暗がりの中、奥の塒へ引き下がった少年はそれから暫くの間出ては来なかった。
-薄明の殻 弐-
一向に待つばかりの風漢もとい尚隆はしかし、やがて痺れを切らしたように腰掛けから立ち上がる。一時の避難とは言えども避難客がありながら放置というのは、中々に寂しいものがある。仕方なく自ら赴こうと風漢は東側の照壁を探り、刹那突出した取手を掴む。それを掴み引けば、すんなりと戸は開かれる。少年が塒と呼んだ房間はしかし、男の想像よりも随分と離れていた。
「
藍?」
「ちょっ、いきなり顔出すなよ!長右かと思った……!」
「いや、そこまで猿顔には見えんだろう」
仄暗い房間に立ち入った風漢は中を一通り見渡す。少年なりの気遣いだろう、火を入れた燈篭は仄かな明かりを灯して房間の中を照らし出す。壁に沿われて立て並べられた棚は、大小差はあれども木彫りの像がずらりと置かれている。木屑ばかりの足元では木目に沿い割れる音が小さく響き、足音の代わりとなる。
風漢は少年の背後へと回り、手元を覗き見る。器用に彫られているのは―――蠱雕。特徴が上手く捉えられている。
「随分と細かな細工をするものだな」
「それは粗い方だ」
息で残る木屑を吹き払い、行燈に向けて翳し見る。風漢からすれば十分に精巧な物であるのだが、口元を引き結んだ
藍はどうやら気に入らないらしかった。
風漢は
藍の手元より視線を外す。続く棚に視線を流し続け、ふと目に留められた木彫りの像を棚上から取り上げる。よくよく見ようと燈篭に翳したところで、風漢は思わず息を呑んだ。見覚えある尊い姿に驚き、思わず視線を少年へと落とす。ふと顔を上げた
藍は男の手元を見やり、ああ、と頷いた。
「これは……」
「俺の傑作、麒麟だ」
鬣の一つ一つが微細。丁寧に鑢をかけられた体躯は仄かな明かりを受けて艶やかな光沢を放つ。拳二つ分程の大きさがあるそれは、今にも動き出しそうなほど。紛う事なき神獣の像に目を一つ瞬かせると、少年は一旦手を休めて男へと身体ごと向ける。
「一度だけその姿を見た事があったから彫り進めてみたんだけど、なかなか上手くいったな」
「―――」
「ん?どうした?」
返答のない男に、
藍は頭を傾げ見上げる。硬直したまま麒麟の像を凝視し続ける風漢に、少年は一抹の不安を覚えた。その不安を余所に、風漢はまじまじと手元を眺める。……一見のみでここまで彫る事の出来る者が居ようとは。これもまた秀でた才能という事だろうか―――思いつつも視線を再び下げ、眉を顰めて見上げてくる少年に向かい像を持つ片手を軽く挙げた。
「これを、貰ってもいいか?」
「は?」
刹那、少年の口から洩れたのはたった一文字の素っ頓狂な声音。目を見開き男の片手と顔を交互に凝視した
藍はしかし、すぐにひょいと像を取り上げた。大事そうに手中へ収め、次いで軽く驚きを見せる風漢の姿を睨め据える。腹の底より湧き上がる思いを顔に露呈させ、思わず言葉に棘を持たせ放つ。
「傑作をそう易々と手放せる訳ねえだろ。考え無しなおっさんだなぁ」
「うるさい。金を出せば良いんだろう」
「……おっさん、阿呆」
「なんだと?」
金持ちの発言だと、
藍は半ば呆れつつ気怠そうに告げる。発言を聞き入れた風漢もまた自然と眉を顰めて問い返せば、大事そうに抱えていた麒麟の像を適当に手払った机上へ乗せた。それから無傷である事を確認してほっと胸を撫で下ろす。ぞんざいに扱われては堪ったものではない。
「売る気はさらさらねぇよ。世に出せるほどのものじゃないし、そんな腕でもない」
「
藍、」
「言うな」
再び詰めようとした男の言葉はしかし、少年の一声によってぴしゃりと遮断された。
「―――それ以上言うなら、蠱雕の群れの中に放り込んでやる」
会話の終息を告げる少年の手元には、既に彫りかけの蠱雕の像がある。来客があるとて、構わず再び進めるのだろう―――。
風漢は近場に置かれた椅子へ腰掛け、行燈の仄かな明かりによって翳る小さな背中をじっと眺める。削る音のみが房間に響き、時折それが止んでは行燈に翳される塊。一連の動作を眺め続け、風漢は心底からの思いを何気なくぼやいてみせた。
「冬官に入れば、その良い腕を発揮出来るものを」
「冬官って……王宮の、あれか。冬器造ってる」
「ああ」
半身を向けた藍は、平然として頷く風漢を見やる。……少年にとっては、それが酷く悲しい。
「無理だな」
すぐに返されるは、否。即答に不快と疑問を抱き目を細めた風漢は椅子から腰を浮かせ、すぐに立ち上がる事を止めた。……この少年を玄英宮へ招き入れたいという思いがないと言えば、確実に嘘となる。かといって無理矢理入れる訳にもいかず、結局のところ説得という姿勢を取らなければならない。他国の民から引き抜くのは容易な事ではないのだ。
「何故そうすぐに諦める」
「無理な理由があるんだよ。それも、決定的な」
瞼をそっと伏せた少年は、そう言って溜息を落とした。
「―――入れるもんなら、入りたいけどな。こんな厄介持ちな餓鬼を受け入れてくれる王宮なんざ無いね」
吐き捨てた言葉に、苛立ちにも似た情が滲む。それ以上の言葉を返す事の無かった風漢はしかし、先刻告げた少年の言を胸中で復唱し、まさかと思う。
―――この少年は。