- 伍章 -
「奏へ向かおうと思う」
謹慎を解かれて後、来訪した雀頴へ告げた
勠秦の第一声は思い悩んだ末の報告であった。
僅かに俯く青年の顔には落胆が浮かぶ。結局追放の前日まで冤罪である事を奏上したが、覆る事の無かった結果を酷く悔やむ。それだけでも十分有り難いと告げた当人の言葉によってその行動は報われたものの、雀頴が納得することはなく。せめて見苦しくないよう平然を装い事を受け止めた雀頴は、数拍の間を置いて首肯した。
「左様ですか―――ああ、あの冢宰の慈悲で幾らかの路銀と吉量を与えて下さるそうですが」
「……そうか」
国外追放において、追放先は選択する事が認められたものの、その他の情報が
勠秦の元へ入る事は無かった。当日になり聞かされた事情に微かな笑みを浮かべた元中将軍の姿はしかし、引き締まった頬が二十日を経て少しばかり削げた気がする。雀頴は、それで抑える事の出来なかった悪態を思わず零す。
「主犯者が何を、」
「止めておけ雀頴。誰かの耳に入ればお前も終わる」
潜められた声には若干の棘が含まれている。小司馬の身を案じるが故に、周囲へ視線を巡らせ人が居ない事を再認識すれば、ほっと安堵の溜息が落とされた。王宮のみならず官邸の中でさえ言動に気を配らなければならない事態に違和感を覚えつつ、雀頴は閉口する。
―――今の翠篁宮は危ない。何処を見渡しても、敵ばかりだ。
そう思わざるを得ない事に更なる落胆を募らせた雀頴はしかし、目前に佇む男の朗らかな面持ちに目を見張った。
「奏は良い国だから、働き口も見つかろう。その内各国を巡り歩くのも見聞を広めるには良い事やもしれん」
「しかし、」
困惑の面持ちで言葉を挟む青年はしかし、
勠秦が頭を横に振った事で続こうとした言葉を瞬時に飲み込む。変化する事のない穏やかな顔を直視して、雀頴は無意識に片眉を上げた。その余裕に呆れ、そうして僅かな怒りさえも感じる。
……何故、国外追放だと言うのにそうして笑っていられるのだろうか、この男は。
「なるようになるさ」
雀頴の呆れを余所に、
勠秦は柔らかく笑う。まるで、全ての罪を許すかのように。
彼は悔しいと言った。だが、今日は一切として面に出さない情を不思議に思い、青年は無意識に眉根を顰める。追放前、微笑で覆われた貌には一体如何なる情が浮かべられているのか―――。
追放者の出立までは僅か数刻の猶予。それを惜しみ話を続けていたところで、駆け寄り来る小柄な女官が二者の視界に映る。振り返り見やったところで、肩を上下させて立ち止まった女性が息を整えるなり歩み寄る。
勠秦は何度か見覚えのある顔に眼を瞬かせ、ふとその者が天官の者である事を思い出した。書簡を携えたまま、丁寧に一礼をする。
「私、女御の苑梨と申します。お渡ししなければならない書簡が御座いました」
「書簡?宛ては、」
「台輔に御座います」
女御の穏やかな声とは裏腹に、予想外の宛名を告げられた元中将軍と小司馬は眼を見開く。互いに顔を見合わせ、差し出された書簡を
勠秦が恐る恐ると受け取る。完全に手元を離れた書簡を眺め、苑梨は再び拱手と共に深く頭を垂れた。
「では、確かに」
「ああ」
確認の後、苑梨は身を翻すなり走廊をそそくさと歩き立ち去っていく。その背を認めた
勠秦は手元の書簡を開き、文頭を辿り始めた。
主の内情、その行いを止める事が出来ず国を傾けてしまった事への謝罪、
勠秦への感謝と侘び、瓦解後の不安定な仮朝の付託。
―――それが、書簡に書かれていた全てであった。
読み終え、書簡をゆっくりと閉じた
勠秦は溜息を吐き出しつつ天井を仰臥する。小刻みに震える男の手を見やった雀頴は不安げに視線を上げ、恐る恐ると名を呼ぶ。
「―――
勠秦」
「分かっている」
きっぱりと断言し擡げていた頭を戻した男は再び手元の書簡を見下ろし、腕に力を篭める。再び作られた笑みはしかし、微かな哀愁を篭らせて。
「もうどうする事も出来んが―――それでも、嬉しく思う」
言葉とは異なる表情を覗かせる
勠秦に、雀頴はそれ以上の言葉を一切として掛ける事が出来なかった。
先刻、雀頴の情報通りに路銀と騎獣が禁門に用意され、それらを受け取った
勠秦は用意を整え終えると吉量にひらりと跨る。訳あって見送りの人影は冢宰の他に無く、代わりと言っては難であるが国境までの護衛兵が四人ばかり着く事となった。行く先を不安に駆られる中で、
勠秦は冢宰へ軽く一礼の後に手元の手綱を振るう。
「では、頼んだぞ」
勠秦の背後で密やかに交わされる会話。何気なくそれを聞き入れると同時、吉量が強く地を蹴り飛翔を始めた。
優雅に駆け上がる騎獣と四方を取り巻く者達を見送っていた冢宰はしかし、軽く溜息を吐き出してから薄く笑みを湛える。その貌は恐ろしい程に歪んでいる。
「……道中、誤り落下せねばな」
そう呟かれた言葉が、
勠秦の耳に届くことは無かった。
◇ ◆ ◇
勠秦を乗せた吉量は南西へ向けて疾走する。四方を囲むように天馬が駆け、体勢を維持するまま奏南国と巧州国の国境を隔てる高岫山を目指す。急ぎ足ではない為に、温く緩やかな風を頬に受けながら上空を滑走していた。
吉量の手綱を握る手が汗ばむ。それは南下する次第に温かくなる気候の所為もあったが―――実際は、時折周囲より注がれる視線に含まれる意を薄々と感じ取っていたが故に。
「奏南国の首都、隆洽までは……二日だったか」
「……」
振る話題に、返答はない。沈黙を突き通し意味有り気な眼差しを向け来る兵の様子に対し、流石に不審を募らせたのか、
勠秦が手綱を引き立ち止まる。取り囲む兵もまたそれに気付き慌てて天馬を制止させた。何事かと中心の者へ眼を見張り、鞍に括り付けられた嚢内を探るその姿に兵らは呆れた。次いで予想外の行動に警戒は強まり、再び駆け出した吉量に合わせ再度疾走を始める。
それから暫くの間を駆け続け、斜陽で茜色に滲む空はじきに闇夜を迎えようとしていた。
夜明け前には国境を隔てる高岫山が遠景に見えてくるだろう―――そう思い手綱を握り直した
勠秦は、ふと右前方の男に視線を留めた。見覚えのある顔に眼を細め、それが左軍の師帥である事を思い出す。国外追放者の為に左軍の師帥が出てくる事はまずあり得ない。長年そういった事も度々眼にしてきた
勠秦にとって、周囲の選任が妥当とは思えずにいる。
幾らかの不審を以って、男は前方の者へ問いを投げかけた。
「お前達は確か、左軍の兵だな」
「
稻元将軍」
突如遮断される問い。
勠秦が振り返った先、後方にて天馬に騎乗する兵の一人が槍を携え半ば睨めつけるようにして追放者に眼を据えていた。それは、犯罪者を見下す軽蔑の眼差しにも似ている。
「失礼ながら―――将軍職を解任した輩にお前と言われる謂れはない」
言い放たれた言葉に含まれる棘は多く。それを受け流すように敢えて苦笑を洩らした
勠秦は、手綱を片手に持ちながらも大袈裟に肩を竦めてみせた。
「やれやれ、厳しいものだ」
「ああ、厳しいな」
師帥の返答を機に、一瞬にして張り詰める緊張。何処か不穏な雰囲気を察した
勠秦は手綱を握り締め、四方を見渡せば誰もが手中の得物を構え始めている。師帥に突きつけられた槍を視界の端に捉え、怪訝な面持ちで視線を転じた
勠秦が見たものは、男の不敵な笑み。
「何しろ、これからお前を討つのだから」
―――同時、突き出されるは白刃の煌き。
戈を躱すと同時、
勠秦を乗せた吉量が包囲を脱して急降下する。男を追う天馬が次々に降下し、追いついては槍を振るった。幾度も繰り出される戈剣の刃を避け、その内一人からもぎ取った槍を手に距離を置いたところで、
勠秦が振り返った。
「何の真似だ!」
「元中将軍は此処で落死したと、冢宰に報告をしなければならないのでな」
事を告げるなり薙がれる刃。それを受け止め、三度切り結んだ後に再び距離を置く。背後へ先回りする兵を突き入れた槍で天馬より落とし、落下するその姿を見届ける前に視界を転ずる。
「仕組まれた事に気付かない愚か者め」
吐き出された言葉は嫉視と共に。
勠秦もまた師帥を睨め据え、暫しの間を対峙する。構えを立て直し、嘶きと共に勢い良く宙を駆け出した吉量は真直ぐに師帥を乗せた天馬を目指す。師帥の構えられた槍を打ち払い、次いで後方より来たる兵の戈を柄で掬い取るようにして跳ね飛ばし、石突で腹を容赦なく突く。身体が落ちかけ何とか天馬に縋り付く兵を一瞥した後、
勠秦の騎乗する吉量は再度前方へ疾走を始めた。
逃走する吉量を追い駆ける師帥。その貌には、憎悪が滲み出ている。
「此処で貴様を討ち、私が中将軍の地位を得る―――!」
「結局はそういう事か……!」
勠秦の予想は的中した。大方唆されたのだろう。朝廷の腐敗を改め感じながらも手綱を引けば、宙で立ち止まった吉量が馬首を巡らせる。来たる槍を薙ぎ払い男の片腕を断てば、驚愕を顔に満たした師帥が悲鳴を上げた。直後、
勠秦が突き出した石突により落馬し、落下した男は瞬く間に小さくなっていった。
足元のそれを見送り、ほっとした
勠秦は―――突如来たる衝撃に違和感を覚え、半身を振り返らせる。そこには残った一人の兵が槍を突き立て、男の首を事も無げに打ち払い落とした
勠秦が天馬から離れた刹那。自身の腹部に生えた刃を認め、暫し言葉もなく凝視する。
やがて鼓動と共に痛みが波のように押し寄せて、痛みに下唇を噛み締めた
勠秦はすぐに槍を引き抜いた。体液が袍に飛び散り、鮮やかな赤が所々に滲む。
――失態だ。
不注意を悔やみながらも自身の袖を長く破き、腹にきつく巻き付けるや否や血だらけの手で手綱を取る。手中の物をしたたかに振るい、吉量の前進を促した。
激痛に耐える主を余所に、吉量は疾走を続ける。共に襲い掛かる睡魔に耐えながら漆黒に満ちた地を眺めていた
勠秦はしかし、時が経つにつれて意識が薄らいでいく。一体どれ程の時が経ったのだろう―――そう考えるも思考は巧く巡らず、朧気掛かる意識と同時に視界までもがじわりじわりと侵食されていった。
休息なく駆け続けた吉量の背で、
勠秦は激痛と睡魔に耐え続けた。……だが、それも限界に近付こうとしている。
――夜明けか。
言葉を発する気力もないまま、霞む視界で夜明けを捉える。その手前、一直線に続く山脈を眼にした
勠秦が思わず眼を擦り見開いた。
―――高岫山。
目前の山を越えると、南の大国―――奏へと踏み入る事となる。国都へはさらに先、全力疾走で向かわせるならば夕刻には隆洽へ到着する予定であった。
「良かっ―――」
良かったと、そうぼやこうとした
勠秦はしかし、これまで緊張によって支えていた意識が唐突に打ち切られ視界が漆黒に塗り潰される。
彼がぶれる視界で最後に見たものは、夜明けを迎えた遠景に光る白銀の点だった。