- 陸章 -
果て無き漆黒の途。虚ろ虚ろと彷徨する意識は途を進むまま遠のく仄かな光を目指す。地に着かない足取りが恐怖を生む。生の実感は至って皆無。遡る記憶、その先端へ辿り着く為に手を伸ばす。指先に届きかけた光はしかし、瞬時にして血濡れの神獣へと姿を変貌させ。
意識は微睡む世界から脱却した。
「―――」
押し開かれた瞼によって、陽光が急速に男の視界へ差し込まれる。闇からの転換に苦を浮かべた男は暫し頭上の木目を眺め、手前に移り込む自身の腕へと視線を移す。自然と伸ばされていた左腕は光を受けて目映い。周囲の状況を漠然と理解し始めた
勠秦は、突如女人の声を聞き入れて視線を薙がせた。
「お目覚めですか」
笑みを湛えて覗き込む女人。その見知らぬ顔をぼんやりと眺めていた
勠秦は腕を下げ視線を天井へ向けると、安堵の溜息を吐き出した。生きている事が不思議でならない―――そう思えば、自身の名が未だ仙籍から消え失せてはいない事を認識する。彼の者の計らいに感謝し、次いで呟くような問いを洩らす。
「此処は……」
「隆洽の保翠院で御座います。三日も眠っておられたのですよ」
「三日―――」
口が上手く動かないのは、三日顔面を硬直状態にしていた所為か―――。
三日という時間を無駄にした事への反省と同時、怪我と比べるとその昏睡からよく抜け出せたものだと感心する。
勠秦は軽く頷くと、すぐに身を起こした。……いや、起こそうとした。
力を入れた下肢の感覚が鈍い。首を捻り、再び半身に力を入れたところで女人の手が
勠秦の肩に添えられる。男が思わず細く白い手と顔を見比べ眉を顰めれば、女人はゆるゆると頭を振った。
「今は無理をなさらず、ゆっくりとお休み下さい」
「……すまない」
優しげな声を聞き脱力した男の体が臥牀に沈む。申し訳無さそうに謝罪を告げて瞼を落とせば、身体は未だ休息を欲しているのだろう―――急激に押し寄せてきた睡魔を拒む事無く、
勠秦は意識を深層へと沈めていった。
男が再び目を覚ました時には、既に夜が更けていた。
覚醒する意識。瞼を押し開けた
勠秦は仰臥するまま視界に映る天井をぼんやりと眺め、走馬灯のように駆け巡る過去の記憶から一部を取り出す。……それは、嘗て王への諫言。止める事の出来なかった自身への憤り。再び伏せた瞼の裏に登遐した黄昏を過ぎらせて、苦を浮かべた
勠秦はふと再び目を開く。
近付きつつあった足音が衝立の裏でぴたりと止まる。次第に静寂が取り戻され、しかし警戒心を抱き始めた
勠秦は臥牀上で上半身を起こす。傍らの棚上に置かれた自身の荷を一瞥の後、衝立裏に潜む人物を睨め据える。衣擦れの音さえ無き静寂に警戒心を強める最中、唐突にひょいと顔を出したのは、一見人の良さそうな青年。
「ああ、気が付いて良かった」
臥牀に坐る
勠秦の姿を認めるなり笑みを浮かべ衝立裏より出てきた青年は、ゆっくりとした足取りで歩み寄る。近付く者が軽装である事を確認すると、警戒を解いた
勠秦はほっと胸を撫で下ろした。次いで、初見の顔をまじまじと見上げる。
「顔色があまり良くなかったから、もう駄目かと思ってしまったよ」
「あの―――失礼ながら、貴殿は?」
束ね肩へ流された長髪が揺れる。綴られる言葉と共に穏やかな顔つきが笑みで満たされ、口元が弧を描いた。配慮を有り難く思うも、青年に一切の見覚えがない男にとっては困惑が涌くばかりであった。
勠秦の疑問を察したらしき青年はああ、と頷き、臥牀沿いに置かれた椅子を引き寄せて腰を落ち着かせた。
「わたしは利広という。君を助けた者だ」
「私を……」
意識を失っていた
勠秦を助けたという利広と名乗る青年は、先日の遭遇した当時を思い起こしつつ状況を述べた。腹部を血塗れにして吉量の首に凭れ掛かった男を発見した際には酷く驚いたという。怪我の経緯を問われると、
勠秦は苦笑混じりに首を振る。覚えていない、との虚言を述べると、利広は軽く頷き答えを信用する。僅かな罪悪感を抱きながらも、男は拱手と共に深く頭を下げた。
「この度は感謝痛み入る。多大な迷惑をお掛けして申し訳ない」
「いいや。全快までは暫く掛かるだろうから、もう数日は安静にしていた方が良い」
「……ああ」
利広の言葉に、
勠秦の手は自然と腹部へ向けられる。甦るのは、貫通した鮮血の刃。鮮やかな紅が激痛と共に広がりゆく様。記憶が鮮明になるにつれて、嘗ての痛みが鼓動と共に掘り起こされる。疼く傷跡に爪を立て、自国からの追放を改め実感すれば、切なさを押し殺す事は出来なかった。
◇ ◆ ◇
傷跡の疼きを耐え終えた
勠秦は、下肢に衾を掛けたまま利広との他愛ない会話を続ける。時折何かを探るような問いを向けられ惑うも、苦笑で答えを回避した。その度、利広は目を細め何事かを思案しているようだった。
勠秦は内心参ったと思いつつ、なるべく窮する事無く返答を述べ、その様子を眺めていた利広はふと話題の方角を変更する。
「
勠秦さんは、奏出身かい?」
「巧国喜州の出身だ」
「巧か―――」
意を含むように呟かれた国名は、奏の隣国である巧州国。相槌を打ちながらも何かしらを思案する様子に、
勠秦はこの青年に対しあまり口を滑らせてはならないのだと悟る。決して表ばかりの青年ではないことは確実であった。
「巧は今大変だろう」
「……そうだな……大変だ」
頷き面を僅かに下げた
勠秦が賛同の意を篭めて一つ頷く。青年の気遣う言葉により、崩御の報が隣国にも知れ渡っている事を察し思わず顔を俯かせた。それが紛れもない事実とは言えども、他国の者より再び突き付けられる瓦解の事実に酷く胸が痛んだ。
刹那、ぎり、と軋むような鈍い音。腕に走る痛みに気付き視線を下ろした男は、片腕を掴んでいた手に力が篭められていた事を知る。そっと手を離し袖を捲ると、腕の一部が変色していた。
小さく溜息を零した
勠秦に、利広は組んだ手を膝上に乗せたまま何気ない問いを投げかける。
「怪我が治ったら、何処へ行くつもりだった?」
「ん?」
利広にとっては何気ない、
勠秦にとっては予想外の問いに、思わず左手が首元へ伸びる。奏へ赴いた後の然したる予定など考えてはおらず、妥当な行き先を導き出した結果にあったのは、やはり隣国。
「……漣か才だな」
「そうか」
勠秦に向かい相槌を打つ青年の、穏やかな表情は変わらない。若干の違和感を覚えて利広の姿を凝視するが、違和感の元を見出す事は出来ず。胸内に広がりゆく靄を敢えて無視した
勠秦は、投げかけられた問いをそのまま返した。
「利広は何処へ向かう?」
「所用があって舜へ向かうつもりだよ」
「ああ―――舜極国か」
巧とは巽海を挟み南東に位置する四極国の一つ―――舜。治世四十年余りの国の特産として見られる薬泉は有名であり、貿易によって多少なりとも巧と舜の交流があった事を
勠秦は記憶している。奏から舜までの移動が騎獣ならば、首都へ辿り着くのは三日もあれば余裕だろう。
軽く頷きつつ他国の知識を引き出していた
勠秦の思考は刹那、利広の言葉によって唐突に遮断された。
「もし国を巡っているのなら、ついて来るかい?」
驚きは暫し。気軽に発された同伴の誘いに何度か目を瞬かせた男は、すぐに顔を綻ばせた。追放された身では元々行く宛てなど決まってはいない。自由奔放に旅をする事も見聞を広めるには良い機会であると、玻璃越しの薄暗い風景へと視線を投げる。……明日は、晴れるだろうか。
「―――それも、良いかもしれないな」
勠秦は呟くように同伴の意を告げる。穏やかな声を聞き受けた利広は男の横顔を眺めつつ笑みを浮かべて頷いた。
舜国への道程を思案したところで、途端に十一の国を巡る為に要する月日を大凡ではあるが換算する。必要とされる時は実に厖大であり、それを思えば抑えていた懐郷の念が次第に膨れ上がる。……新王が登極し、故郷へ再び足を踏み入れる事が出来るのは、果たしていつの日か。
「……時は永い」
「うん?」
「いや、何でもない」
零れ落ちた言葉には哀愁を秘めて。
これから駆け抜けるであろう時の長さを考え直した
勠秦は、小さな溜息を吐き出すと共にそっと瞼を伏せた。