―――渠山（きょざん）、という山がある。

　深い渓谷、その中央を遮断するように穿たれた巨大な岩石は、まるで最中に圧し折れた凌雲山が突き立てられたかの如く。山肌には黒苔が生えるばかりの、豊潤な緑を蓄えた渓谷の景観を損ねるものだった。それを果たして山と呼べるものかは判らないが、少なくとも、以前より山の麓に居を構える者達にとってそれは山に違いなかった。
　渓谷の最中に存在する岩石は然したる高さなど無い割に、麓から仰臥をするとまるで凌雲山を見上げているような錯覚に陥る。それは駈け落ちるようにして窪んだ地形をその岩石が左右の畝を越え堂々と貫き聳えているからか、単に様相の酷似した凌雲山と重ね合わせてしまうからなのかは解らない。
　兎にも角にも、不可解な山である事に違いはなかった。

　麓に存在する里を山に向かって抜けた先、雑草の蔓延る閑地の外れにはぽつんと佇む一つの廟がある。
　手入れこそされているものの、廟自体は酷く古いものだった。嘗ては祀られていた者の姿が祠の奥に彫り込まれていたが、雨風に曝されること実に数百年―――今では最早、面影すら残されていない。

　……渠山には、嘗て豪い天仙がこの渓谷を守っていた、と。
　六歳を迎えたばかりの香姚（かよう）は、母親より聞いた遠い過去の物語が好きだった。今も語り継がれ続ける、渓谷に滞留する小説が。
　物語が事実である証は閑地の外れにひっそりと立つ、あの古びた廟ただ一つ。その廟へ毎日のように花を添え進香する事が香姚の日課となっていた。

　質素な朝餉を済ませて間も無く働きに民居を出て行く母親を見送った香姚は、戸締りを終えると院子に揺れる花を一つ摘んでから里を足早に駆けていく。
　擦れ違う者達は時折香姚の手中で揺れる梔子を一瞥し、その行き先を知る。気を付けろよ、と少女に声を掛ける者があれば、途の隅にてまたかと零し溜息を落とす者もいる。飽きもせずに毎朝里を突っ切る幼子の姿を何人もの大人が目撃し、必ず何人かの目が途を辿り山へと向かうのだった。

　小さく揺れる花を手に廟の元へ赴いた香姚はしかし、柔らかに吹き抜ける風に揺れる若草色の雑草の一を踏み締めて立ち止まる。彼女よりも早く、廟を覗き込むようにして佇む先客が居たのである。
　後ろに結わえられた、風に遊ばれる青竹色の長髪を見上げながら、先客の真横へと並び立った香姚が里の者に対するものとそう変わらない挨拶を投げ掛けて笑う。

「おはよう」
「ん？ああ、おはよう」

　香姚の幼い声に先客はふと下げていた面をやや斜めへと傾ける。傍らに咲く笑顔を見下ろした客もまた凛とした面持ちを崩して微かな笑みを浮かべると、人の良い微笑にほっと胸を撫で下ろした香姚がその場にゆっくりと膝を屈した。手中にある花を廟の内へそっと添え置けば、古びた廟に増えた明るい彩が雰囲気を和らげる。
　散らばる髪を両手で押さえながら立ち上がった香姚はふと客人の姿を今一度振り仰ぐと、手で押さえつけたままの頭を僅かに傾けた。

「あなたも、久傲さまに祈るの？」
「久傲？……まだ洞の名が伝えられていたのか」

　途端に驚きの面持ちへと変貌した客の双眸が軽く見開かれたが、少女にはそれが何の事であるのかを理解出来ずに傾けかけた頭をさらに捻る。洞、とは一体何を指すのか―――疑問を幼い胸に残しながらも、香姚はおそらく初めて訪れたであろう客へ廟の主の名を教える。

「ここは、久傲君がお守りくださっているの」
「……守る、か」
「ほんとうだよ。お母さんがよく話してくれるんだから」

　必死に伝えようとする幼子の様子を見守っていた者は自然と口元を緩めた。自身もまた過去に幼子の時代が存在していた事を思い出し、酷く薄れ褪せた記憶を呼び起こす。そして、同時に哀愁を伴いながらも香姚の視線に合わせるべく膝を折った。
　目を輝かせ始める丸い双眸を見詰めた青緑の眼はすっと細められ、少女の声に耳を傾け続ける。

「聞きたい？」
「ああ、聞かせてくれ」

　頷いた者はそうして、久方ぶりに訪れた廟の前で懐かしい物語を静かに聞き始めた。

　嘗て住まう久傲洞の主―――その天仙が今現在どのように語り継がれているのかを。





―――久傲君の出自は才国、当時の国氏が斎の時代だったとされる。

　まるで周囲から孤立したような渓谷の中に存在する里を守護するというかの天仙はしかし……実際、語り継がれてきた事の大半が虚実に近い。出身がこの渓谷だという情報すら偽りのものでしかないのだから。


　その天仙はかの有名な斎王――遵帝の時代に才国揖寧にて生を受け、里木よりもがれた。
　彼女の両親は長閑宮の春官にて楽士を務めており、彼女もまた幼少の頃より両親の影響を強く受けたことで楽士を目指し、苦労が報われたのは数え年にして二十一の頃。
　……楽士留まりであったなら、久傲君という存在は無かっただろう。

(…しかし私は今、それを望んでいる)

　ふぅ、と息を吐き出した者は先程から廟を前にして少女の話に耳を傾けていた。そして語られた内容が酷く偏っている事実に若干の目眩を覚えなくもない。

「どうしたの？」
「いや、何でもない。話を続けて」

　心配そうに見上げる香姚の気遣いを受け取った者の手が軽く差し出される。貼り付けた笑みには若干苦いものが混ざっていたが、言葉を子供らしく素直に受け取った香姚は面持ちに明るさをぱっと取り戻すと話の続きを述べ始めた。

「だからね、久傲さまは禹帝さまの代わりに里を守って下さるんだって」
「……そうか」

　軽い相槌と共に彼女を急襲する目眩。一体何処で如何なったのか不思議でならない者は少女から視線を外し、偏った語り継がれ方を再認する。
　……信仰心の高い者達が長い年月をかけて不条理な部分を弾き出したのだろう。人とはそういうものだと知っているにも関わらず、いざこうして突き付けられると微塵ではあるが打撃を受けるのだった。
　複雑な心情を抱えながら彼女が再度少女を見下ろした―――その直後。

「おや、瑚叡じゃないか」
「！利広―――」

　明朗な声が廟前の二者へ届いて、勢い良く振り返った女性――瑚叡はゆっくりと歩み来る若き青年の姿を認めるなり双眸を瞬かせた。
　三月ほど前に慶で会ったばかりの男とよもやこの地で再会するなどとは思いもしなかったのである。

「おはよう、お兄さん」
「ああ、おはようお嬢さん」
「じゃあ私、そろそろ戻るね！」
「ああ……」

　利広と挨拶を交わした香姚は瑚叡から遠ざかり、数度大きく手を振ってから帰路を駆けていく。廟の前に残された二者は小さな姿を暫くの間見送って、振り返した手をゆっくりと下ろした瑚叡は傍らより掛かった声に応じて僅かに頭を傾けてみせた。

「何を話し込んでいたんだい？」
「遠い昔から語り継がれてきた、だが偏った話だよ」
「―――“久傲君”の事か」

　やや遠回しな言葉から意を汲み取った利広はああ、と軽く頷きながら荒み古びた廟へと視線を落とす。角はとうの昔に砂塵が削り丸みを帯びた薄い石壇には、梔子の花が一輪添えられていた。
　緩やかな風に揺れる花弁を眺めながら、何かを決意したように顔を引き締めた瑚叡はゆっくりと口を開く。

「私は、今となっては貴重な信仰者であるあの子供から希望を掠め取る事になるのだろうか」
「！瑚叡―――まさか」
「廟を砕こうと思ってな」

　それは、久傲君である瑚叡自らが信仰を絶つ証。ひいては采王に請い仙籍から除名、その身に再び時を刻ませる事となるのである。
　予想外の告白に利広の顔が微かに歪む。彼が太子の号を賜った日から延々と続いてきた交友関係。それが今、終焉を迎えようとしているなど。
　だが……驚愕を覚える反面、やはり、と思う。生に飽いた仙は仙籍を返上或いは失踪するものである。彼女は遵帝時代からの仙―――利広にとっては今決断した事の方が遅く感じられた。

「そして、八百年というこの長々とした年月に終止符を打とうと思う」

　彼女と共に、“久傲君”も亡ぶ。構えていた洞はとうの昔……遵帝の故事から数日後に返上しているため、残るは廟の破壊のみ。弟子は既に他の居場所を見つけて彼女の元を去り、知人らは行方の知らない者もあれば昇仙し蓬山にて女仙を務める者もいる。彼女が配慮すべき者は、もう居ない。

「―――私は長く生き過ぎたのだ、利広」

　そう、笑った横顔はどこか哀しげな色を灯している。梔子の花弁と共に揺れた青竹色の長髪が、陽を浴びて普段よりも一層儚い彩に見えた気がした。