「慶の女王には、すまない事をした」
「うん?」
「…いや、何も」
思わず零した呟きを男は自ら軽く流し黙する。何事も無かったかのように足を進める男の後姿を、利広は目を細めつつ眺めていた。
- 漆章 -
「慶はこれから豊かになろう」
「そうだね。……このまま長く続けば、国も安泰だ」
行き交う人の明るい顔を見やり、
勠秦は顔を綻ばせる。新王が登極したとなれば民は復興への期待を抱き、顔色は明るい。堯天へ訪れた旅人は慶国の新王が起った事を知り来た者が半数を占めており、時折耳に入る話題は重複している。慶にとって喜ばしい年はしかし、登極前の実情を知る者にとっては素直に喜べずにいた。
嬉々とした情に勝るのは、景王に対し巧の先王が働いた無礼への謝罪の意。胸中に靄が掛かり始めた男はしかし、ふと思う話題を敢えて口にした。
「しかし何度も国巡りとは―――利広は暇を持て余しているのだな」
吉量の手綱を引く
勠秦は、前方を歩く青年の背へ声を掛ける。趨虞を引き連れて歩く利広は後方をちらりと一瞥してから微かに笑みを漏らして、一軒の舎館を指差す。堯天山寄りに建つそれを
勠秦は見上げながらも一つ頭を振り、それで今日の宿は決まった。
舎館の亭主と手早く話を済ませると、厩舎へ騎獣を預けるために舎館の裏へと回り込んだ。奥に位置する空の騎房の前で立ち止まり柵棒へ手を掛けた利広は、突如先程の話題を取り上げる。
「国巡りをしているからといって、暇ではないよ」
「ほう?」
「十二の国全てに知人が存在するとしよう。その知人達は国情から噂話まで、あらゆる情報を提供してくれる。収集の為に巡っているのなら決して暇ではないだろう?」
「喩え、というよりも事情そのものを話しているような気がしたが」
笑みを絶やさぬ利広の説明に、奇妙な事情だと思わず苦笑を零す。たとえ収集をしたとして、それらの情報にはどういった使い道があるのだろうか、と。そう
勠秦が疑問に思う最中、利広は実に愉快気な表情を伴って言葉を付け加えた。
「人を暇人と呼ぶのなら、この旅に付き合う
勠秦もまた暇人だろう?」
利広の言葉に、思わぬ点を突かれ目を一つ瞬かせた
勠秦はしかし、すぐに破顔した。苦笑は笑みに変わり、自身に半ば呆れたように肩を大きく上下させる。
「ああ、違いない」
目的もなく同行する事への無意味さを薄々と感じていた男にとって、利広の発言は胸に突き刺さるものだった。……だが、否定をしたとしても事実は変わらない。それを理解している上で同行を続けているのだから自身は余程の暇人なのだと、心の片隅で肯定していた。
「辛くは無いのかい」
窓の向こうに広がる景色をぼんやりと眺め続けていた男へ青年がそう投げかけたのは、日没間近の事だった。
景色に釘付けていた視線が逸らされる。声の元を振り返った
勠秦は、無意識に首元を叩いていた手を止めて利広を見やり、微かに眉を顰める。何の前触れも無い発言が一体何を指しているのか理解し兼ねているため、顔には疑問が湛えられていた。
「何の事だ」
「先程から表情が歪んでいる」
その言葉に今度こそ怪訝さを露呈させる男は開放していた窓を一瞥した後に咳払いをした。すぐに無表情へと戻り、改め利広を直視する。
「すまない、見苦しかったか」
「いいや」
勠秦の問いに、利広は頭を軽く左右に振ってみせる。……見苦しく思っていた訳では無かったが、長時間顰められた横顔から滲み出ている苦悩に微かな関心を抱き、次いで感心した。数時間をあの顰め面のまま過ごして疲れはしないのだろうかと思いつつ、結果見兼ねて声を掛けたのだが。……男が苦渋する理由は、青年の中で大方予想が着いている。
「隣国と引き比べながら眺めていては苦痛が増すものだから」
普段の口調のままはっきりと告げた利広はすぐさま笑みを消失させる。同時、微笑を浮かべかけた
勠秦の表情が硬直した。心底に沈下させようとしていた本心を突如射抜かれ、驚くこと暫し。そっと溜息を落とした
勠秦は、無言のまま開け放っていた窓を閉ざした。
◇ ◆ ◇
「内心を曝すつもりは無い」
窓辺に佇むまま淡々と告げる
勠秦の表情は硬い。差し込む斜陽が黒紅色の髪を滲ませ、面には翳を作る。見るからに頑なな姿勢を貫こうとする男に対し、利広は敢えて声調を微かに上げた。
「言ったところで、余所に洩れる事は無いだろう?」
「いや」
それでもなお頭を左右に振る男は墻壁へ凭れる。腕を組み、僅かに頭を傾けたまま席に着いている青年を見やった。纏う雰囲気は冷徹に近く、双眸に篭る真摯さはさも対面する者を威圧するかのように。その眼が鋭利であれば間違いなく睨め付けているように見えただろう。
「己の恥を曝すような言動は断固として拒否する」
「自尊心だね」
「ああ――それに近い」
ふと、微かに口角を引き上げた
勠秦に利広もまた笑う。長髪を括る紐を一度解き、結び直したところで未だ中身の減っていない茶杯を手に取り、口を付けた。すっかり温くなってしまったと一口を飲み下した後に内心苦笑を零しつつ、茶杯を置いたと同時―――青年は、貌を変えた。
「
稻 勠秦」
利広が呟いた名に、男は器用にも片眉を上げる。……己の名を挙げられて反応せずにいる者が果たして居ようか。
なに、と問いに変わろうとした言葉を出し掛け、しかしそれは刹那に遮断された。
「巧国にその人ありと謳われる、禁軍将軍の名だ」
「……」
問いを説明に重ねられ、
勠秦は閉口する。……彼には、青年の意図を解す事が出来ないでいる。何が言いたいのかと胸中で呟き、猜疑の眼を細めて青年を直視し続けた。男の訝しげな様子に対し利広は敢えて何も言わず、一間を空けた後に変わらぬ口調のまま話を再開させる。
「いつか会ってみたいとは思っていたが……国があれではね」
利広の言葉の回し方に僅かな疑問を抱くも、話の腰を折らぬようにと口は閉ざしたまま。視線を投げ遣りぼんやりと棚を眺めている利広はさらに話の続きを紡ぐ。
「国が立ち直ったら、会いに行こうかと思っていた。手合わせを願いたかったんだけど、少なくとも今は無理のようだから」
「―――ああ」
その言葉から、
勠秦は自身の身元が既に察されている事を悟った。さらに国が復興し復廷を許された後の再会を祈念するかのような台詞に一瞬呆然とし、すぐに失笑を落とす。命の恩人がそれを望むのなら、応えるのも悪くはないだろう。
「……そうだな。国が立ち直ったら、」
良いかもしれない、と―――そう言葉を口にする直前、
勠秦はふと利広の顔をじっと見やる。……これまでの旅で何度も青年の顔を見てきた男はしかし、以前に見覚えがあった。それが何処であるのかは思い出すことが出来ずにいた。胸の閊えに違和感を覚え続けた男は突如、山積する記憶の中から一つの映像を掘り当てて。
「……利広」
「うん?」
―――そうだ、この顔だ。
驚愕と焦燥が胸中に満ちる。各地を巡行している事は以前に何処かで聞いた覚えがあった。その青年が目前に居るのだから、驚かない筈がない。沸き起こる動揺を抑えつつも、
勠秦は恐る恐ると口を開いた。
「貴殿はまさか、」
「これ以上はお互い余計な詮索はしない方がいいようだ」
呟きかけた
勠秦の問いを、利広はすぐさま遮断する。一理あるその言葉に困惑を窺わせ、すぐに納得したように頷いた男はそっと溜息を吐き出した。
今しがた綴っていた利広の言葉はあくまで自己の願望であり、詮索という域までには至らない。さらに、詮索の制止発言によって身分を気にする必要が無い事に微かな緊張感を解す。……双方の内心では既に身分を察していたが、そういった関係を保つのも悪くないと、
勠秦は微かに笑みを浮かべつつ再度窓越しの遠景へ視線を転じる。
外ではいつの間にか日没が終わり、広途は下り始めた夜陰を迎えようとしていた。