短編
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雁国靖州関弓―――その中心に雄大と聳え立つ凌雲山は天と地を隔て分ける雲海をも貫き、雲海上には小島が浮かぶようにしてその頂が突出する。頂には建物が幾つか建てられており、内一つは露台への戸が開放されていた。客を持て成すために用意された堂室にはしかし、招かれざる客の姿が二つ。
「何故お前が此処にいる」
あからさまに顰められた男の顔には、嫌悪にも似た情が浮かんでいた。
招かれざる二人の客は、実を言えば範国国主とその麒麟である。訳あってこの度話し合いの機会を雁にて設け、範主従を招き入れる。二者を掌客殿へ留め置くまでは順調、予定通りであったが―――本来その場に居座るものと型に嵌めていた大行人は、二者の行動に慌てた。
他国の王にも関わらず、勝手知らずの如く内殿外殿構わずにほっつき歩くのである。
主従は玄英宮内を見回り、挙句の果てに内殿の最奥――王の執務の最中である積翠台へと居座り始めたのが先程の事であった。
氾王と氾麟の会話を耳障りに思い顔を上げた尚隆は、二者に何故居るのかと問うた。延の問いに氾麟との会話を一時止めた氾王――呉藍滌が僅かに目を細める。
「今さらその理由を問うのかえ」
「そうではない―――何故お前が内殿に立ち入っているのかと聞いておるんだ」
「掌客殿は趣味が悪いからねぇ」
「お前な」
視線を逸らす藍滌に、尚隆は怪訝そうに眉を顰める。趣味が悪いと言われ不快に思わぬ者は流石に居ないだろう―――そう思いつつ、視線は傍らの少女へと向ける。主君の無謀を止める事もまた着いて来た臣下の役割に含まれているのではないだろうか。
「何故お前も止めなかった」
「あら、止める必要なんて無いじゃない」
氾麟――梨雪もまた明朗な声音で答え、椅子に腰掛け宙に浮いていた足をぶらぶらと動かす。主従の主張と行動を目前に思わず盛大な溜息を吐き出した尚隆は、すぐに二者の主張を切り捨てた。
「戻れ。今日は来客がある」
「来客……?」
珍しいかの如く首を捻る梨雪と、ほぅ、と呟きを入れて尚隆を凝視する藍滌。二人の視線を受けて機嫌が落ちゆくその刹那―――堂室と廊下とを隔てる衝立の向こうから、大行人の無感情な声が響き渡る。
「主上、江寧様が参りました」
「ああ、入れ」
一報に応じ言葉を返すと、開かれた戸の間より一つの足音が踏み込まれる。尚隆はちらりと戸前に置かれた衝立を見やり、藍滌と梨雪は半身を振り返らせて背後を凝視する。視線の集中するその場に、一人の少女がゆるりと裳裾を引いて姿を現した。
叩頭礼の後に立ち上がった少女は、顔と共に視線を上げる。
「失礼致します。―――あ」
尚隆を直視し、次いで手前に坐る二者の姿に目を丸くする少女、江寧。見覚えのある目前の者達にその正体をはたと思い出して、慌てて一礼を深く拱手をする。緊張は休息に背へ遡った。
「申し訳御座いません。改めて伺いに参りますので―――」
「遠慮はするな。空いた席に座れ」
「しかし、」
尚隆の言葉に江寧は躊躇い、泳ぎ掛けた視線を氾王である藍滌へと留める。当惑が顔に滲んで、困ったように眉が顰められた。……王二人と麒麟が一人では、流石に居辛く思えてならない。
江寧の心情を察したのか、藍滌は微かに口角を上げて口を開く。
「私と嬌娘を気にする事はないよ」
「はあ……では、お言葉に甘えまして」
藍滌の気遣いに応えるものの、やはり緊張は続く。近場に用意された椅子に坐るまでの動作すらも体に力が入るばかりでぎこちない。三者の視線を受けつつようやく椅子に腰を下ろしたところで、江寧は尚隆に向き直り改め拱手をした。
「この度はお招き頂き有り難う存じます」
「いや。今さらそう畏まる事も無かろう」
「そうそう、猿山の猿王なんだから」
「猿山……?」
「気にするな江寧」
余計な事柄を少女に吹き込ませまいと、藍滌に続く梨雪の言葉に対する疑問を尚隆が遮断する。同時、脳裏ではいつぞや慶の女史が氾麟の中身は延麒だと言っていた事を思い出す。……確かにそうであると、納得せざるを得ない。
複雑な心情を顔に滲ませる尚隆に江寧は内心首を捻りながらも、延とは書卓を挟み椅子に坐る氾を見やる。西の王は男性にも関わらず、貴婦人という言葉が相応しい。今さらながら、間違えてはならないと考えた末、江寧が恐る恐ると問うた。
「延王君―――こちらは確か、氾王でいらっしゃいますよね?」
「ああ。一応は交流がある」
「一応なんて失礼ね、尚隆」
「言葉を挟むな。話が進まんだろう」
氾麟の言葉に、尚隆はなおも不満の色を隠そうとはせず範の主従を交互に見比べる。見比べながら、挟まれる言葉に一々対応していては難だと思いつつ、態々慶より招いた少女に話題を振っていた。
先日巧を見てきたという江寧の話に耳を傾け、最中に氾王が問いを投げ、逸れた話題を戻す。それを何度か繰り返して、尚隆は次第に苛立ちを胸に抱き始めた。
……決して、彼女が悪いのではない。王に話を振られると、それを返さねばと思う心は解る。だがしかし、此度招いたのは彼女と余裕を以って話をする為であり、こうして自身の胸内に渦巻く不満を募らせる為に態々呼んだ訳ではない。
―――何故、氾と親しげに話している。
焦燥と不満と苛立ちと。混濁する感情にさえ不快感を抱き、そして唐突に理解した。
これは、ただ私情より来る妬みであると。
「じゃあ、また後でね」
「ええ―――では」
夕餉の後に江寧との対面の約束を取り付けた氾麟は満足気に笑み、氾王と共に席を立つ。範主従の退席を尚隆は視線のみで追い、積翠台より姿が見えなくなると手元へゆっくりと視線を落とす。
沈黙する尚隆の異変に気付いた江寧は、椅子に腰掛けながらも僅かに身を屈めて、書卓に肘を着く男の顔を覗き込むようにして見やる。以前、氾王が延王の天敵である事を延麒より聞かされていた江寧はそれを少しばかり気に掛けていた。
「延王君……?」
「……何でもない。話を続けるぞ」
「はあ―――」
素っ気無い尚隆の言葉に、江寧は困惑しつつも少しずつ話を進めゆく。雲海上にて斜陽が始まった頃、ようやく話は終結した。
だがしかし、江寧が清香殿へ戻ろうと積翠台を退出する直前まで、尚隆の様子が戻る事は無かった。
◇ ◆ ◇
夕餉時の清香殿に、穏やかな会話と囁くような笑い声が聞こえる。
声は三者。大卓を囲み話し合う声は範の王とその麟と慶国飛仙のものである。梨雪の提案によって食事を堂室にて摂る事となり、夕餉を迎えながら会話を続けていた。
二者と会話をしながらも、江寧の脳裏には時折尚隆の表情が過ぎる。大丈夫であろうかという心配が半分、自分が何か失礼な事をしただろうかという不安が半分。どちらにしても、彼は今此処に居ない。ならば今は気にすまいと、氾の話に耳を傾けていた―――。
夕餉を終えて暫しの間範国主従と話し合い、二者はそれから自身に宛がわれた客房へと戻っていった。
緊張から解放された江寧は背を伸ばし身体を解す。範の内情を知る事が出来たのは良かったものの、あまり面識のない王との会話ともなれば肩に力が入る。凝る肩を手で解しながら、少女は臥牀へと腰掛けた。
臥牀の上には寝間着用として被衫が丁寧に畳まれ置かれている。それを片手に取った刹那―――堂室より微かな物音が聞こえて、江寧は咄嗟に腰を浮かせる。
女官にしては足音が大きい。そう思い戸の前へ向かおうと立ち上がると、突如耳に届くは見知った王の声。
「入るぞ」
「え―――」
返答をする間もなく戸を押し開き、尚隆が臥室へと足を踏み入れる。江寧は慌てて被衫を手放し駆け寄ろうとするが、歩幅を広げて近寄ってくる尚隆を前に自然と足が止まった。せめて言葉だけでも切り出そうとして、彼女は口を開く。
「延王君、如何なされま」
「氾王とは随分と親しく話していたな」
江寧の言葉を遮って、尚隆は言葉を掛ける。しかし、その言葉から情を汲み取る事は難であった。
戸惑いながらも江寧は首肯を見せる。次いで理由を述べようと微かな笑みを浮かべて言葉を綴る。
「ええ、範の工芸が気になったものですから……」
「為にはなったか?」
「そうですね……はい」
再び頷くも、江寧は一歩後退する。目前の男より受ける様子が、今は何処か恐ろしく感じる。無表情が故かは解らなかったが、少なくとも普段の尚隆でない事は理解できた。……そして、こうして訪ね来たからには何かしらそうさせる原因が自身にあるのだろうと。
「………」
「あの、どうされました……?何かお気に障るような事を、」
「した」
返答の口調は、あまりにもはっきりと。やはりという確信と共に、深い落胆が胸中を満たす。それを面には出すまいと苦笑を浮かべてやり過ごそうとする。
「そうはっきり言われてしまうと、少し凹みますね……」
微かな本音を吐き出してなおも江寧は苦笑のまま。その様子に若干目を細めた尚隆は少女の背後にある臥牀へ歩み寄り、ゆっくりと腰を掛ける。手を組み膝に置くと、きょとんとして半身を振り返らせる江寧に視線を向けた。……あからさまに、不満を顔に浮かべながら。
「わざわざ招いたというのに、その時間を天敵に横から掻っ攫われてみろ。機嫌は底まで落ちるというものだ」
「―――」
―――江寧は思わず閉口した。
延の表情から不満を汲み取ったまでは良いものの、言葉を咀嚼し終えた途端に驚きを含めて呆然とする。失礼ながら、よもや彼にはそのような事など無いと思っていたのだが……まさかと江寧は思う。
「延王君?」
「なんだ」
「つまり、その……妬いていらっしゃるのですか?」
「そうだが、悪いか」
……これは、謝るべきであろうか。
はっきりとした肯定に戸惑う江寧の眼は自然と泳ぐ。延の言葉にどう返せば良いのかと閉口のまま思考を巡らせて、何とか言葉を紡ごうと口を開くも、言葉にならない繋ぎの声が洩れた。
「ええと、」
「悪いと思っているのなら、これから晩酌でも付き合え。それで許してやる」
あまりに動揺する江寧の様子を眺めていた尚隆が、微かな笑みを零して言葉を差し伸べる。流石にやり過ぎただろうかと内心の隅にて思いつつも、少女に向けた提案の返答を待つ。
一間を呆然として提案を聞き受けた江寧は眼を瞬かせ、次いで次いで怒り無き男の言葉をようやく飲み込んで、それで笑った。
「それで許して頂けるのなら、喜んで」
「ああ」
少女の返答を聞き終えて、臥牀から腰を上げた尚隆は通り際に江寧の肩を軽く叩き臥室の出口へと向かう。向けられたその背を追い、江寧もまた留めていた歩を進めた。
「言っておくが、お前も飲むのだからな」
「え」
「何故お前が此処にいる」
あからさまに顰められた男の顔には、嫌悪にも似た情が浮かんでいた。
- 機微波立つ -
招かれざる二人の客は、実を言えば範国国主とその麒麟である。訳あってこの度話し合いの機会を雁にて設け、範主従を招き入れる。二者を掌客殿へ留め置くまでは順調、予定通りであったが―――本来その場に居座るものと型に嵌めていた大行人は、二者の行動に慌てた。
他国の王にも関わらず、勝手知らずの如く内殿外殿構わずにほっつき歩くのである。
主従は玄英宮内を見回り、挙句の果てに内殿の最奥――王の執務の最中である積翠台へと居座り始めたのが先程の事であった。
氾王と氾麟の会話を耳障りに思い顔を上げた尚隆は、二者に何故居るのかと問うた。延の問いに氾麟との会話を一時止めた氾王――呉藍滌が僅かに目を細める。
「今さらその理由を問うのかえ」
「そうではない―――何故お前が内殿に立ち入っているのかと聞いておるんだ」
「掌客殿は趣味が悪いからねぇ」
「お前な」
視線を逸らす藍滌に、尚隆は怪訝そうに眉を顰める。趣味が悪いと言われ不快に思わぬ者は流石に居ないだろう―――そう思いつつ、視線は傍らの少女へと向ける。主君の無謀を止める事もまた着いて来た臣下の役割に含まれているのではないだろうか。
「何故お前も止めなかった」
「あら、止める必要なんて無いじゃない」
氾麟――梨雪もまた明朗な声音で答え、椅子に腰掛け宙に浮いていた足をぶらぶらと動かす。主従の主張と行動を目前に思わず盛大な溜息を吐き出した尚隆は、すぐに二者の主張を切り捨てた。
「戻れ。今日は来客がある」
「来客……?」
珍しいかの如く首を捻る梨雪と、ほぅ、と呟きを入れて尚隆を凝視する藍滌。二人の視線を受けて機嫌が落ちゆくその刹那―――堂室と廊下とを隔てる衝立の向こうから、大行人の無感情な声が響き渡る。
「主上、江寧様が参りました」
「ああ、入れ」
一報に応じ言葉を返すと、開かれた戸の間より一つの足音が踏み込まれる。尚隆はちらりと戸前に置かれた衝立を見やり、藍滌と梨雪は半身を振り返らせて背後を凝視する。視線の集中するその場に、一人の少女がゆるりと裳裾を引いて姿を現した。
叩頭礼の後に立ち上がった少女は、顔と共に視線を上げる。
「失礼致します。―――あ」
尚隆を直視し、次いで手前に坐る二者の姿に目を丸くする少女、江寧。見覚えのある目前の者達にその正体をはたと思い出して、慌てて一礼を深く拱手をする。緊張は休息に背へ遡った。
「申し訳御座いません。改めて伺いに参りますので―――」
「遠慮はするな。空いた席に座れ」
「しかし、」
尚隆の言葉に江寧は躊躇い、泳ぎ掛けた視線を氾王である藍滌へと留める。当惑が顔に滲んで、困ったように眉が顰められた。……王二人と麒麟が一人では、流石に居辛く思えてならない。
江寧の心情を察したのか、藍滌は微かに口角を上げて口を開く。
「私と嬌娘を気にする事はないよ」
「はあ……では、お言葉に甘えまして」
藍滌の気遣いに応えるものの、やはり緊張は続く。近場に用意された椅子に坐るまでの動作すらも体に力が入るばかりでぎこちない。三者の視線を受けつつようやく椅子に腰を下ろしたところで、江寧は尚隆に向き直り改め拱手をした。
「この度はお招き頂き有り難う存じます」
「いや。今さらそう畏まる事も無かろう」
「そうそう、猿山の猿王なんだから」
「猿山……?」
「気にするな江寧」
余計な事柄を少女に吹き込ませまいと、藍滌に続く梨雪の言葉に対する疑問を尚隆が遮断する。同時、脳裏ではいつぞや慶の女史が氾麟の中身は延麒だと言っていた事を思い出す。……確かにそうであると、納得せざるを得ない。
複雑な心情を顔に滲ませる尚隆に江寧は内心首を捻りながらも、延とは書卓を挟み椅子に坐る氾を見やる。西の王は男性にも関わらず、貴婦人という言葉が相応しい。今さらながら、間違えてはならないと考えた末、江寧が恐る恐ると問うた。
「延王君―――こちらは確か、氾王でいらっしゃいますよね?」
「ああ。一応は交流がある」
「一応なんて失礼ね、尚隆」
「言葉を挟むな。話が進まんだろう」
氾麟の言葉に、尚隆はなおも不満の色を隠そうとはせず範の主従を交互に見比べる。見比べながら、挟まれる言葉に一々対応していては難だと思いつつ、態々慶より招いた少女に話題を振っていた。
先日巧を見てきたという江寧の話に耳を傾け、最中に氾王が問いを投げ、逸れた話題を戻す。それを何度か繰り返して、尚隆は次第に苛立ちを胸に抱き始めた。
……決して、彼女が悪いのではない。王に話を振られると、それを返さねばと思う心は解る。だがしかし、此度招いたのは彼女と余裕を以って話をする為であり、こうして自身の胸内に渦巻く不満を募らせる為に態々呼んだ訳ではない。
―――何故、氾と親しげに話している。
焦燥と不満と苛立ちと。混濁する感情にさえ不快感を抱き、そして唐突に理解した。
これは、ただ私情より来る妬みであると。
「じゃあ、また後でね」
「ええ―――では」
夕餉の後に江寧との対面の約束を取り付けた氾麟は満足気に笑み、氾王と共に席を立つ。範主従の退席を尚隆は視線のみで追い、積翠台より姿が見えなくなると手元へゆっくりと視線を落とす。
沈黙する尚隆の異変に気付いた江寧は、椅子に腰掛けながらも僅かに身を屈めて、書卓に肘を着く男の顔を覗き込むようにして見やる。以前、氾王が延王の天敵である事を延麒より聞かされていた江寧はそれを少しばかり気に掛けていた。
「延王君……?」
「……何でもない。話を続けるぞ」
「はあ―――」
素っ気無い尚隆の言葉に、江寧は困惑しつつも少しずつ話を進めゆく。雲海上にて斜陽が始まった頃、ようやく話は終結した。
だがしかし、江寧が清香殿へ戻ろうと積翠台を退出する直前まで、尚隆の様子が戻る事は無かった。
◇ ◆ ◇
夕餉時の清香殿に、穏やかな会話と囁くような笑い声が聞こえる。
声は三者。大卓を囲み話し合う声は範の王とその麟と慶国飛仙のものである。梨雪の提案によって食事を堂室にて摂る事となり、夕餉を迎えながら会話を続けていた。
二者と会話をしながらも、江寧の脳裏には時折尚隆の表情が過ぎる。大丈夫であろうかという心配が半分、自分が何か失礼な事をしただろうかという不安が半分。どちらにしても、彼は今此処に居ない。ならば今は気にすまいと、氾の話に耳を傾けていた―――。
夕餉を終えて暫しの間範国主従と話し合い、二者はそれから自身に宛がわれた客房へと戻っていった。
緊張から解放された江寧は背を伸ばし身体を解す。範の内情を知る事が出来たのは良かったものの、あまり面識のない王との会話ともなれば肩に力が入る。凝る肩を手で解しながら、少女は臥牀へと腰掛けた。
臥牀の上には寝間着用として被衫が丁寧に畳まれ置かれている。それを片手に取った刹那―――堂室より微かな物音が聞こえて、江寧は咄嗟に腰を浮かせる。
女官にしては足音が大きい。そう思い戸の前へ向かおうと立ち上がると、突如耳に届くは見知った王の声。
「入るぞ」
「え―――」
返答をする間もなく戸を押し開き、尚隆が臥室へと足を踏み入れる。江寧は慌てて被衫を手放し駆け寄ろうとするが、歩幅を広げて近寄ってくる尚隆を前に自然と足が止まった。せめて言葉だけでも切り出そうとして、彼女は口を開く。
「延王君、如何なされま」
「氾王とは随分と親しく話していたな」
江寧の言葉を遮って、尚隆は言葉を掛ける。しかし、その言葉から情を汲み取る事は難であった。
戸惑いながらも江寧は首肯を見せる。次いで理由を述べようと微かな笑みを浮かべて言葉を綴る。
「ええ、範の工芸が気になったものですから……」
「為にはなったか?」
「そうですね……はい」
再び頷くも、江寧は一歩後退する。目前の男より受ける様子が、今は何処か恐ろしく感じる。無表情が故かは解らなかったが、少なくとも普段の尚隆でない事は理解できた。……そして、こうして訪ね来たからには何かしらそうさせる原因が自身にあるのだろうと。
「………」
「あの、どうされました……?何かお気に障るような事を、」
「した」
返答の口調は、あまりにもはっきりと。やはりという確信と共に、深い落胆が胸中を満たす。それを面には出すまいと苦笑を浮かべてやり過ごそうとする。
「そうはっきり言われてしまうと、少し凹みますね……」
微かな本音を吐き出してなおも江寧は苦笑のまま。その様子に若干目を細めた尚隆は少女の背後にある臥牀へ歩み寄り、ゆっくりと腰を掛ける。手を組み膝に置くと、きょとんとして半身を振り返らせる江寧に視線を向けた。……あからさまに、不満を顔に浮かべながら。
「わざわざ招いたというのに、その時間を天敵に横から掻っ攫われてみろ。機嫌は底まで落ちるというものだ」
「―――」
―――江寧は思わず閉口した。
延の表情から不満を汲み取ったまでは良いものの、言葉を咀嚼し終えた途端に驚きを含めて呆然とする。失礼ながら、よもや彼にはそのような事など無いと思っていたのだが……まさかと江寧は思う。
「延王君?」
「なんだ」
「つまり、その……妬いていらっしゃるのですか?」
「そうだが、悪いか」
……これは、謝るべきであろうか。
はっきりとした肯定に戸惑う江寧の眼は自然と泳ぐ。延の言葉にどう返せば良いのかと閉口のまま思考を巡らせて、何とか言葉を紡ごうと口を開くも、言葉にならない繋ぎの声が洩れた。
「ええと、」
「悪いと思っているのなら、これから晩酌でも付き合え。それで許してやる」
あまりに動揺する江寧の様子を眺めていた尚隆が、微かな笑みを零して言葉を差し伸べる。流石にやり過ぎただろうかと内心の隅にて思いつつも、少女に向けた提案の返答を待つ。
一間を呆然として提案を聞き受けた江寧は眼を瞬かせ、次いで次いで怒り無き男の言葉をようやく飲み込んで、それで笑った。
「それで許して頂けるのなら、喜んで」
「ああ」
少女の返答を聞き終えて、臥牀から腰を上げた尚隆は通り際に江寧の肩を軽く叩き臥室の出口へと向かう。向けられたその背を追い、江寧もまた留めていた歩を進めた。
「言っておくが、お前も飲むのだからな」
「え」