少年は変わらず男に背を向け、手を休める気配はなく。
-薄明の殻 参-
木材を削る音が聞こえる。
闇に慣れた風漢の眼は小さな背を見守り続け、時折行燈に照らされる彫りかけの物を目にしては再び背の内へ戻されるまま少年の背中へ視線を戻す。それを幾らか繰り返し、痺れを切らしたらしき風漢が声を掛けた。
「
藍」
少年の名を呼ぶも、返答はない。恐らくは彫り進める事に夢中なのだろう。その集中力は関心に値した。
風漢が再度声を掛けたところで、途端に音が途切れた。俯かせていた顔を挙げ、首を捻りつつ背後を振り返る。灯りの下に居た為か、今は客人の顔を捉える事が出来ないでいる。仕方なく真面目に向き合い何かと問うたところで、真剣な面持ちを向ける風漢が口を開いた。
「此処から、離れる気は無いのか」
「無い。俺は死ぬまで此処で暮らす」
「何故そう固着する?」
巧の民の多くは雁や奏へと流れている。にも関わらず此処に執着の念を抱くのは、ただ単に故郷を思うが故とは思えなかった。
僅かに苦い顔をした少年はしかし、下手な苦笑へと変え大袈裟に肩を竦めてみせる。
「此処に居たら、記憶が戻るかもしれないだろ?」
「戻らぬやもしれんがな」
「……まあ、可能性は半分半分だな」
藍はどちらの可能性も否定をしない。その姿に眉を顰めた風漢は、ふとした疑問に辿り着いた。何気ない、しかし人にとっては生きるために重要な事柄。
「お前、食事はどうしている?」
「ん?」
「妖魔の跋扈する地にむざむざ出ていけはしまい」
―――そうだろう?
男が言葉を投げかけたのは、意を含む視線。思わぬ質疑に出しかけた言葉を飲み込んで、少年は硬直する。一見は言葉の選択に思いあぐねているかのように見えるが、次第に刻まれゆく眉間の皺を目にすればそうではないのだと気付く。
では、一体何が少年を沈黙に落とし込ませているのだろうか。
「―――」
「
藍?」
風漢の呼びかけに、藍は応じない。どうしたものかと軽く溜息を吐き出しかけたその刹那、不意に頑なな声が聞こえた。
「言わない」
「言えぬ事でもあるのか」
「言わない」
二度目は強調して拒否の言を吐き出す。くるりと背を向け、少年はそそくさと作業へ戻るべく彫りかけの木材を手にして、刹那迫り来る足音を耳にして思わず怪訝さを露呈した。
「おい、」
「しつこいぞおっさん。早く出て行けよ」
背後間近にある気配を感じつつも、
藍は振り返る事無く木材を一彫りした。余計な追究など堪ったものではない。そう思いつつ刃を凹凸ある木へと宛がい、背後からの低声を軽く流してみせる。
「俺に蠱雕の餌になれというのか」
「ああ、はいはい―――」
少年の暴言と態度に些かの不快感を覚えた風漢が不満を洩らす。少年はげんなりとして仕方なく適当に相槌を打てば、さらに上乗せされる不満が突き当たる。厄介な相手を招き入れてしまったと、この時彼は改め思った。同時、いっそ蠱雕に喰われてしまった方が良かったのかもしれない、と。
「だったら明日の昼まで寝てろ。こっちにだって用があるんだからさ」
「―――ああ」
男の首肯は渋々と。それ以上の言葉は発されず、会話が途絶える。ようやく失せた追究に小さな溜息を洩らした藍は、静寂の中再び黙々と手を進め始めた。
◇
結局、夜を地下で迎えた風漢は一泊を余儀なくされた。
榻に腰を掛け、壁に凭れると虚ろ虚ろと船を漕ぐ。睡魔に手招かれ瞼を落とし、はたと気が付けば榻の背に凭れていた身は伏臥していた。身の上には薄い衾が掛けられ、それを片手で引き剥がし身を起こす。少年の気遣いに若干驚きながらも周囲を見渡し、ふと聞こえる筈の音が失せている事に気付いた。……少年の姿は、何処にもない。
「……
藍?」
名を呼びつつ榻から下りるも、返答どころか物音一つすらも無い部屋の中。藍の塒を覗き見やるも、姿は見当たらず。仕方なく身を引き返し榻に腰を下ろした刹那―――あるべき筈の物が消失している事に不審を募らせ、急速に浮上する思案に血相を変えた。
「しまった」
考えに辿り着くや否や、即座に勢い良く立ち上がった風漢は伏せていた騶虞の手綱を取る。出立を促せば、それを察した騶虞が立ち上がる。そのまま階を駆け上がり、地上へと続く重い板を押し開き外へ出た。
幸い妖魔の姿は見当たらず、そそくさと鞍へ跨った風漢は手綱をしたたかに振るう。此処から程近い人集う場を思い起こし、騶虞はその方角へと疾走を始めた。
◇
少年は扁額を見上げながら、物陰で身形を整えていた。
裾を払い、袖の皺を伸ばし、そうしていざ門を潜ろうとしたところで、不意に別名を呼ばれて振り返る。聞き覚えのある声の主はすぐに判明し、しかし思わず首を傾げた。……何故追ってきたのだろうか。奴は寝ていた筈ではなかったか。
「
藍!!」
「―――は?」
それ以上の思考は、途端騶虞から下りた男の形相を目にするなり遮断された。どう見ても、不審と怒りを露にしている。それを向けられる所以が分からず、視線は自然と周囲を一巡りする。それから歩幅を広げ近付きつつある者へと戻し、何かと問おうと口を開きかけたその刹那。
反転する視界に、突如痺れにも似た痛みが左腕を走る。
「ちょ、痛い痛い痛い痛い!!」
「俺の剣を売るとは、一体何のつもりだ」
「てめ、視力も悪くなったかこの馬鹿!阿呆!間抜―――!」
「ほう」
ぐぎり。
捻り上げられた少年の腕が軋みを上げる。嫌な音を立て続ける骨に限界を感じた
藍は、涙目のまま開放を眼で訴える。指先の血の気は、既に失せていた。
右手は痛みによる悲鳴の代わりに地を何度も叩く。頭上より注がれるは歪む双眸、その不審気な視線。
「剣を何処にやった」
思わぬ問いを耳にした少年の顔は、瞬く間に変貌を遂げた。みるみる内に明確な怒りを露にすると、たった二字を大声で叫ぶ。
「棚!!」
「……なに?」
「棚の下に置いたって言っておいたろうが阿呆!!」
少年の暴言はしかし、男を我に返らせる事に十分な言葉であった。
掴んでいた腕をすぐさま離し、押さえていた少年の身を解放する。……よくよく目にすれば、彼は剣を覆い隠せる程度の嚢を所持してはいなかった。さらに、睡魔に誘われるまま瞼を落とすその直前に告げられた言葉を思い出し、珍しくも早とちりだと盛大な溜息を吐き出した。どこか気拙い空気を感じ視線を逸らしながらも、謝罪を入れる。
「―――いや、すまん」
「勘違いしやがって……」
風漢から解放された
藍は痺れた腕をゆっくりと解しにかかる。口から漏れるのは文句ばかり。それに反論する事無く聞き受ける男は軽い侘びの言を挟み、怒りがようやく収まったらしき
藍は一つ深呼吸の後、ちらりと男を見上げた。
「で?」
「ん?」
「俺は買い物行くけど、風漢は?」
問いと同時視線を門へ向けた
藍に、風漢もまた模して遠景を眺める。おそらくは客が眠る間に急ぎ済ませようと思い来たのだろう。妙な気遣いをさせてしまった事に少しばかりの後ろめたさを感じて、少年へ視線を戻し軽く首肯をしてみせた。
「……付き合ってやるか」
「偉そうな口振りだなおっさん」
振り仰いだ少年の顔は呆れにも似た情を含ませて。
すぐに諦めたように肩を竦めた藍はそのまま、門を目指し歩き出す。風漢もまた少年の背を追い、騶虞の手綱を片手に歩を進めた。