短編
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真夏の昼。
翳る窓辺に椅子を寄せて、蝉の重奏と窓辺に吊るした風鈴の音に耳を傾けていた。
りん、と小さな響きを以って揺れる風鈴の柄は金魚。札は風に煽られはためいて、真夏の中に冷涼を装う。ベッドに腰を下ろしていた巴は窓辺の椅子に座り遠景を眺める少年の背を見やる。伸ばされたその背筋が緩まる事はない。
実のところ、彼が眺めているのはイーゼルに立てられたスケッチブックと斜向かいに建つ自身の家であり、手元を小まめに動かすその姿は画家のよう。久方ぶりの休息は二人きり。会話は無かったが、静かな時が心地好い。
合唱する蝉の声は次第に治まりゆく。それを区切りとして立ち上がった巴は少年の傍らへ近付き、スケッチブックを覗き込んだ。綺麗な一本の線によって描かれた下書きはすっきりとした印象を覚えさせる。
「どうしました?」
「ううん。順調に描けてるかなと思って」
ちらりと視線を向けた要に、巴は微笑みを返す。次いで窓の向こうに広がる景色と描かれた線描きを見比べ、ふと左下の部分に存在する空間が気に掛かる。首を捻り空白に指を差せば、青年の綻ぶ顔が僅かに曇る。
「どうしても、蔵が上手く描けないので……」
「蔵?」
頷き、椅子から腰を浮かせた要が斜向かいに存在する自身の家、その中庭にある蔵を指し示す。古い家であれば何の変哲も無い蔵はしかし、事情を把握している巴にとっては納得せざるを得ない。軽く相槌を打つと、胸内の思案が思わず口から零れた。
「問題のあれかな……」
「え?」
「ううん、何でもない」
疑問の念を浮かべる要に対し、慌てて頭を振る巴。
……理由を述べる訳にはいかない。今、彼の喪失した時を己が呼び覚まして良いものかという躊躇いによって、彼女の言葉は制されていた。思いあぐねる間も無く困ったような顔をする要の傍らへ屈み込み、目線を合わせる。
「少し、休憩しようか」
「―――そうですね」
首肯を示し賛同の意を見せた少年は、手中に握られていた鉛筆をイーゼルの縁へそっと置く。その姿に微笑み身を翻した巴は、茶と菓子を用意する為に屋根裏部屋を退出すると足早に階段を駆け下りていった。
二人は質素な丸机を挟んで座り込む。中央には茶菓子の乗った丸盆が一つ、マグカップが二つ。壁に掛けられた時計は午後二時を指し、茶の時間までにはあと一時間。だが、それを気にする事なく要と巴は菓子に手を伸ばした。
「あれは、いつ完成させる予定?」
和菓子の包みを開きながら、巴が問う。あれ、と指された物が今現在描き始めた絵の事である事を理解した要は、先程まで鉛筆を走らせていたスケッチブックをちらりと見やる。別段期限を決めて描き始めたものではないので、ゆっくり仕上げようと考えていた。故に、思わぬ問いを受けて僅かの間を思案に使用する。一度逸らした視線をすぐに戻して、要は口を開いた。
「今日中には下書きを終わらせて、着色は今度にしようかと思ってます。……どうしてですか?」
「いや、要の着色は見ていて好きなんだ」
「着色……ですか?」
うん、と頷いた彼女の表情は明るい。
「こう、下書きもそうだけど、何かに専念する要の姿を見ているのが好きだから」
「はぁ……」
朗らかに笑む少女の言葉に、答えを窮する要は半ば困ったように笑う。そういった自分の姿が好きであると言われた経験の無い少年にとっては若干恥ずかしさもあり、笑みの中に照れも交える。胸中にはどこか新鮮な感覚を覚えて、思わず口から洩れかけた言葉。
「僕も、」
「うん?」
「……僕も、巴さんの真直ぐな眼が好きです」
それは、巴にとっても思わぬ告白。一瞬驚きに眼を数度瞬かせ、次いで破顔した。弟のような存在にそう言ってもらえる日が来るなどと思ってもみなかった少女は嬉しく思い、同時に来たる時を思えば切なくなる。……それでも。
「―――ありがとう、要」
湛えた微笑みに、二人の間が和む。穏和な雰囲気は夏の暑さを緩和させ、遠くに響く蝉の声と窓辺に響く風鈴の音色が夏の風物詩として彩り添えられる。
暫らくの間、屋根裏部屋に二人の密やかな笑いが絶える事は無かった。
◇ ◆ ◇
「巴さんは、絵を描いたりしないんですね」
マグカップに注がれていた麦茶を飲み終えた要が、対面する少女へ唐突に話を振ったのは、それから十五分ほど後の事だった。
既に茶菓子を食べ終えた巴は、今しがた口を付けていたマグカップの縁を指で拭き取る。それから顔を上げて要を見やり、ああ、と苦笑を洩らした。
「絵、下手だから」
「どうしてそう言い切るんでしょうか」
「え?」
思わぬ反論に目を瞬かせ、脳裏に木霊する要の問いにふと考えを巡らせる。弓一筋であったが故か、それとも単に才能が皆無なだけなのか。どちらにしても、美術の成績は世辞にも良いとは言えない評価だったので、それを意識し過ぎているのかもしれない。
思案すること暫し。巴の言い放った言葉は、苦し紛れのような苦悩を伴って。
「書道は得意だけど……それは絵と関係ないだろうし」
「そうなんですか?」
間を置いて頷いた巴を見やり、要はふと窓辺のイーゼルに視線を移す。立てかけられたスケッチブック、それに描かれたモノクロの景色。それを暫し眺めて、再び目前の少女へと視線を戻した。……そういえば、彼女は知らないのだった。学校の美術室で描き続ける、自身の絵を。
「僕はあまり、目の前にある風景を描いたりする事は滅多に無いんです。大抵は頭に浮かんだものを描き留めているだけで、」
「それでも絵は絵だと思うけど……」
「何かを表現する点で言えば、書道も同じだと僕は思いますが」
淡々と告げられた要の言葉に、巴は呆然として少年の声を聞き入れる。そうだったのかと関心を抱く胸中。表現においては絵と書道を同等の位置と見なす少年の思考。成程、とすんなり納得を落として、巴は苦笑を零す。
「そういう考えはあまりしなかったね」
一つ勉強になったとぼやけば、返り来る少年の笑み。―――彼は、随分と笑うようになった。それは酷く嬉しい。
巴は立ち上がると、背にしていたベッドの上に腰を下ろす。スプリングの軋む音を聞きながら、口元に笑みを浮かべて気軽ながら言葉を放った。
「じゃあ、今度教えてもらおうかな」
「はい、僕で良ければ」
躊躇いも無く承諾の意を以って頷いた要に、ああ、と巴は思う。―――これ程までに、慕われているのだと。
本来の身分の差を比べ、違和感が胸に閊える。早く返さなければと焦燥に駆られると同時、この安穏とした日々が続く事を願う自身が存在している事に気付いて僅かに俯く。
……時が、止まってしまえば良いのに。
下書きを再開した要はそれから二時間、作業に没頭していた。
書いては消し、描いては消しを繰り返して書き上げ終えると、着色までには時間が足りない事に気付く。仕方なく暫しの間を自身の家を含む街並みを一望して、ふと背後より聞き届けた少女の声に半身を振り返らせる。
「そろそろ、切り上げる?」
「はい」
巴の問いに頷いた要は、周囲に広げ置いた物を手前より片付け始める。完成したであろう下書きの絵を眺めた後に閉じると、画材を整理して鞄に戻す。そのまま肩へ担ごうとして、途端騎乗を片付け始めていた少女の柔らかな声が部屋内に響いた。
「ああ、全部そのままで良いよ」
言って、取り出したのは薄いタオル。日焼け防止の為だろう、閉じて置いたスケッチブックごとイーゼルをタオルで覆った。
少女の行動をぼんやりと眺めていた要は、自身の元へ向けられた笑みを見やり首を傾げる。何故と問おうとして、刹那それを察したかのような言葉。
「また明日、来るだろうから」
「―――はい」
心遣いを嬉しく思いながらも、立ち上がった要は階段先へと足を向ける。巴もまた後を追えば、少年がふと何事かと思い出したかのように振り返った。
「見送りは大丈夫です」
軽く頭を横に振った要に、巴はきょとんとして目を丸くする。普段ならば短い距離と言えど家の前まで送る事を認めていたのに。一体どのような心変わりなのかと若干心配と疑問を募らせ、しかしそれを打ち払うかのような少年の微笑と、言葉。
「僕が断っても、窓から見守ってくれている事は分かってますから」
「え、」
予想外の言葉に少女は軽く目を見開く。これまで、訳あって見送る事が出来ず窓から少年を見送る際には視線が合う事など無かったので、てっきり気付いていないものだと思っていた。
素っ頓狂な声を誤魔化すように照れ笑いを零し、巴はじゃあ、と軽く手を挙げる。
「おやすみなさい」
「おやすみ、要」
別れの言葉は陽の出た時間に相応しくない言葉であったが、これが日常で交わされる彼らの言だった。
二人は笑み合う後、要は玄関へ向かう為に階段を下りていく。すぐに消えていった少年の背を見届け、次いでイーゼルの横――開かれた窓辺へと歩み寄り、黄昏を含ませ始めた空を見上げる。……明日もまた、同じような空であれば良い。
巴が考える刹那、真下に位置する玄関より人影が出てくる。それが要である事を認めて、斜向かいに建つ彼の家までの僅かな道程を眺めた。その道を辿り歩く少年はしかし、ぴったりと閉ざされた家の門の前で足を止めるとゆっくり来た道、その家の上を見上げた。窓上から顔を覗かせていた少女と、初めて視線が合う。
窓から軽く手を振った巴に、要もまた笑みを浮かべて応え、ゆっくりと門の向こうへ消えていく。
―――泡沫の夏、その終幕はすぐそこに。
翳る窓辺に椅子を寄せて、蝉の重奏と窓辺に吊るした風鈴の音に耳を傾けていた。
- 泡沫の夏 -
りん、と小さな響きを以って揺れる風鈴の柄は金魚。札は風に煽られはためいて、真夏の中に冷涼を装う。ベッドに腰を下ろしていた巴は窓辺の椅子に座り遠景を眺める少年の背を見やる。伸ばされたその背筋が緩まる事はない。
実のところ、彼が眺めているのはイーゼルに立てられたスケッチブックと斜向かいに建つ自身の家であり、手元を小まめに動かすその姿は画家のよう。久方ぶりの休息は二人きり。会話は無かったが、静かな時が心地好い。
合唱する蝉の声は次第に治まりゆく。それを区切りとして立ち上がった巴は少年の傍らへ近付き、スケッチブックを覗き込んだ。綺麗な一本の線によって描かれた下書きはすっきりとした印象を覚えさせる。
「どうしました?」
「ううん。順調に描けてるかなと思って」
ちらりと視線を向けた要に、巴は微笑みを返す。次いで窓の向こうに広がる景色と描かれた線描きを見比べ、ふと左下の部分に存在する空間が気に掛かる。首を捻り空白に指を差せば、青年の綻ぶ顔が僅かに曇る。
「どうしても、蔵が上手く描けないので……」
「蔵?」
頷き、椅子から腰を浮かせた要が斜向かいに存在する自身の家、その中庭にある蔵を指し示す。古い家であれば何の変哲も無い蔵はしかし、事情を把握している巴にとっては納得せざるを得ない。軽く相槌を打つと、胸内の思案が思わず口から零れた。
「問題のあれかな……」
「え?」
「ううん、何でもない」
疑問の念を浮かべる要に対し、慌てて頭を振る巴。
……理由を述べる訳にはいかない。今、彼の喪失した時を己が呼び覚まして良いものかという躊躇いによって、彼女の言葉は制されていた。思いあぐねる間も無く困ったような顔をする要の傍らへ屈み込み、目線を合わせる。
「少し、休憩しようか」
「―――そうですね」
首肯を示し賛同の意を見せた少年は、手中に握られていた鉛筆をイーゼルの縁へそっと置く。その姿に微笑み身を翻した巴は、茶と菓子を用意する為に屋根裏部屋を退出すると足早に階段を駆け下りていった。
二人は質素な丸机を挟んで座り込む。中央には茶菓子の乗った丸盆が一つ、マグカップが二つ。壁に掛けられた時計は午後二時を指し、茶の時間までにはあと一時間。だが、それを気にする事なく要と巴は菓子に手を伸ばした。
「あれは、いつ完成させる予定?」
和菓子の包みを開きながら、巴が問う。あれ、と指された物が今現在描き始めた絵の事である事を理解した要は、先程まで鉛筆を走らせていたスケッチブックをちらりと見やる。別段期限を決めて描き始めたものではないので、ゆっくり仕上げようと考えていた。故に、思わぬ問いを受けて僅かの間を思案に使用する。一度逸らした視線をすぐに戻して、要は口を開いた。
「今日中には下書きを終わらせて、着色は今度にしようかと思ってます。……どうしてですか?」
「いや、要の着色は見ていて好きなんだ」
「着色……ですか?」
うん、と頷いた彼女の表情は明るい。
「こう、下書きもそうだけど、何かに専念する要の姿を見ているのが好きだから」
「はぁ……」
朗らかに笑む少女の言葉に、答えを窮する要は半ば困ったように笑う。そういった自分の姿が好きであると言われた経験の無い少年にとっては若干恥ずかしさもあり、笑みの中に照れも交える。胸中にはどこか新鮮な感覚を覚えて、思わず口から洩れかけた言葉。
「僕も、」
「うん?」
「……僕も、巴さんの真直ぐな眼が好きです」
それは、巴にとっても思わぬ告白。一瞬驚きに眼を数度瞬かせ、次いで破顔した。弟のような存在にそう言ってもらえる日が来るなどと思ってもみなかった少女は嬉しく思い、同時に来たる時を思えば切なくなる。……それでも。
「―――ありがとう、要」
湛えた微笑みに、二人の間が和む。穏和な雰囲気は夏の暑さを緩和させ、遠くに響く蝉の声と窓辺に響く風鈴の音色が夏の風物詩として彩り添えられる。
暫らくの間、屋根裏部屋に二人の密やかな笑いが絶える事は無かった。
◇ ◆ ◇
「巴さんは、絵を描いたりしないんですね」
マグカップに注がれていた麦茶を飲み終えた要が、対面する少女へ唐突に話を振ったのは、それから十五分ほど後の事だった。
既に茶菓子を食べ終えた巴は、今しがた口を付けていたマグカップの縁を指で拭き取る。それから顔を上げて要を見やり、ああ、と苦笑を洩らした。
「絵、下手だから」
「どうしてそう言い切るんでしょうか」
「え?」
思わぬ反論に目を瞬かせ、脳裏に木霊する要の問いにふと考えを巡らせる。弓一筋であったが故か、それとも単に才能が皆無なだけなのか。どちらにしても、美術の成績は世辞にも良いとは言えない評価だったので、それを意識し過ぎているのかもしれない。
思案すること暫し。巴の言い放った言葉は、苦し紛れのような苦悩を伴って。
「書道は得意だけど……それは絵と関係ないだろうし」
「そうなんですか?」
間を置いて頷いた巴を見やり、要はふと窓辺のイーゼルに視線を移す。立てかけられたスケッチブック、それに描かれたモノクロの景色。それを暫し眺めて、再び目前の少女へと視線を戻した。……そういえば、彼女は知らないのだった。学校の美術室で描き続ける、自身の絵を。
「僕はあまり、目の前にある風景を描いたりする事は滅多に無いんです。大抵は頭に浮かんだものを描き留めているだけで、」
「それでも絵は絵だと思うけど……」
「何かを表現する点で言えば、書道も同じだと僕は思いますが」
淡々と告げられた要の言葉に、巴は呆然として少年の声を聞き入れる。そうだったのかと関心を抱く胸中。表現においては絵と書道を同等の位置と見なす少年の思考。成程、とすんなり納得を落として、巴は苦笑を零す。
「そういう考えはあまりしなかったね」
一つ勉強になったとぼやけば、返り来る少年の笑み。―――彼は、随分と笑うようになった。それは酷く嬉しい。
巴は立ち上がると、背にしていたベッドの上に腰を下ろす。スプリングの軋む音を聞きながら、口元に笑みを浮かべて気軽ながら言葉を放った。
「じゃあ、今度教えてもらおうかな」
「はい、僕で良ければ」
躊躇いも無く承諾の意を以って頷いた要に、ああ、と巴は思う。―――これ程までに、慕われているのだと。
本来の身分の差を比べ、違和感が胸に閊える。早く返さなければと焦燥に駆られると同時、この安穏とした日々が続く事を願う自身が存在している事に気付いて僅かに俯く。
……時が、止まってしまえば良いのに。
下書きを再開した要はそれから二時間、作業に没頭していた。
書いては消し、描いては消しを繰り返して書き上げ終えると、着色までには時間が足りない事に気付く。仕方なく暫しの間を自身の家を含む街並みを一望して、ふと背後より聞き届けた少女の声に半身を振り返らせる。
「そろそろ、切り上げる?」
「はい」
巴の問いに頷いた要は、周囲に広げ置いた物を手前より片付け始める。完成したであろう下書きの絵を眺めた後に閉じると、画材を整理して鞄に戻す。そのまま肩へ担ごうとして、途端騎乗を片付け始めていた少女の柔らかな声が部屋内に響いた。
「ああ、全部そのままで良いよ」
言って、取り出したのは薄いタオル。日焼け防止の為だろう、閉じて置いたスケッチブックごとイーゼルをタオルで覆った。
少女の行動をぼんやりと眺めていた要は、自身の元へ向けられた笑みを見やり首を傾げる。何故と問おうとして、刹那それを察したかのような言葉。
「また明日、来るだろうから」
「―――はい」
心遣いを嬉しく思いながらも、立ち上がった要は階段先へと足を向ける。巴もまた後を追えば、少年がふと何事かと思い出したかのように振り返った。
「見送りは大丈夫です」
軽く頭を横に振った要に、巴はきょとんとして目を丸くする。普段ならば短い距離と言えど家の前まで送る事を認めていたのに。一体どのような心変わりなのかと若干心配と疑問を募らせ、しかしそれを打ち払うかのような少年の微笑と、言葉。
「僕が断っても、窓から見守ってくれている事は分かってますから」
「え、」
予想外の言葉に少女は軽く目を見開く。これまで、訳あって見送る事が出来ず窓から少年を見送る際には視線が合う事など無かったので、てっきり気付いていないものだと思っていた。
素っ頓狂な声を誤魔化すように照れ笑いを零し、巴はじゃあ、と軽く手を挙げる。
「おやすみなさい」
「おやすみ、要」
別れの言葉は陽の出た時間に相応しくない言葉であったが、これが日常で交わされる彼らの言だった。
二人は笑み合う後、要は玄関へ向かう為に階段を下りていく。すぐに消えていった少年の背を見届け、次いでイーゼルの横――開かれた窓辺へと歩み寄り、黄昏を含ませ始めた空を見上げる。……明日もまた、同じような空であれば良い。
巴が考える刹那、真下に位置する玄関より人影が出てくる。それが要である事を認めて、斜向かいに建つ彼の家までの僅かな道程を眺めた。その道を辿り歩く少年はしかし、ぴったりと閉ざされた家の門の前で足を止めるとゆっくり来た道、その家の上を見上げた。窓上から顔を覗かせていた少女と、初めて視線が合う。
窓から軽く手を振った巴に、要もまた笑みを浮かべて応え、ゆっくりと門の向こうへ消えていく。
―――泡沫の夏、その終幕はすぐそこに。