短編
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芳国国都蒲蘇山鷹隼宮。
晩秋を過ぎ、無事に冬期を迎えた国主は宰輔と共に禁門へと足を運んでいた。
凍て付く寒さに旗袍を掻き合わせ、吹き込む風に髪が靡く。ほう、と洩らした白い息は口から糸を引くように流され、赤毛の少年は傍らに佇む白藤の少女の袖をくいと引っ張る。
「五回目の冬が来たね」
「―――うん」
山腹から見下ろした山麓の街は、銀世界に包まれていた。
- 逡巡の冬 -
峯女王の登極から早五年。
季節は巡り、迎えた冬に少しばかり落ち着きを失い始めていた峯麒は主と共に禁門からの景色を暫し眺め、王の事情もあり禁門の内へ戻り来た。悴んだ手を擦りながら内殿の最奥へと進み、積翠台へ踏み込んだ先―――二者が目にしたのは机上に積み重なる多数の書簡。旗袍を片手に溜息を吐き出す者と苦笑を零す者。お疲れ様です、と小さく呟きかけた峯麒を一瞥して椅子へ腰掛けた江寧は、書簡の一つを紐解きそっと机上へ置いた。
この時期には豪雪の所為か必ず各州からの不備が寄せられる。各所への補いを指示し、凍死者を出さぬようなるべくの配慮をしているつもりであったが、三年ほどはそう上手くはいかなかった。焦燥に駆られるも、五年が経過した今では随分と雪の量も減少している。配慮の効果もあり、民は王の慈悲に感謝の意を感じていた。下界では良い印象の女王はしかし―――彼女自身は未だ未熟と感じて迷う。
王は苦労が絶えないものだと以前に延王から聞き及んでいただけあって、吟味する事柄は多かった。
「主上」
眉間に僅かな皺を寄せ書簡に目を通していた江寧に、峯麒が声を掛ける。―――彼は今年で十歳を迎えた。成長は止まらず、背は主の胸部ほどまでに伸びた。猩々緋の鬣もすっかり長くなり、穏やかな声音が落ち着きを装う。湛えられた微笑はまっすぐに主へと向けられ、ふと顔を上げた江寧はゆっくりと首を傾げてみせた。
「今年も下る許可を」
「分かった―――ああ、ちょっと待って」
頷きかけた頭は最中に止められる。印の押捺を手早く終えてから立ち上がった江寧は、峯麒の傍らへ並び立った。近年で成熟しなければ、背を追い越されるのは遠い日ではない―――並ぶことでつくづくとそう思う少女は少年の姿をぼんやりと眺める。彼女の異変に気付いた峯麒はふと隣へ視線を展示、物言いた気なその双眸を目の当たりにして首を捻った。留められていた視線はしかし、すぐに逸らされたのだが。
「直接雪景色を見られないのは残念ね」
「時期が時期ですから、仕方ないです」
ぼやきに返された言葉を受けて、江寧はそっと溜息を落とした。下界へ降りる事に異論が無かったのは一年に三回―――最後に市井へと降りたのは、果たしていつだったか。
歩き出した二人は積翠台を退出すると再度禁門へ向け移動を始める。長々と続く走廊を歩き、待ち受けていた女御より予め頼んでいた市井用の袍衫を受け取った。着替えの為に来た道を戻ろうと踵を返したところで、擦れ違いゆく主を目で追っていた峯麒がぼそりと本音を吐露する。
「……本当は、主上もご一緒にと、誘いたかったのだけど」
僅かな間に洩らした本音。若干落ち込むような少年の様子に目を見開かせた江寧は、すぐに顔を綻ばせた。ここ二年ほど政に集中していた王は台輔と私情での会話を交わしておらず、二者の間には僅かながら距離が作られていた。別段気にする事の無かった江寧はしかし、彼の言葉によってようやく気が付いた。何か一つの物事に集中すると周囲が見えなくなることは理解していたが、それが距離となるなど思いもせず。
「いつか、落ち着いたらね」
「―――はい」
柔らかな言葉をかけた江寧に、峯麒はふわりと笑う。……本当にいつか二人で雪景色を、冬季に過ごす民の姿を見てもらえる日が来ることを信じて。
「主上、」
「ああ」
ふと振り返った少女は、背後に立つ男を視界に留める。赤朽葉色の髪と端整な顔立ちが穏和な印象を与えるが、一見とは真逆の一面を垣間見せた事もあった。
―――途端、江寧の表情が微かに曇る。真剣さを伴った顔が上下に振られて、すぐに半歩を手前へ引き戻した。峯麒と視線を合わせ、主が禁門まで見送る事が叶わなくなった事を察したらしき少年もまた相槌を打つようにこくりと頷く。その様子に申し訳なく思うも、彼女は柔らかな笑みを浮かべた。
「いってらっしゃい、峯麒」
「行ってきます」
交わした言葉に負の色はなく、さっと踵を返した峯麒が別の路へ進み行く。次第に小さくなる背を、江寧は暫し見送っていた。
◇ ◆ ◇
「―――それで、毎年恒例の視察へ出かけた、と」
「ええ」
積翠台にて書卓上の書類を眺めつつ御璽を片手に持っていた江寧はふと顔を上げ、対面する禁軍将軍を見上げる。先刻王師の三将軍へ召集を掛け、一番にやって来たのがこの男だった。
微かな不安を抱いているであろう女王を見下ろして、男は端整な顔を歪め薄く笑みを浮かべる。
「今年はどの地も雪が少ないと聞き及んでおりますので、心配せずとも大丈夫ですよ。何より台輔には指令が居りますから」
「そうだと良いのだけど」
男――綻凌の言葉に頷くことのない江寧は未だに安心を得ることが出来ずさも疑るような返答を呟く。視線は外れるまま、玻璃越しの空をぼんやりと眺めていた。……そうして綻凌は気付いた。卓上に置かれた書簡への押捺が、未だ数枚しか終えていない事に。
一向に作業の進まない王を前に思わず溜息を吐き出した男は、一度居住まいを正すとはっきりとした口調で事を告げた。
「五年、主上を見守っておりました」
「?」
唐突な告白の始まりに首を傾げた江寧は何事かと問いを投げ掛け、しかし男の真剣な眼差しと改まった態度に閉口する。彼が助言の延長を告げる際には必ず身を正すのだと、この五年の間に理解した王は御璽を卓上へそっと置き男を見上げた。
「無礼を承知で申し上げましょう。―――主上は峯麒に対し過保護です。一国の台輔、州候として見ている部分はありますが、幼少の頃からの知り合いだからといって基本的に甘やかしているようにしか見受けられないのですが」
「―――」
ずばりと指摘を受けた江寧は返す言葉もなく呆然とし、すぐに破顔すると苦笑を雫した。
峯麒は今年で十歳になる。宰輔として、州候としての任に就いてからは早五年。随分と務めに慣れた少年の姿は、見守る者にとって嬉しく思う。だが、時折垣間見る嘗ての面影をつい気に掛けてしまう。故に手を貸し、結果それが他者から甘やかしているように見受けられたのだが。
二者の間には沈黙が走った。暫しの静寂に耐え兼ねたらしき男は一つ咳払いをすると、弁解にも似た言葉を述べる。
「……まあ、台輔が時折危険で顧みない行動がある事は認めますが」
「―――将軍もそう思っていたのか」
「勿論」
当然の如くしっかりとした首肯を見せる綻凌に、江寧もまた頷き苦笑を雫す。峯麒が危険を顧みない事で指令が苦労している事は薄々感じ取っていた。
「五年経っても、一国の統治が大変だという事を改めて思うよ」
言って、江寧は椅子の背凭れへ背をゆっくりと預ける。
気苦労を抱えたように告げる少女に対し、男はただ頷くばかりであった。
峯麒の帰還は予定していた日時から大凡一日遅れとなった。禁門を潜ると旗袍を女官へ手渡し、走廊を足早に進む。向かうは内殿――王の居る、積翠台へと。
繊細な彫細工の施された重厚な扉を押し開くと、あるのは膨大数の書簡が収納された高棚。角を曲がった先、最奥に置かれた書卓の前で筆を執る者の姿を視界に入れるや否や顔を綻ばせた。
「ただ今帰還致しました」
「ああ、視察ご苦労様」
あくまで素っ気ない素振りを見せる江寧は帰還したばかりの峯麒を一瞥の後、書きかけの書簡へと視線を下ろす。書き連ねる為の言語に悩み、景王宛の書簡を先刻書き始めたばかりであった。
主の様子を見守りつつ、峯麒は懐より小さく折り畳まれた紙を取り出し口を開く。
「今年は非常に雪が少なく、市井への影響は然程ありませんでした。問題はありましたが、民の生活に然したる支障は無いようです」
「それは良かった」
ほっと安堵の息を吐き肩を撫で下ろした江寧は、続けて綴られる報告に耳を傾ける。昨年とは異なり、民より挙げられた問題点が幾らか減少した事に若干の喜びを感じる。……復興のため取り組んだものは、決して無駄などではなかった。そうして、視察のため己の半身を向かわせた事も。
「峯麒、」
「何ですか?」
柔らかな峯麒の返答に、江寧は面を上げる。顔には微笑を浮かべるまま、交わすべき約束の言葉がするりと漏れ出た。
「来年は必ず、二人で行こう」
主の申し出た約束―――それは、彼にとって予想外の言葉だったのだろう。驚きに見開かれた深緋の双眸が暫しの後に一つ瞬かれ、次いで破顔した。……湛えられたのは、万遍の笑み。
「―――はい」
快い了承と共に首肯を返した峯麒。その姿に一安心した江寧はふと背後の窓辺を見やる。
玻璃越しの空は暖かな陽に蒼弩の色を薄め、晴れやかな彩りを描く。一年後もまた下界が雲海上と同様の空模様となる事を祈りつつ、そっと瞼を落とした。