「師匠?
冴?」
大学を終えて工房へ帰宅した
涼は、無反応且つ静穏の広がる空間を一望する。ベルが鳴ったにも関わらず人が接近する気配は無く、珍しさを覚えながらも机上に放り投げられた一冊の本へふと視線を留めた。指先から第二関節辺りまでの厚みがある、見慣れない黒い表紙の本だった。かなりの年月を重ね古びているそれは微かに黴臭さを残している。
中身を確認しようと表紙に触れた
涼の指先に途端走るは激痛。悲鳴を上げたのはただの一瞬。
向かう先は誰もが同じでありながら些か異なる、他者の介入を許さない屈折現象に、彼女もまた巻き込まれていった。
鳥-上
暗澹とした深淵の底を背に、彼女は蒼い空をぼんやりと見上げていた。
指の間を擦り抜けていく、冷気を帯びた柔らかな感触。身体をも押し上げる水の心地好さに身を任せ、漂うままに彷徨い続ける。吐き出された息がごぽりと音を立て、球体を歪ませながら視界から遠ざかっていった。
―――苦しくはない。ただ、死後の世を思わせる程の神秘的な世界を目前に突き付けられて、息をする事さえも忘れる。……否、水中で息を吸えない事実すらも忘れていた。生存の為に日々秒単位で繰り返す無意識的な動作にも関わらず、だ。
こぽり、ごぽり。
口から零れた歪な球体が視界から遠ざかる度に、少女の胸が締め付けられていく。苦しい、という感覚はあったが、四肢の力は抜いたままだった。
瞬きを、ひとつ。
歩み寄りつつある“死”の存在を少女が認めたその刹那……蒼天に翳されるは、目映い陽光。蒼いばかりの世界に滲む淡い黄昏を仰臥して、少女の双眸が僅かに細められる。揺らぐ水面越しに射し込まれる確かな光は次第に柔らかくなり―――突如、無粋にも容赦無く差し込まれた景観を損ねるものに、保たれたまま逝く筈であった少女の静穏が瓦解する。景色は砕け、無音が濁りある騒音へと変貌を遂げた。
「んだよ、死んでねぇじゃねぇか」
―――何だ、これは。
微睡む意識が、霞む視界が、膨張していた聴覚が。覚醒し鮮明と化す全てのものが少女を襲撃し、酷く顔を歪めた。状況の把握に時間を要する間も耳に宜しくない言葉ばかりが周囲で立て並べられていく。
「どっちにしても殺るんだろ?」
「違えねェ!」
下卑た笑い声が少女の耳を衝く。腕を捕まれる力は決して弱くなど無かったが、怪訝から顔を顰めていた
涼は気怠そうにそっと瞼を落とした。
―――ああ、歪んでる。
右眼で確かに捉えた原色の歪みに、彼女の口元が吊り上がる。実に色濃い歪みであったが、生憎とそれを補正する為の術を行使する気など更々無く。
懐へ差し込んでいた小刀を鞘から引き抜くまでに一秒とも掛からず、男の身体に滲む色彩を躊躇無く断ち切った。
「ぎっ――ぁぁああぁあああ!?」
「煩い」
濁音混じりの絶叫に一喝、それから翻る者の姿に呆然とする周囲の男達へ、小太刀を大きく振り薙いだ。連なる原色が瞬く間に灰褐色へと変貌し、そして体躯ごと分断されていく。
ぼたぼたと水面に落ちる大量の赤黒いそれは得た色を瞬く間に浸透させ、そして赤黒い水の中に佇む異常者を浮き立たせた。
跳ねた鮮血を袖で拭いながら、
涼が敢えて残した唯一の人物へと目を向ける。まさに一瞬の惨劇を目の当たりにした男はゆっくりと転じられた少女の双眸にびくりと肩を跳ね上げた。形勢逆転の間は呼吸に要するただの一間だった。
嘗て味わったことの無い恐怖に囚われ、そしてそれは幾らの間もなく襲来する。
「おい」
「ひ、」
ぶれ無く真っ直ぐに突き出される小刀の刀身は漆黒。夕刻の陽光を弾いて鈍い煌めきを放つ切っ先が僅かに傾き、男の喉元を今にも切り裂かんとしている。……彼女の眼差しに、殺気は無い。
「此処は何処だ。お前達は何処から来た」
「お、れらは……」
恐怖に喉を引き攣らせた男は上擦った声を発し、視線を忙しなく泳がせる。金銭を欲し人を狩るにも常に集団で動いてきた者にとって、突き出された“死”への恐怖は益々膨れ上がるばかり。
そこで痺れを切らせた
涼が動いた。一歩を進ませ、跳ねる水音を耳にした途端―――恐怖を暴発させた男の顔が歪み、その身を必死で退かせ始めた。
「いひぁああぁぁぁあっ!!」
「……」
足を縺れさせながら陸へと這い上がり、恐怖のあまり喉から競り上がるままの絶叫を発し木々の間を時折ぶつかりながら抜けていく。死を怖れた者の背を見送った
涼が足を一歩踏み出せば、ざぶ、と立つ小浪に跳ねる赤い水飛沫。懐刀を無音のまま伝う露を一つ薙いで払い、慣れた動作で鞘へと収めた。膝上まで水に浸る脚を厭う様子もなくその場で一息を吐いた少女の双眸が、ひとつ瞬いて。
「……何処だ、此処は」
現在地を問う呟きは水音と重なり、呆気なく掻き消されていった。
◇ ◆ ◇
「政宗様、先日の野伏の件に御座いますが」
昼間にも関わらず薄暗さの残る八畳一間の部屋内、主の元を訪れ対面した男の開口一番がそれであった。
政宗と呼ばれた隻眼の青年は書きかけの文面へ視線を落とし、右手に持つ筆をゆっくりと置く。入室して間も無く切り出された話題に片眉を跳ね上げながら、執務の手を完全に止めると面を上げた。細められた鋭利な隻眼が僅かに翳る腹心の姿を見据える。
「何か進展でもあったか」
「昨晩に門番へ助けを求めた男はどうやら野伏の一人らしく、仲間は既に居ないとの証言が」
「……Wait、どういう事だ」
上げられた妙な報告に読み難い詳細を問えば、腹心の日々常に眉間へ刻まれた皺が若干深くなる。僅かに面を俯かせるようにして、小十郎は主の問いに低声での報告を続けた。
「全員やられたと。それも、ただ一人に」
「!」
以前より報告にあった、村を襲撃する野伏の存在。近々手を打つ為に兵を向かわせようとしていた矢先の全滅に驚きを隠せずにいたが、政宗をさらに驚愕へ陥れたのは野伏を全滅へ追い込んだ者の数がたった一人だという事実だった。かの集団の剣術は決して素人のそれではなく、腕の立つ者ばかりだと聞き及んでいた。……それが一人にやられようなどと、誰が想像できただろう。
「野伏りを殺ったその一人は判明したのか」
「いえ。男の証言が本当に正しいのか解り兼ねますので」
「駆け込んできてまで嘘は言わねぇ筈だぜ。Jokeでも混ざってたのか?」
軽く鼻で笑った青年はしかし、表情を崩そうとはしない腹心の姿に途端引き上げかけた口元を下げる。最後の野伏より聞き出した筈の情報に首を傾げるほどの不審があったのか、と。至って真面目な姿勢を貫くであろう小十郎を改めて見やり、続けられる説明に耳を傾けた。
「証言によれば、野伏りを斬り捨てたのは齢が十八ほどの女子であると」
「ah?んな事があると思」
「ですから、正しき事ではないと」
主が発する疑問の言葉に重ねた断言をきっぱりと告げた小十郎はそっと溜息を吐き出した。……何度聞き直したところで顔を酷く歪め怯える風を窺わせる男はそれ以外の情報を洩らそうとはしなかった。まるで口に出す事を怖じていたような、異常な様子だった昨日の光景を振り返りながら、小十郎は主の命令をしかと受け取る。
「もう一度吐かせろ。続きはそれからだ」
「は」
男は短い返答を告げるなり軽く頭を下げ、その姿から目を逸らした政宗もまた軽い溜息を机上へ落とし、同時に書面を見詰める。紙の隅に撥ねた微かな黒の染みにぴくりと片眉を引き上げると、墨が乾いた事も確認せずに掌を乗せ―――ぐしゃりと、握り込む。
丸められたそれは適当に投げられ、部屋の隅へ軽い音を立て落ちていった。
(師匠の悪戯……じゃあ無いな)
穏やかな景色を眺め終え、確信に至った
涼は行儀悪くも箸を口に咥えながら眉根を寄せた。
今現在
涼が立ち寄った場所は城下町であった。町へ辿り着く前に二度ほど賊に遭遇し、その度に迎撃を行った上金銭を奪った挙句比較的綺麗であろう着物を拝借した。故に男物の着物を纏う
涼は青年と間違われ、それを訂正する気も無くずるずると蕎麦を啜る
涼は城の方角を見やりつつ、盆を片手にやってきた店の者へぼそりと言葉を呟いた。
「……賑やかだな」
「ええ、お陰さまで」
にこやかな少女の姿を横目で一瞥し、すぐに城を見上げながら残る麺汁を飲み干す。
過去の時に身を置いている事は城下の光景を見れば一目瞭然であり、それを驚く事も慌てる事もなく、冷静な思考で帰還への魔術方式を脳内で組み立てていた
涼は空になった器と箸を目前に立つ少女へと差し出した。
「ご馳走様」
少女の可愛らしい返答を聞くと共に手から離れた器へ視線を移し、それから立ち上がった。
……実のところ、次元を越え転移する魔術方式を彼女は知らない。自身が知り得る知識を搾り出し構成を試みているために時間が掛かることは想定の内に入れていた。そして今現在考えるべき問題は、それまでの間をどう食い繋いでいくかである。
金銭は消費するもの。ならば稼ぐしかない……いっそ賊狩りに着手するかと怪しい笑みを浮かべた
涼の耳に、直後聞こえてきたのは恰好の得物となる濁声であった。
「大人しくしろや!」
「……?」
肩でもぶつかったのか、もがく女性に掴み掛かる男が一名。時代劇によくあるような光景を遠巻きに眺め、あー、と声をだらだらと漏らしつつ無意識に眉根を寄せた
涼はすぐに空を仰臥して、一息。……得物は良いのだが衆目ある町中では若干躊躇があった。別段どこかの老人の如く人助けの為に向かう訳でもないため、さらに迷いがある。そこで今回は諦め立ち去ろうとした
涼の視界に刹那、とあるものが映り込んだ。男が片手に持つ鈍色のそれは―――刀。
そこで彼女が感じたものは絡まれた女性への同情でも突っかかる男への嫌悪でもなく……可哀想なほどに刃毀れした刀への哀れみだった。遠巻きに見る限り鞘も傷が多く、さらなる憐れみを刀に向けた。
そうして、今度は迷い無く身を翻す。
「おい―――行くとあんたまで巻き込まれるぞ」
町人の制止も聞かず足早に群集から抜けた
涼は縺れる二者の手前で足を止め、下駄を軽く鳴らした。丸腰の者に対し刃毀れした刀で脅迫をする男へ嫌悪を感じて開口し、突如響く至極冷やかな声を耳にした男女は自然と声の元を振り返る。
「人混みの中で迷惑だな、お前」
「あ?なんだテメ」
「こんな場所で騒ぎ立てるのは大人としてどうかしてる。周りが迷惑してる事も分からないのなら、今からしっかりと弁えろ」
「偉そうな口を聞くんじゃ」
「ない」
異様に早い言葉の切り返しを聞くと同時―――男の世が、ぐるりと半回転した。
丸腰の少年が近付いてきたかと思えば、鈍い痛みを伴いながら地へと伏す。一瞬の出来事に呆然とする男はしかし、ぐりゅ、と付け加えられた音を耳にした瞬間に喉を引き攣らせた。
声にならない声を発した主の腕が、あらぬ方向へ捻り曲がっていた。
差し出された少女の指はただの二本。痛みに悲鳴を上げ地へ転がる男を見下ろしながら、呆れたように溜息を吐き出した
涼は頓着無げに言葉を発する。
「ほら、お前の所為で皆驚いているじゃないか」
「い、いや……あんたの所為だと、」
慌てて逃げる女性と男を見下ろす青年を見比べた町の者は冷静な突っ込みを入れ、それを聞き入れながらも加害者から被害者へと一転した男をこれまで見据え続ける
涼は、さも愉快気に言葉を付け加えた。
「口周りの神経が麻痺してるから、無理に喋ろうとすれば舌を噛み切ってしまうぞ」
口を開閉させる男の姿から説明を追加した
涼は、首元を左手で軽く掻きながら浮かせていた右腕をゆっくりと下ろし、今度こそ身を翻して城下の外へと向かい始める。余計な労力を消費した事に反省を抱きつつも、城下町を離れる足は次第に早まっていった。
―――奥州国、米沢城下。
国主とその腹心が話し合う昼の間に起きたとある喧騒の始終である。