-薄明の殻 肆-
他愛ない世間話を続けていた藍と風漢は広途を歩く。人波に乗じて歩を進め、ふと
藍が指し示した一軒の民居へと足を踏み入れた。一目で判る、富ある家―――その主との会話を繰り返した後、少年は背に負っていた荷を広げてみせる。主は荷の中にある幾つかの作品を手に取ると銭の入った嚢を少年へと渡す。軽く笑みを作り礼を告げるなり早々家を出た
藍の後方から、唐突に呼び止める声がした。
「おい」
「ん?」
藍の返答こそ聞いたが、風漢は振り返りきるのを待たずに怪訝を含む言葉を吐き出した。
「お前、自分の作った物は世に出せる程ではないと言っていなかったか」
「あれは少し前から俺の彫刻に興味を持って買ってくれてる人。大っぴらに売る訳じゃないから良いんだよ。それに、格安だしさ」
それ以上の反論を試みようとした男はしかし、最中に口を襟んだ。少年があの塒で一人生活をしていくには、銭を何とか稼がなければならない。やむを得ず、といったところだろう―――荒廃しきった巧国で食い扶持がある事がまだ幸いか。
無事に買い物を終えた二人は門を潜る。所々に積み重ねられた瓦礫の付近へ歩み寄った
藍の背後では、風漢が外還途を一望していた。高々と舞う砂礫を眺めた後、男は視線を傍らへ下ろしやる。
「それで、このまま帰るのか?」
「いいや」
思いあぐねる少年の声はあったが、どこか言い惑うようだった。それからすぐに上着を脱ぎ捨て―――途端、沈んだ。
否、それは沈むように縮まり、本来の形を喪失していく。歪な人だったものは瞬く間に姿を変えて、ようやく形成されたのは獣……小柄な虎の姿だった。
「なるほど、半獣か」
「……軽蔑したか?」
「何故軽蔑する必要がある」
然程驚く様子もなく、寧ろ納得するかのように頷いた風漢を前に、
藍はひとつ目を瞬かせる。獣の姿へ変わる度に少年の耳を突いていた批判や侮蔑の声が、今はない。風漢とは此処で別れるつもりでいたために、誰とも異なる反応に次の言葉が喉元で突っ掛かっていた。
「宮へ入れないとは、そういう事か」
「……ああ、そういうこと」
おずおずと頷く少年は、すぐに溜息を落とす。嘗て話した事のある話題が唐突に去来して、さっと視線を逸らした
藍は毛並みに覆われた顔を歪める。話題から浮き彫りになる実情を改めて悔やむ少年は地に強く爪を立てた。
「差別法が撤廃されない限り、普通の生活が保障される事はない。……土竜の生活なんて、本当は嫌なんだけどな」
最後にぼそりと漏らしたのは本音。その言葉を間近で聞いていた風漢は、思案しつつ騶虞の手綱を引いて歩き始める。人の姿へ戻った少年は急ぎ袍を着直すと、男の後を追いかけていった。
◇
「嫌な天気になってきた」
「一雨来るか」
砂を一蹴りし空を仰臥する藍の言葉に、風漢が便乗する。雨が降るのならば、早く帰らなければ雨に降られてしまう。それだけは回避すべく、歩幅は大きく足早になる。厚い暗雲は風に流されるまま彼らの頭上へ迫りつつあった。
「なぁ、おっさん」
「風漢だ」
「……風漢は、何で巧に来たんだ」
呼び名を訂正する男の言葉に渋々と付き合う
藍はおずおずと問いかけつつ不思議そうに傍らを見上げる。今更ながら、彼にとってそれが今一番の疑問と言える。少年の視線を受けた男は若干目を細め、返答に言い惑う。
「それは―――」
思いあぐねる風漢はふと曇天の空を仰臥し、言葉を区切った。点々と空に染みを作るそれはやがて、標的を定めて降下する。鮮明となるその姿に驚き身を数歩後退させた少年が思わず声を張り上げた。
「蠱雕の群れか……!」
「乗れ!」
勢い良く振り返った藍は、騶虞の上より伸ばされた手をしっかりと掴む。そのままぐいと引き上げられ、後方へと乗せられた。打たれた手綱に従い低空で滑走を始めた騎獣の上、風漢の背を掴んでいた藍が焦燥の声を上げる。少年を何とか宥め、風漢は周辺の景色を一望するも、身を隠せるほどの障害物は何一つとしてない。強いて言うならば、遠景の中で小さくなってしまった街。身の安全を考えるのならば、進行方向を逆へ向けるべきなのだが。
「しつこい……!」
「どうする風漢!」
黒の群衆はなおも滑走し獲物を執拗に追い続ける。……少なくとも、あれらを引き連れて街へ戻る事など出来なかった。仕方ない、と小さく呟いた男の声は頭上の奇声と重なって、少年の耳に届かない。そのまま続けられた言葉に、何処からか応、との声が寄せられた。それは流石に聞き取ったらしき
藍はしかし、騶虞の背後より飛び出した影を視界の端に捉えて硬直する。爆ぜたように舞い上がった影は上空へと舞い上がり、蠱雕の首へと食らい付く。それは手早く喉元を掻き切り、或いは噛み千切り、次々と巨躯を地へ落としていった。
「な―――」
「……悧角、もう良い」
少年の驚愕に反し、男は仰臥したまま淡々として声を投げる。尚隆の命令に合わせて地へ戻り来る影は、僅かな獣の臭気を残し音もなく騶虞の影へと溶解していった。その始終に見入っていた
藍は呆気に取られたようにぽかんと開口したまま停止し、すぐに降りかかり来た第三者の声に慌てて自我を引き戻した。
「無事か尚隆!」
「六太、お前も来たのか」
藍よりも幾つか年上の少年は声を荒げるようにして安否を叫び、趨虞を立ち留まらせた風漢は然程驚く事もなくその名を口にする。妖魔――騎獣として見たことがないので、少年はそう判断したのだが――の背から飛び降り、着地に合わせて靡く髪は曇天の下にも関わらず目映いほどの光に満ちていた。
「金の、髪……」
降り立った金の髪の少年と風漢が何の気を遣う事もなく言葉を交わす様に、
藍は愕然とした。この世に彼の髪色を持つ者は十二と限られている。王の補佐役であり、国主を選定する事ができる、唯一の存在。その一人が今現在目前に佇んでいるのだから、少年の驚愕は想像に難くない。
「お前まさか……王、なのか……?」
恐る恐ると投げかけた疑問を紡ぐ声はやや掠れている。ああ、と一つ頷きを返した風漢はしかし、麒麟を視界の端に捉えながらもはっきりとした口調で正体を告白する。
「雁州国、延。名を小松尚隆という」
男の言葉に、
藍は頭を金鎚で殴られたような感覚―――その衝撃を覚えて、暫し唖然としていた。