと膝を屈して、小さな身体をそっと抱き締める。それはまるで、これまでに一欠片も与えられる事の無かった愛情を教えるかのように。
『よく覚えていてくれ、
涼―――わたしが教えるのはあくまで守る為だ。何かを壊す事ではないんだよ。だから、』
―――人を■さないと、約束してくれ。
凛とした、けれども微かに震えた声が少女の耳にこびり付いて、離れなかった。
「……」
押し上げた瞼の先。朧気な視界が広がる天井を捉えて、
涼の眉間に自然と皺が寄せられる。掛け布団と敷布団に挟まれた者はゆっくりと半身を起こし、久方ぶりに見た夢に呻く。
「師匠……夢に出てくるのが遅い……」
自身の中の“箍”がさらに緩みかけている事を今、自覚して。
「や、お起きになったんですかい旦那」
「……ああ」
布団を畳み、部屋を出た
涼は荷を片手に階段を下り始める。そこで待ち受けていた宿屋の主に声を掛けられ、適当な返答を口にしつつ部屋を引き払うと、眠気が覚めないまま足早に安宿を後にした。
昨晩、陽が暮れかけた頃に町へ辿り着いた
涼はまず一番に宿を探し、安宿の二階にある一室を借り一睡した。この時世に物を盗られては堪らないと警戒はしたものの、それは結局
涼の杞憂に終わる……筈だった。
彼女が朝餉も取らず宿を後にしたのは、食堂にガラの悪い者達が数人屯し睨め付けられていたからである。重く張り詰めた妙な空気の中で食事を取る者もちらほらと居たものの、流石に面倒事が起こっては堪らないと急ぎ引き払ったのだが。
(―――尾行か)
余程眼が良いのか、
涼がいくら雑踏の中に紛れ込んだところで遥か後方に窺える蒼の武装が失せる事はない。どうしたものかと思いあぐねていた矢先―――突如真横よりぬっと現れた手が、
涼の右腕を掴むや否や物凄い力で小道へと引き込んだ。
まずい、と危機感を抱いた時には既に両腕を掴まれた。そのまま壁へ押し付けられそうになった直前に身体を大きく薙がせた
涼は、その反動でよろめく男の膝裏を強く刈る。かくん、と男の膝は容易く崩れ、それでも腕を掴んだままの男に舌打をしてから片手で胸倉を掴み地へと突き倒した。右手には既に脇差が握られ、刀身を喉元へ添える。
「二の腕を掴んだのが不運だったな」
「女の割には手早い対応だ」
薄暗い小道で、添えた脇差の刀身が鈍い光を放つ。髪を後方に撫で付けた男の顔は命の危機に晒されたところで平然としたまま、その表情を見下ろす
涼は双眸を細め……不意に歩み寄り来る足音を聞き弾かれたように面を上げた。
「小十郎は俺の腹心だ。敵じゃねぇ」
昨日遭遇したばかりの男が、陽射しある地から翳りある小道へと足を踏み入れる。その姿から何かを察した風を見せる
涼は顔を顰めつつも、ゆっくりと脇差を男の喉元から退かせる。
得物を喉へ突き立てなかった事は幸いであると、切に思いながら。
「尾行もこいつも、藤次郎の仕業か」
「yes」
薄暗い小道の最中、腕を組み壁へ凭れ掛かる政宗は軽く頷き他国での返答を口にする。民ならば首を傾げる筈のそれに眉根を寄せるのみで反応を終わらせた
涼は、あからさまに口角を引き下げると不機嫌を露呈させた。今後行く先々で寒冷を印象付かせる蒼を目にする事ともなれば
涼にとって面倒な事この上ない。不満を湛える少女に対し、主の隣へ並び立つ小十郎が口を開いた。
「今さっき着いたばかりだったが、早速動き出したか」
「?」
……一体何の事なのか。
主語の無い男の言葉に疑問を重ねた
涼は不満な顔を政宗から小十郎へと移し向け、訝しげに双眸を細めてみせる。
ゲームの最中常に政宗の背後へ引っ付いてきた者の存在を前にして、怯むどころか喧嘩を売りたくなった
涼は眼光強く、しかし突如聞こえてきた青年の問いかけに一瞬だけ不満を掻き消した。
「アンタ、これから何処へ行こうとしている」
「川を越えて一つ向こうの里に」
「……ah?」
彼が予想した地とは方向が真逆の行き先を告げる
涼に、政宗のみならず小十郎の貌までもが変化を窺わせる。不満やら猜疑やら、負ばかりの情が混濁し面持ちは一層険しくなるばかり。腹心の視線は自然と主へと転じ、主の顔は回避の為もあるのか少女へと向けられていた。
「……藤次郎様」
「
明、アンタ山に行くんじゃねぇのか」
「山?」
何故態々、山へ。
町の周辺で山を指すならば、昨日越えた標高の低い山のみ。
涼が足を向けようとしているのは最中に沢を挟んだ草原地帯、あくまで里への道程だった。積み重ねていく疑問の末、ふと見出した彼らの思惑に
涼は思わず失笑を落とした。
片手をひらりと振り薙ぐその態度に緊張はない。
「ああ、分かった分かった。私を鬼娘と勘違いして此処まで来たのか、藤次郎は」
「!」
「図星だな」
軽く目を見開く政宗の姿で正解か否かは問わずとも一目瞭然であった。そうして軽い一笑をさらに飛ばしたところで、突如わざと摩り替えたような話題を疑問として差し向けられる。提供者は青年ではなく腹心からのものであった。
「
明、と言ったか。その身のこなしは一体何処で覚えた」
「故郷で。ああ、別に忍じゃ無いからな」
……無論、乱破と間違われても困る。
突如向けられた色濃い疑いに、
涼の顔は険相を増していく。政宗よりも明らかに疑るその姿を半ば睨め付けるようにして見返し、警戒心を露にする少女を見下ろした小十郎はふと先程掴んだ腕の感覚を思い出す。
女中よりはいくらか筋肉のある二腕だったが、脇差であれだけの体躯を刻むにはそれなりの力を要する。しかし……果たして、あれだけの腕で人を分断する力など持ち合わせているのだろうか。
戦場を幾度も潜り抜けてきた男が抱く疑問は深く、猜疑の眼差しを向けながらも慎重に口を開いた。
「単刀直入に聞くが、野伏を全滅して歩き回ってる“鬼娘”はてめぇか」
「小十郎、」
男の口調は最早喧嘩腰であった。それを咎めるように名を呼んだ政宗の耳に、幾許の間も無くぽつりと落とされた少女の呟きが届けられる。
「……なにが鬼娘だ」
それは、心底からの本音だった。
明らかに怒りを含ませた言葉に加え、拳にぐっと力が込められる。化物ではないと、そう否定をしかけた言葉が不意に喉元で留められ、そして飲み込まれた。化物と呼ばれるに値する行いを繰り返してきたのだから当然なのかもしれない、と。
―――人を■さないと、約束してくれ。
嘗ての記憶を再度振り返る。約束を破った以上は化物という存在に成り下がったという感覚を抱き、反面それに抗おうとする内心の叫びがあった。
涼の葛藤は暫し続き、渋面を作りながらもそそくさと身を翻す。当然ながら掛けられた制止は二声有り、苦虫を噛み潰したような顔のまま振り返る者は再度名を呼ばれてゆっくりと面を上げる。
「
明、」
「それは本当の名じゃない。藤次郎だって、それは同じだろう」
「―――気付いてやがったか」
「有名な腹心の名がそのままじゃあ、分かるに決まってる」
若干呆れたように肩を竦めてみせた
涼は深い溜息を一つ。次いで身体を大通りの方角へと向けながら、怪訝を含む横目は後方の二者へと向けられていた。
「手を掛けたのは本当だ。教えたから、もう着いて来るな」
「そういう訳にはいかねぇ」
途端、
涼の耳元を金属音が掠める。かちゃり、と音を立てて首元へ突き付けられた鈍色の存在を横目で捉えるも彼女の顔色は変わらず。脅迫の意も含め護身用に携えていた短刀を“鬼娘”の細い首へ添えた政宗は眼光強く、その姿を睨め据えた。
「野伏狩りで喜ぶ民も居たがな―――生憎と、野放しに出来る程寛大じゃねぇんだ」
「じゃあどうする。この首を刎ねるのか、奥州国主の独眼龍」
「―――いや、」
やや間があって、斬首の案を否定した政宗の視線は傍らの腹心へ。交わす言葉は無くとも主がこれより行うであろう行動を察した小十郎は瞼を落とし、無言のそれを主は諒承と汲んだ。そこで対面を続ける
涼へと再び向き直りじっと見詰めると、快濶な声音で彼女への待遇提示を淡々と述べた。
「アンタがこれまで行ってきた事を一通りCheckする。城へ同行してもらおうか」
この状況から必ずや首肯を見せるものだと考える政宗は、右手に携え突きつけていた合口拵の短刀を手前へ戻し鞘へと収め終えた。鍔が無くともかち合う合口の金属部分からは微かな無機質の音が響き……そうして、大通りを背にした
涼の面持ちからは情が退き始めていくと同時、堂々と返答を宣言をする。
「断る」
……政宗は無論その言葉に唖然として、程無くしてから緒の切れる音を傍らより聞いた気がした。