短編
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淡い記憶の中。
失った筈のものをもう一度掴み損ねて、忘れた筈の空洞が不意に甦った。
陽が空を薄明に変えるころ、少女は時の夢から浮上した。
嘗て視た夢は実に数ヶ月ぶりのこと。慣れたはずの情が逆巻いて、鼓動は急速に駆け上がる。鮮明に色付けられた声が脳裏に過ぎると、胸に堪えていたものを吐き出しそうになった。
―――何故。
額に浮かぶ汗を袖で拭い取り、視線を周囲に巡らせる。頭上の天蓋、その一辺より垂らされた錦の幄。柔らかく肌触りの良いはずである絹の衾褥が、今だけは心地悪い。
小袖のまま幄の向こうへと足を着けた江寧は、重い身体を引き摺り歩く。玻璃の入った窓を押し開いて、潮の香りを臥室へと招いた。頬を掠める風が朧気な意識を覚醒へと導く。
―――嗚呼、やはり。
はっきりとした意識は、同時に己の胸中を夢として曝した。
認めたくはない感情、認めなければ感傷に浸るやもしれない心臓。葛藤に悄然とした意気が混濁して、取り戻しかけた冷静を掻き乱す。肌を掻き毟りたくなる程の衝動が込み上げて、途端唐突に叩かれた戸の音で不意に集中していた意識が逸れた。
「江寧、起きているか」
扉越しに聞こえた声が玄英宮の主である事に気が付いた江寧は、感情を押さえ込むと内心慌てて幄の間へ飛び込み臥牀へと潜り込む。軽い衾褥で身体を包んだところで、扉の軋む音が一時の静寂の中に響き渡る。
別段起床を隠す必要は無かったが、彼女は押さえ込んだ感情を最後まで隠し遂せると言い切る自信を持つ事が出来なかった。
江寧、と再び少女を呼ぶ声がする。対し一切の返答をせずにいると、衾褥の上へ何かが添えられる。次いで軽く揺さ振られたことから、添えられたものが彼の手なのだと察した。それでも動く気配のない江寧に、延は短くも一つ溜息を吐く。吐き終えたところで、頭部までもを覆う衾褥を一気に剥がし上げる。
「江寧、」
「ん―――」
臥牀の中で身体を動かせば、寝起きらしく洩れる声。それで誤魔化す事が出来ただろうかと固く閉じていた瞼をゆっくりと押し上げて、江寧は目前に映る王の姿を凝視した。延は軽く笑って、少女から一旦距離を置く。
「起きていたのだろう?」
「……何故、ですか……?」
軽く目を見開いた江寧は離れゆく王の姿をまじまじと見やる。最初からばれていたのならば、先程までの隠れていた意味が無へと還ってしまった。そう微かな虚しさを感じつつ、一先ずは答えを待つ。延は開かれた窓の向こうへ視線を据えたまま、穏和な態度で口を開いた。
「意外にも、裸足のまま床を歩くと足音が響くからな」
「―――すみません」
「いや」
頭を横へ振る延に対し、さらに申し訳なさが江寧の胸内に募る。靠元に畳まれた大袖を手に取ると被杉の上から羽織り、ふと少女の口から言葉が洩れた。
「―――夢が、」
「ん?」
「夢が、忘れていた事を思い出させてくれました」
「ほう……それは」
良かったな。
そう告げかけたところで、延は閉口する。薄らと影が差す彼女の貌を眺め、少なくと思い出した結果が良い方向にならなかったのだと察した。
「……何を思い出した?」
「大したものではありません」
「大した事でないのなら、そこまで暗い顔をする必要もあるまい」
延の言葉に一時戸惑いを抱き、江寧は男を捉えていた視界から外す。そこまで酷い貌をしていただろうかと眉を顰めて、途端脱力した。大したことでないと言い切る自信はない。それは彼女自身がよく分かっている。故に隠したところで何れにせよ目前の王にばれる事は時間の問題であった。
「―――蓬莱での事ですよ」
◇ ◆ ◇
一度尚隆に臥室を出てもらい、江寧は着替えを済ませると尚隆と共に話の場を変えて起居へと赴いていた。卓上に置かれた茶杯を別の棚へ移動させると、江寧が茶の用意を始める。恭に居たころ、榮春より淹れ方を教わっていた。
湯気立つ茶杯を椅子に腰掛ける尚隆の前に差し出すと、一つ礼を告げて茶杯を受け取る。江寧もまた椅子へ腰を下ろして、二者の間に暫しの沈黙が走る。
やがて、ぽつりと告げた呟きを切欠に話を始めた。
「蓬莱に未練はありません。……ですが、過去は消す事が出来ません」
「ああ、そうだな」
頷いた尚隆は、一度手元へと視線を降ろす。茶杯を包む掌がじんわりとした熱さを感じ取っていた。再度視線を合わせたところで、彼女の言葉は続けられる。
「忘れかけた頃になると、今回のように夢に出て来るんです。流された当時は、蓬莱の過去を毎日のように夢見ていたのに」
「時が流れれば仕方のない事だ」
尚隆のさらりと返した言葉に、江寧は思わず苦笑を零す。仕方のない事と割り切れるのならば、当の昔にそうしている。だが、夢は記憶が色褪せた頃にやって来る。迫り来る波が鮮明であればある程に不安と恐怖が押し寄せてきた。まるで忘れさせぬようにと、釘を刺すかの如く。
「……実を言えば、私は過去を振り返るのが怖い」
「江寧、」
声を掛ける尚隆に向け、江寧はゆるりと頭を横へ振る。慰めの言葉も、実のところ彼女の不安を募らせる要素でしかない。
「振り返ると、昔の考えに戻ってしまいそうな時があって。意志が確立している時は良いのですが、そうでない時はどうしても……」
どうしても、心が揺らいでしまう。そう最後まで言い切れず、言葉を口に篭らせる。虚しさが胸中を通り過ぎて、思わず頭を深く垂らした。
「すみません、こんな事を言って」
俯くまま、江寧は目前の王を上目遣いで一瞥する。彼の視線の方角は玻璃の向こう、広がる雲海へと据えている。僅かに細められた眼は風景を映してはいなかった。片手に収められた茶杯が硬い音を立てて、自身の手前へと引かれる。
「……俺とて、忘れられない蓬莱の記憶がある」
「―――はい」
頷く江寧を視界の端に収めつつ、尚隆は気の遠くなるほど蓄積された記憶を逆流させる。脳裏に駆け抜ける過去の中に見つけ出したもう一人の自分の姿を思い起こして、ゆっくりと瞼を伏せた。
「それを忘れて生きようとすれば、恐らくここまで長い治世を敷く事は出来なかっただろう」
―――治世五百年。
十二国の中でも今現在奏に継ぐ大国の王として君臨している。だが、その五百年の間に様々な出来事が起きた。さらに遡る蓬莱での出来事……それらは、尚隆にとって決して忘れてはならないものだった。
茶杯の中身、その面に映る自身の顔を眺めて、尚隆は顔を上げる。
「人には、留めて置かねばならない記憶も存在する」
俯かせていた顔を僅かに上げて、江寧は聞き入れた言葉に目を瞬かせる。首を捻り彼の姿を眺めたところで、いつになく真摯の情を浮かべた様子を珍しく思う。
江寧は閉口のまま、次の言葉を待った。
「夢によって過去を思い出すのならば、それがお前の留めておくべき記憶ではないのか?」
「―――私の、」
留め置くべき記憶。意味の含まった言葉に、ふと脳裏に浮かぶ過去の夢を見る。根拠無く首肯する意志が内心の隅にある事にはたと気が付いた江寧は、ただ口を引き結ぶばかり。その様子を見つつも、椅子の背に凭れた尚隆は綴る言葉を止めようとはせず。
「夢は時折、己の無意識に感じる思いを見せる。無理に忘れようとしているのならば尚更にな」
耳へ聞き入れたものに、胸を突き刺さすものがある。図星を突かれたかのような衝動を覚えて、次第に心中にて挙がりゆく事実に思わず胸を押さえた。
……苦しいから、忘れようとする。
足掻く事もせず、痛む胸に嫌悪を感じ忘却せねばと頭から振り払う。そうすれば、それ以上苦しまずに済むのだから。
……だが、それは沈着ではなく逃亡。
思い出せば何時しか恐怖へと変貌を遂げて、自身を苦しめ続ける。過去を振り返る事が怖かったのではない。過去を思い出し、胸を痛める事を恐怖と感じていた。
「明日と向き合う事は重要な事だが、過去を真っ向から見詰め直す事も大切だと、俺は思う」
例えそれが、胸内に恐怖を抱こうとも。
顔を歪ませ俯き加減のまま、江寧はぽつりと洩らすように呟いた。
「真っ向から―――」
過去に背を向け続ける事無く、事実をしかと受け入れねばならない。胸中にて尚隆の言葉を復唱しながら思う。自身のその過去が在るからこそ、今現在の自分が此処に存在するのだ……と。
湯気の立ち消えた茶杯を見詰めて、次いで視線を上げると彼女の視界に映るのは雲海を眺める尚隆の姿。依然として真摯の面持ちに、江寧は僅かに目を細めた。
「変わるでしょうか……」
「お前の望み次第でな」
あくまで後押しはするつもりのない雁の王。対し口元が緩やかに弧を描いて、江寧もまた玻璃越しの雲海へ視線を走らせる。打ち寄せる小波の音が静寂となった起居に囁かれて空気が和らいだ気がした。
「―――そうですね」
江寧の言葉に、彼女へ向けた男の顔が微かに崩れる。互いに穏和な笑みを湛えて同時、少女は思い直す切欠となった尚隆の言葉に内心感謝を呟いた。
失った筈のものをもう一度掴み損ねて、忘れた筈の空洞が不意に甦った。
- 楔 -
陽が空を薄明に変えるころ、少女は時の夢から浮上した。
嘗て視た夢は実に数ヶ月ぶりのこと。慣れたはずの情が逆巻いて、鼓動は急速に駆け上がる。鮮明に色付けられた声が脳裏に過ぎると、胸に堪えていたものを吐き出しそうになった。
―――何故。
額に浮かぶ汗を袖で拭い取り、視線を周囲に巡らせる。頭上の天蓋、その一辺より垂らされた錦の幄。柔らかく肌触りの良いはずである絹の衾褥が、今だけは心地悪い。
小袖のまま幄の向こうへと足を着けた江寧は、重い身体を引き摺り歩く。玻璃の入った窓を押し開いて、潮の香りを臥室へと招いた。頬を掠める風が朧気な意識を覚醒へと導く。
―――嗚呼、やはり。
はっきりとした意識は、同時に己の胸中を夢として曝した。
認めたくはない感情、認めなければ感傷に浸るやもしれない心臓。葛藤に悄然とした意気が混濁して、取り戻しかけた冷静を掻き乱す。肌を掻き毟りたくなる程の衝動が込み上げて、途端唐突に叩かれた戸の音で不意に集中していた意識が逸れた。
「江寧、起きているか」
扉越しに聞こえた声が玄英宮の主である事に気が付いた江寧は、感情を押さえ込むと内心慌てて幄の間へ飛び込み臥牀へと潜り込む。軽い衾褥で身体を包んだところで、扉の軋む音が一時の静寂の中に響き渡る。
別段起床を隠す必要は無かったが、彼女は押さえ込んだ感情を最後まで隠し遂せると言い切る自信を持つ事が出来なかった。
江寧、と再び少女を呼ぶ声がする。対し一切の返答をせずにいると、衾褥の上へ何かが添えられる。次いで軽く揺さ振られたことから、添えられたものが彼の手なのだと察した。それでも動く気配のない江寧に、延は短くも一つ溜息を吐く。吐き終えたところで、頭部までもを覆う衾褥を一気に剥がし上げる。
「江寧、」
「ん―――」
臥牀の中で身体を動かせば、寝起きらしく洩れる声。それで誤魔化す事が出来ただろうかと固く閉じていた瞼をゆっくりと押し上げて、江寧は目前に映る王の姿を凝視した。延は軽く笑って、少女から一旦距離を置く。
「起きていたのだろう?」
「……何故、ですか……?」
軽く目を見開いた江寧は離れゆく王の姿をまじまじと見やる。最初からばれていたのならば、先程までの隠れていた意味が無へと還ってしまった。そう微かな虚しさを感じつつ、一先ずは答えを待つ。延は開かれた窓の向こうへ視線を据えたまま、穏和な態度で口を開いた。
「意外にも、裸足のまま床を歩くと足音が響くからな」
「―――すみません」
「いや」
頭を横へ振る延に対し、さらに申し訳なさが江寧の胸内に募る。靠元に畳まれた大袖を手に取ると被杉の上から羽織り、ふと少女の口から言葉が洩れた。
「―――夢が、」
「ん?」
「夢が、忘れていた事を思い出させてくれました」
「ほう……それは」
良かったな。
そう告げかけたところで、延は閉口する。薄らと影が差す彼女の貌を眺め、少なくと思い出した結果が良い方向にならなかったのだと察した。
「……何を思い出した?」
「大したものではありません」
「大した事でないのなら、そこまで暗い顔をする必要もあるまい」
延の言葉に一時戸惑いを抱き、江寧は男を捉えていた視界から外す。そこまで酷い貌をしていただろうかと眉を顰めて、途端脱力した。大したことでないと言い切る自信はない。それは彼女自身がよく分かっている。故に隠したところで何れにせよ目前の王にばれる事は時間の問題であった。
「―――蓬莱での事ですよ」
◇ ◆ ◇
一度尚隆に臥室を出てもらい、江寧は着替えを済ませると尚隆と共に話の場を変えて起居へと赴いていた。卓上に置かれた茶杯を別の棚へ移動させると、江寧が茶の用意を始める。恭に居たころ、榮春より淹れ方を教わっていた。
湯気立つ茶杯を椅子に腰掛ける尚隆の前に差し出すと、一つ礼を告げて茶杯を受け取る。江寧もまた椅子へ腰を下ろして、二者の間に暫しの沈黙が走る。
やがて、ぽつりと告げた呟きを切欠に話を始めた。
「蓬莱に未練はありません。……ですが、過去は消す事が出来ません」
「ああ、そうだな」
頷いた尚隆は、一度手元へと視線を降ろす。茶杯を包む掌がじんわりとした熱さを感じ取っていた。再度視線を合わせたところで、彼女の言葉は続けられる。
「忘れかけた頃になると、今回のように夢に出て来るんです。流された当時は、蓬莱の過去を毎日のように夢見ていたのに」
「時が流れれば仕方のない事だ」
尚隆のさらりと返した言葉に、江寧は思わず苦笑を零す。仕方のない事と割り切れるのならば、当の昔にそうしている。だが、夢は記憶が色褪せた頃にやって来る。迫り来る波が鮮明であればある程に不安と恐怖が押し寄せてきた。まるで忘れさせぬようにと、釘を刺すかの如く。
「……実を言えば、私は過去を振り返るのが怖い」
「江寧、」
声を掛ける尚隆に向け、江寧はゆるりと頭を横へ振る。慰めの言葉も、実のところ彼女の不安を募らせる要素でしかない。
「振り返ると、昔の考えに戻ってしまいそうな時があって。意志が確立している時は良いのですが、そうでない時はどうしても……」
どうしても、心が揺らいでしまう。そう最後まで言い切れず、言葉を口に篭らせる。虚しさが胸中を通り過ぎて、思わず頭を深く垂らした。
「すみません、こんな事を言って」
俯くまま、江寧は目前の王を上目遣いで一瞥する。彼の視線の方角は玻璃の向こう、広がる雲海へと据えている。僅かに細められた眼は風景を映してはいなかった。片手に収められた茶杯が硬い音を立てて、自身の手前へと引かれる。
「……俺とて、忘れられない蓬莱の記憶がある」
「―――はい」
頷く江寧を視界の端に収めつつ、尚隆は気の遠くなるほど蓄積された記憶を逆流させる。脳裏に駆け抜ける過去の中に見つけ出したもう一人の自分の姿を思い起こして、ゆっくりと瞼を伏せた。
「それを忘れて生きようとすれば、恐らくここまで長い治世を敷く事は出来なかっただろう」
―――治世五百年。
十二国の中でも今現在奏に継ぐ大国の王として君臨している。だが、その五百年の間に様々な出来事が起きた。さらに遡る蓬莱での出来事……それらは、尚隆にとって決して忘れてはならないものだった。
茶杯の中身、その面に映る自身の顔を眺めて、尚隆は顔を上げる。
「人には、留めて置かねばならない記憶も存在する」
俯かせていた顔を僅かに上げて、江寧は聞き入れた言葉に目を瞬かせる。首を捻り彼の姿を眺めたところで、いつになく真摯の情を浮かべた様子を珍しく思う。
江寧は閉口のまま、次の言葉を待った。
「夢によって過去を思い出すのならば、それがお前の留めておくべき記憶ではないのか?」
「―――私の、」
留め置くべき記憶。意味の含まった言葉に、ふと脳裏に浮かぶ過去の夢を見る。根拠無く首肯する意志が内心の隅にある事にはたと気が付いた江寧は、ただ口を引き結ぶばかり。その様子を見つつも、椅子の背に凭れた尚隆は綴る言葉を止めようとはせず。
「夢は時折、己の無意識に感じる思いを見せる。無理に忘れようとしているのならば尚更にな」
耳へ聞き入れたものに、胸を突き刺さすものがある。図星を突かれたかのような衝動を覚えて、次第に心中にて挙がりゆく事実に思わず胸を押さえた。
……苦しいから、忘れようとする。
足掻く事もせず、痛む胸に嫌悪を感じ忘却せねばと頭から振り払う。そうすれば、それ以上苦しまずに済むのだから。
……だが、それは沈着ではなく逃亡。
思い出せば何時しか恐怖へと変貌を遂げて、自身を苦しめ続ける。過去を振り返る事が怖かったのではない。過去を思い出し、胸を痛める事を恐怖と感じていた。
「明日と向き合う事は重要な事だが、過去を真っ向から見詰め直す事も大切だと、俺は思う」
例えそれが、胸内に恐怖を抱こうとも。
顔を歪ませ俯き加減のまま、江寧はぽつりと洩らすように呟いた。
「真っ向から―――」
過去に背を向け続ける事無く、事実をしかと受け入れねばならない。胸中にて尚隆の言葉を復唱しながら思う。自身のその過去が在るからこそ、今現在の自分が此処に存在するのだ……と。
湯気の立ち消えた茶杯を見詰めて、次いで視線を上げると彼女の視界に映るのは雲海を眺める尚隆の姿。依然として真摯の面持ちに、江寧は僅かに目を細めた。
「変わるでしょうか……」
「お前の望み次第でな」
あくまで後押しはするつもりのない雁の王。対し口元が緩やかに弧を描いて、江寧もまた玻璃越しの雲海へ視線を走らせる。打ち寄せる小波の音が静寂となった起居に囁かれて空気が和らいだ気がした。
「―――そうですね」
江寧の言葉に、彼女へ向けた男の顔が微かに崩れる。互いに穏和な笑みを湛えて同時、少女は思い直す切欠となった尚隆の言葉に内心感謝を呟いた。