(にしても……現代より歪みが少ないのは、やはり生活の問題か)
町中を行き交う者達が纏う薄明な色彩。
右目の優しい世界に覚えるのは少しばかりの羨望。
鳥-中
涼が城下町を離れて三日が経過した。
何処までも広がる草原を歩き続け、川を一つ越えた先に存在する町を発見した
涼はふらりと立ち寄り、空き過ぎた腹を満たすべく飯屋へ足を踏み入れた。賊から拝借した金銭により懐は十分潤っているので、今のところ心配はない。
混み合う中で偶然老人との相席をした
涼は、ふと箸を持つ手を止める。右の世界が老人の腰に色濃い塊を映し出し、腰痛持ちか否かを問えば当然の如く首肯が返された。
これも何かの縁だろう―――そう思い食事の後に老人が住む家を訪れ、歪みの補正を行使した。
「これで終わりだ」
「おぉ……腰の痛みが嘘のようじゃ」
顔を綻ばせる老人はそれまで腰を押さえながらの起立を余儀なくされていたが……それがまるで嘘のように、無痛のまま立ち上がる事ができた。長年患ってきた者にとってこれほど嬉しい事はない。
生き生きとし始めた表情に
涼の顔が僅かながら綻びを見せかけ、ふと視界の端へ映り込んだ古い木棚の元へと目を向けた。……正確には、棚上に置かれた刀へ。
「……あれは?」
「おお、その脇差は随分と昔に錆びてしまってのう……もう使いものにならんようになってしまって」
「……」
錆、と聞いた
涼の目色が途端に豹変する。老人の眼差しは懐かしむように遠く、細められる。その姿と脇差を交互に見やりつつ、迷いを一拍入れた後に
涼が口を開いた。……今回ばかりは無報酬を予測していたのだが。
「その錆びた脇差を譲ってくれないか」
「ああ、そりゃあ良いとも。腰痛を取ってくれた礼にもならんが、持って行くといい」
「ありがとう」
椅子から立ち上がった
涼は数歩で古棚の元へ辿り着き、今だ艶やかな光沢を纏う黒鞘を掴む。その場に膝を着き、畳上へ刀を軽く突き立ててからそっと瞼を落とす。彼女に言葉はなく、鞘が―――否、中に収められた錆付く刀身がかたりかたりと音を立て始めた。
「―――」
「ん?」
一体何をしているのか。静止したままの者の背を振り返り凝視する老人はしかし、次の瞬間に彼女が行った動作と金属音に愕然とする。
錆びつき抜刀すら叶わなかった脇差の鍔と黒鞘が、間隔を生み出す。ゆっくりと引き抜かれていく刀に言葉もなく立ち尽くし、それは嘗ての姿を再現した。
「!」
「かなり綺麗だ……ああ、刀身に桜が」
完全に抜かれた刀身の何処に、錆が見当たろうものか。
驚愕を湛えたまま上げかけた腕をわなわなと震わせた老人は目を見開き、思わず声を荒げた。
「い、一体どうなっとるんじゃ……!」
「じゃあ、頂きます」
まるで食事前の挨拶のような軽さで頂戴する事を告げた
涼は刀を帯へと差し込み、帯刀する。譲渡の発言撤回を告げられる前に撤退を決めるとそそくさ身を反転させる。老人は何事かを言いかけようとしていたが言葉にはならず、
涼の姿が戸の向こうへと消えゆくまで見届ける事となった。
「砥石要らずなのは、有り難いな」
己の異能と魔術の掛け合わせによる“復元”。錆を除き、異物を払い、微細な屈曲を補整し、本来有るべき姿への再現を辿る。故に刀身が折れてさえいなければ新品同様の質を取り戻す事が出来るという、何とも優れた術であった。
そうして老人の家を後にした
涼は再び放浪を開始する。
数日経過したにも関わらず、唐突なる転移の先の詳細も未だ知らぬまま。
今現在
涼自身が身を置き続けている世の詳細を知ったのは、それからさらに二日後の事だった。
町を出て、丘一つ向こうに存在する村落へふらりと立ち寄り、そこで村人へ何気なく現在地に関する問いを投げかけた事によって判明した。伊達氏の統治する奥州――現況を判明させるには、ただそれだけで十分である。
今は乱世、真っ只中。
東北に位置するは奥州、独眼龍の称で有名な伊達その人が治める地であると。
道理で凶器が刀ばかりだと、何気ない疑問を解消させた
涼は村落を発つと付近に広がる森の中を突き進む。正確には標高の低い小山であるのだが、山中へ踏み入ると森を歩く感覚と然程変わらなくなる。その錯覚はなだらかな地の所為でもあるのだろう。
僅かな食糧と水の入った竹筒、それから元々着用していた現代の服を風呂敷に包み背負いつつ、帰還の術を思案し続ける。巡る思考は魔術知識を一から掘り起こさせ、組み上げかけた筈の理論を崩した。……矛盾が、多すぎる。
それでも諦めず、さらに方式を組み直し始めた
涼はしかし―――順調に進めていた足を唐突に止めた。
(―――そういえば、)
思考もまたぴたりと停止し、俯きかけていた面をふと上げる。彼女自身が大元へ疑問を抱いていた事にようやく気が付き、そして身の内に問う。
(私は、何の為に帰ろうとしている)
別段師匠や弟弟子との再会を強く望む訳でもなし、現代での執着も特に無し、はっきりと言えば現代への帰還を強く望む理由を彼女は持ち合わせてなどいなかった。
魔術師見習いを卒業してから師匠は放任と化し、“決意を持ったのなら、何処にでも行くが良い”といつぞや告げられた言葉を思い出した
涼は迷うように暫しの間佇み続ける。……最悪の場合、戻れなくとも誰も文句や心配を言わないのなら、いっそ。
無意識に足が動き出す。彼女が熟考する際に動き回る癖があり、木々の間を縫って進んだ
涼はやがて広がる木漏れ陽に気付いた。そこでふと頭上を仰臥しつつゆっくりと歩いていた
涼の耳に、それは突如として嘶きと共に飛び込んでくる。
「危ねぇ!」
「!」
彼女が出た場所は山を横切る為に拓かれた道だった。長々と続く地を辿り来たのは馬に騎乗した男が一名。ぼんやりとしたまま道を横切る者の姿に驚き、咄嗟に手綱を引いた時には既に数歩分の距離ほどしか無かった。
轢いてしまうのではないか―――そう悪い予感が脳裏を掠めて一瞬ひやりとした男であったが、彼の視界が何の前触れも無く大きくぶれたのは、彼女の安否を先案じする手前のこと。馬の悲鳴を耳にした途端手綱をしっかりと掴んでいた筈の手を滑らせ、そして空が一つ視界を薙いだ。
投げ出されたのだと彼自身が気付いたのは、地に叩き付けられ肩に鈍い痛みを覚えた直後のこと。
(咄嗟はまずかったか―――)
涼が抜き身の脇差を鞘へと収めたなら、耳に心地好い金属音が響く。……それは本当に、一瞬の出来事だった。
反射的に身を退きながらも抜刀し、右目が捉えるは馬に滲む色彩。淡い新緑の色へ躊躇する間も無く脇差の切っ先を奔らせ、焦茶色の体躯を大きく抉った。
血飛沫を上げて転倒する馬と共に投げ出された人物を目で追いつつ小走りで駆け寄っていく。
「わるい、飛び出して。怪我は無いか」
「Ah……?」
打ち付けたらしき右肩を押さえ身を起こした男の顔が、ふと歩み寄る者へ向けられる。眼光強い鋭利な隻眼が目前の人物を射抜き、目を合わせた途端、
涼は愕然として身を硬直させた。
(……なんだ、ここは)
鍔を眼帯に用いた隻眼の青年。疎らに切られた鉄黒の髪。顔立ちは良く、初対面である筈の青年の顔を、
涼は既に知っている。
「突然飛び出してきやがって……蹄の音ぐらい聞こえただろうが」
「―――悪かった」
怪訝気に文句を告げながらも横転した馬を見やる男に対し、口ばかりの謝罪を述べた
涼の双眸は未だ青年の顔を注視している。口の悪さと声音を耳にして、それが当人である事を確信した者は視線を大きく揺るがせた。冷静を装う事が今の彼女には精一杯であり、色濃い疑問が脳内を占める。
(異世界にも程があるんだが、師匠)
……何故、この男が此処に居るのか。
大学の知人に勧められ半ば強制的に操作させられた事のある、今話題のゲーム。主人公格として存在するは齢十九の隻眼武将。六爪を容易く手繰る、常識では有り得ないその男が、何故。
まじまじと凝視してくる者の姿に首を捻った男は、ふと格好と顔の相違に気が付く。謝罪を口にした者の声音は、明らかに身形と異なっていた。
「アンタ―――女か?」
「女で悪いか」
愕然としながらも男――政宗の疑問に即答した
涼は瞬く間に驚愕を鎮め、むっとした表情を浮かべる。文句の次はそれなのか、と―――抱く不満を抑えつつ中腰になると手を差し出した。……此処に長く居留まる訳にはいかない。陽は着々と進み、峠へ差し掛かり始めているのだから。
「この周辺は物騒だからな、町に戻った方が良いぜ」
「……物騒?賊でも出るのか」
「ああ」
町の方角を指し示した政宗の言葉に
涼は首を傾げながらも彼の指先を辿る。村落と真逆の方向を指す先には、これから向かう予定の町がある。男が戻ると確かに言った事から町人と勘違いをしている可能性に若干驚きつつ、賊が出るという物騒な山中をぐるりと見渡し、
涼は一つ溜息を吐いた。
「……そうか。それは、」
怖いな、と。
あたかも怖じて呟いたような者はしかし、僅かに歪められた口元が恐怖の無さを物語る。得た情報により今後の行動を決定させた
涼は町へと向かう道へと数歩を踏み出し、刹那男の声が背後より掛かった。
「送ってやる。……つっても、アンタの所為で足が無くなったが」
「別に一人で良い。そっちこそ、足が無くなったなら尚更早く家に向かった方が良いだろう」
涼が振り返った先には転倒したままぴくりとも動かない“足”の姿がある。……咄嗟の行動とはいえあれは確実に誤判だった。
僅かな後悔を抱き眉根を寄せつつ、
涼は断りを入れた後に帰還の催促を素っ気無く告げた。変なものに絡まれたという感覚にあからさまに嫌悪を表すも、政宗はただ鼻で軽く笑うのみ。
「奇遇だな。俺も同じ道だ」
「……」
―――どうやらこの男、どうあっても同行するつもりらしい。
今度は何も言わずに歩き出した
涼の隣へ政宗が並行する。山を越えるまで同行する雰囲気を感じ取りながらも、閉口を続け沈黙を通し始めた。
黙々と歩く青年のような少女と、笑みを浮かべ隣を歩く男。その空気のなんと奇妙なことか。
峠を越えると、道は緩やかな下り坂へと変わる。それでも
涼は休息など不必要だと言わんばかりに歩みを止めようせず、足早に前進を続けた。同様に無言のまま後を追う政宗は
涼の腰帯に提げられた脇差をちらりと一瞥しつつ、ゆっくりと口を開く。
「鬼娘、ってのは知ってるか」
「?いいや」
聞き慣れない言葉にいいやと頭を振り否と表す
涼に対し、政宗は話を続けた。
「山中に分け入った男を喰っちまう女の化物らしい。黒い牙に咬まれたが最後、奴から逃げられた輩は居ねぇとさ」
「……化物、か」
実際の鬼娘とは残忍な心を持つ娘を指すのだが、近頃周囲で起こる野伏連続襲撃の件にて挙げられた目撃情報がいつの間にか城下町に流れ、瞬く間に広がった噂はいつしか化物説を生み出していた。
……実のところ、好奇心旺盛な男は賊ばかりを標的にする鬼娘とやらの正体を確認する為にやって来たのだが。
「なら、山中に居るそっちは鬼娘退治にでも?」
「返り討ちにしてやる自信は十分にあるからな」
「……へぇ」
自信を湛え答える政宗の言葉に相槌を打ちながらも、
涼は既に確信を得ていた。
―――“鬼娘”と呼ばれる化物が、自分自身である事に。
随分と傾いた陽を一瞥してから、ようやく下りきった山を振り返る
涼は樹木に覆われた自然の姿をぼんやりと眺める。道は既に分岐へと差し掛かり、政宗とは別れの時が刻々と迫りつつあった。……無論、
涼の胸中に惜別の念など微塵も有りはしなかったが。
彼女が視線を戻した先には、自身より頭一つ分ほど高い隻眼の男。半身を振り返らせたままほんの僅かに小首を傾げるその様子は普段の大人びた仕草ではなく年相応のよう。
「アンタ、名は?」
「自分から名乗るのが礼儀ってものだ。そっちが答えないなら、私も答える必要は無い」
「可愛気のねぇ女だな」
「可愛気なんか無くても生きていけるだろう」
一々突っかかるような物言いに
涼は眉を顰めるも、一期一会を信じ怪訝な表情を何とか抑えた。何処にでも居るような民が一国の主と会う機会など滅多に無いのだから、と―――。
そう考え自身に言い聞かせる者はしかし、唐突に聞こえてきたその名に下げかけていた面をゆっくりと上げた。
「藤次郎だ」
「―――
明」
政宗が堂々と告げた、分かりきった偽名を耳にする
涼もまたやや間を置いてから偽りの名を口にする。正体が勘付かれていないと、さも当然のように思い込む政宗は彼女の名を確かに覚え、胸の内で一つ復唱した。
そうして、凛とした顔の少女を再度見詰める。
「じゃあな、
明。賊に襲われる前に、早く帰れよ」
「ああ、そっちもな」
ひらりと一つ手を振って、背を向けた政宗が自身の進むべき帰路を歩き出す。振り返る事の無いその後姿を見送ること暫し―――深い溜息を吐き出した
涼は頭上を仰臥し、歪みの色彩無き空を視界一杯に映した。
「……厄介な世界に飛ばされたものだ」
呟きは彼女以外の耳に入る事などなく。
さよならと別れの言葉を場に残し、
涼もまた行くべき道へと足を踏み入れた。
(其は、一期一会に非ず)