-薄明の殻 伍-
「藍、玄英宮へ来る気は無いか」
「何でそうなるんだよ」
荒野の上、唐突な言葉に思わず素っ気なく切り返した少年は自身よりかなり高い位置にある男の顔を振り仰ぐ。苦虫を潰したような顔で尚隆を見上げるその態度に、今しがた明かした男と少年の正体を気にしていないようだった。
しかし笑みを浮かべた尚隆は、それを然して気にする様子もないまま言葉を続けた。
「麒麟を間近に見せてやる。そうすれば、あの彫刻も繊細に彫れるだろう」
「なんだ、神獣を彫りたいのか?」
「ああ」
六太はきょとんとして自身の身長と大差ない少年を見やる。初めて目の当たりにしている金の鬣を凝視していた
藍は視線が合うなりさっと顔を背けた。すぐにむっとした表情を作ると、明後日の方角を見上げながらぽつりと呟きを洩らして。
「……餌撒きに必死だな」
言葉だけならば厳しいが、そこに含まれた感情を汲み取った尚隆は敢えて何の言葉も返さず頭上を見上げる。地に流れた血を嗅ぎ付けた妖魔がじきに来るだろう。その前に此処から離れなければならない。
「ひとまずは戻るか」
尚隆の提案に、六太と
藍は頷く。すぐさま騶虞に騎乗した男は少年を引き上げ、六太は己の指令を呼び出しその背にひらりと跨る。少年が指し示した方角へ向けて、二騎は低空を疾走していった。
◇
重い鉄板の下より現れた階段を目の当たりにした六太は驚き、その様子を尚隆と
藍は苦笑を零しつつ見守っていた。尚隆もまた当初六太と同様に驚いていた事を思い起こしていた
藍はそのまま二人へ下るよう促し、騶虞連れの二人が階段を下りた事を確認してから
藍自身もまた数段下り、鉄板をゆっくりと閉め切った。
湿気を帯びた空間を見渡した六太は呆然として佇む。それを余所に尚隆は藍の塒基工房へと足を踏み入れた。塒の方角を眺めつつ机上に荷を降ろした少年は、茶を淹れるべく一歩前進をした矢先に声を掛けられて立ち止まる。
「ずっと此処に住んでるのか」
「ああ」
驚きに満ちた問いの言葉にただ一つ頷いた
藍はああ、と思う。雲の上の王宮暮らしに慣れていれば、地の下の土竜暮らしが分からないのだろう。そう、何気なく思いつつ今度こそ茶を淹れに小棚へ向かう。準備を始める最中、彼の真後ろを通り過ぎた男はすぐに六太の元へと歩み寄り、手中にある物を灯りの傍に近付けた。
「六太」
「ん?」
「これはお前か?それとも塙麟か?」
「おい、おっさん。人の傑作を簡単に紹介すんな」
塒から許可もなく勝手に出してきた事を怪訝に思う
藍はあからさまに嫌な顔をした。当人かもしれない物を態々見せる事だけは避けたいと考えていたのだが、少年の考えとは真逆の行動をしてくれる男の様子に思わず顔を顰める。たとえ大国の王だろうがこの国では関係無い。そう割り切った思考を抱く
藍だからこそ、尚隆をおっさん呼ばわりするのであった。
「……これ、お前が?」
「ああ。傑作だ」
尤も、本物と比べる事も当人に面と向かっての傑作発言も畏れ多いものだったが、所詮はそんな腕だという旨も含めての言葉だった。
藍の言葉にふぅん、と相槌を打った六太はすぐに傍らの主を見上げる。紫紺の双眸に含められた意を汲み取ったらしき尚隆は目を細めつつ、半身を見下ろした。
「……分かっている。一応は言っておくが、
藍は半獣だ」
「半獣だって普通の人だってそんなに関係無いだろ、雁は」
確かに、と呟きを挟んだ尚隆はすぐに振り返る。茶を淹れ終えた少年は湯呑を二人の客人へと差し出していた。
「聞いたか?」
「……どういう事?」
其々が湯呑を受け取り、手を引っ込めた
藍は不思議そうに首を傾げた。二人の会話にしっかりと耳を傾けていた訳ではなかった為に、話の顛末を理解する事が出来ずにいた。
未だ首を捻る藍に対し、尚隆は口元に笑みを浮かべたまま問いに対する返答を口にする。
「お前を雁国へ招くと言っておるんだ」
「は?」
尚隆の言葉に、
藍は思わず素っ頓狂な声を挙げた。あまりにも唐突な展開に思考が停止する。唖然としたまま二人を視界に収め続けいた少年の様子に六太は近付きつつ顔を覗き込む。声を掛けた事によりはたと我に返った
藍は、二人の顔を交互に見比べた。
「この環境で彫り続けていればやがて目も悪くなるだろう。此処で才能が潰れ行くのは惜しいと思うのだが」
更なる言葉を紡いだ男の言葉に、やがて
藍の胸中では驚愕と焦燥が生まれた。まだ記憶が戻らない上に一生付き纏う隔たりが自分にはある―――そう思い、尚隆の発言に首肯する事は出来ないと慌てて頭を横に振ってみせる。
「で、でもな、俺は半獣で」
「雁に半獣と人の差別法などあったか?」
「あー……」
追加された言葉に、そこでようやく気付いた雁と巧の差異。巧国では差別法が存在する。少なくとも目に見えた差別が無いのだ、彼の大国は。
―――此処に居ればいつかは記憶が戻るだろう。そう思い続けて早数年。あれからただの一時も記憶が戻った事はない。此処に執着する唯一の思いはしかし、肩の力を抜いたところで投げ出してしまった。
「―――ああもう、分かったから」
いつか、光のある場所で仕事を得たいと、密かにそう思っていた少年にとっては実際願ってもない誘いである。巧の地を離れる事には些か抵抗があったが、停滞よりも前進を選んだ
藍は雁への移動を決して。
「それで?」
「ん?」
巧では半獣に戸籍が与えられない。故に他国へ移り住んだところで然したる問題はない。だが、と……男の手元へ視線を向けた
藍は、少しばかり口を尖らせながら指を差し向けた。
「此処を離れるにあたって、それは誰が貰ってくれるんだか」
少年の言い草に、尚隆は笑う。傑作と呼んでいただけに、此処へ残していくのは忍びないのだろう。
「良かろう―――その作品、俺が貰ってやる」
「交渉成立だな」
少年らしい笑みを湛えた
藍はふと、口角を引き上げた六太と目が合い手を叩きあう。となれば、帰路の旅は三人という事になるだろう。
塒を離れるにあたって準備を始めた少年は工房内の必要な道具や作品数点を荷嚢に詰め込んでいく。彫刻関係以外の物は特に思い入れもなく、此処に残していく旨を伝えた
藍は荷嚢の取手を肩に提げて出発の準備を整え終えた。あとは特に無いかと視線を泳がせていたところで、唐突に思いついたような尚隆の声が降りかかる。
「ああ、お前に名をやらねばな」
「名?」
「字だ。俺が直々に賜ってやる」
有り難く思え、と口角を上げる尚隆に、
藍は目をひとつ瞬かせた。六太は自身の字を思い出すなり訝しげな面持ちへと変貌させ、傍らに並ぶ少年へと視線を向ける。
「尚隆の命名は最悪だから、覚悟しておいた方がいいぜ」
「はぁ……」
「まぁ、そう言うな」
内心最悪な命名の一例を聞きたかった
藍はしかし、既に考え始めた男を前に聞き出しかけた口を閉ざす。これまでにはっきりとした自己紹介などした覚えの無かった少年にとっては、自信を持って告げる事の出来る字が貰えるのならば十分だと、そっと瞼を伏せて賜る時を待ち。
「よし―――決めたぞ
藍。お前の字は、」
“ ”だ、と。
告げられた字を胸中にしかと刻み込み、少年は屈託の無い笑顔を湛え快活な返事を口にした。
- 了 -