- 肆章 -
「台輔を貶め、主上を失道へ唆さんと謂れ無き言を奏上の挙句、新たな慶の王を亡き者にせんと仕組んだ事は明白である!」
庭院に犇く甲器の音を掻き消すほどに響き渡る野太い声。怪訝さを露呈させる目前の男。翳された抜き身の刃は白刃の煌き。場に漂う険呑な空気は
勠秦の双眸を鋭利にさせ、低声は威圧を醸し出した。
「左将軍、一体これは何の真似か」
「己が罪を認めよ、中将軍」
「私はそのような罪状を突きつけられる覚えは無い。虚言に踊らされるとは―――」
「冢宰が確たる証拠を以ってそのように仰られたのだ」
「何だと……?」
口から湧き出る戯言。それをさらに凌ぐ愚言が放たれて、
勠秦は耳を疑った。証拠などあろう筈もない。だと言うのに、一体何を“確たる証拠”と呼ぶのか。
思考は巡る。では証拠を提示せよ―――そう告げようと開いた口はしかし、冷徹さを以って放たれた左将軍の命により兵がどっと中心に向かい駆け込んでいく。
「捕らえろ」
雀頴と瞰逵を押し除けて、兵は丸腰の男へ飛びかかる。背を強く押されたかと思えば、さらに強圧が掛けられ屈強な身体が前方へ転ぶ。首元に槍を交差するようにして押し着け、途端抑えられた男が咽た。大方、胸部を強打した所為だろう。だが―――仙はその程度で死ぬ事などない。それを十分に理解する者達はさらに腕を軋むまで捻り上げ、
勠秦は痛みに上げそうになった悲鳴を辛うじて飲み込む。声を上げる事だけは曲折せぬ自尊心故に上げる事を免れた。
兵に両腕を抱えられた男はそのまま連行されゆく。雀頴と瞰逵は不安げに顔を見合わせ、過ぎ去った騒動に此れまでにはない只ならぬ不穏を感じていた。
大人しく連行された
勠秦は仄暗い囹圄に放り込まれた。乱雑な押し込められ方に怪訝さを露とするも、簡易ながら呪を施されては逃走の隙など無く。仕方なく悲鳴を上げる右腕を左手で労わりながら、薄暗い囹圄に視線を一巡りさせる。
湿り気の多い一室には榻と傾いた小棚が一つ。房間でさえ此処まで酷くはない。大凡何処かに屍でもあるのだろう―――幾度も嗅いだ覚えのある屍臭が鼻を突く。あからさまに顔を顰めて格子の向こうに目を凝らす。人二人が擦れ違える程度の走廊を視線で辿り、刹那硬い履の音がした。
――― 一人。
一定の音調。他に濁りなき音に耳を澄ませ、ふと格子の元へ歩み寄ってくる者の足が薄らと見え始めた。敢えて格子に背を向けた
勠秦はしかし、足音が止まるや否やその主から零された言葉と聞き覚えのある声に一瞬思考を硬直させる。
「中将軍」
「……司右か」
「尋羽です」
やってきた男もまた背を向けたまま、無情の言を密やかに紡ぐ。格子を挟み互いに背中合わせとなり、周囲の気配を気にしつつ会話は続けられた。
「証拠は、」
「塙麟が中将軍の邸宅へ招かれた―――後は自分で推察出来るでしょうが」
「……成程」
先刻、瞰逵の言った“台輔を誑かした”とは、台輔を官邸に招き事実無根の奏上をしたという事なのだろう。そうして仁道厚い麒麟である台輔はその旨を主に奏上、後に道を悖る行いとなる、と―――。真実を知る者は今や
勠秦ただ一人。だからこそ、幾らでも捏造が可能となる。
格子に凭れ掛かった
勠秦はさも他人事のようにくつくつと笑う。尋羽の咎める声があったが、彼が気に留める事は無かった。
「根底から異なる噂など、よくもまあ信じられたものだ」
「蹴落とすには十分な素材であった、という事になる。実際、お前を訪ねたのは事実なのだから」
男の不快ある言葉に、
勠秦は思わず口元の笑みを引き攣らせる。……違和感を覚える刹那、それが広まる筈のない事実である事に気付き思わず振り返る。だが、尋羽は変わらず背を向けたまま、顔を向ける様子は無い。尤も、男の顔を見たところで内情を読み取れはしないのだから、目にするもしないも同様であるのだが。
諦めたように再び背を向けた
勠秦は、薄暗い中で湿りきった照壁を眺めながら問う。
「発信源は」
「女官だ。その夜、台輔を追尾していた」
勠秦は無意識に相槌を打つ。成程、と納得を落とし、次いで面を俯かせた。
大方冢宰は勿論、大司馬や大司空らが水面下で手を組んでいたのだろう。……もしかすれば、六官長の半分は陰謀に乗じたのかもしれない。しかし、格子の外から抜け出す事の出来ない中将軍にとっては、ただそう憶測を巡らせる事しか出来ないのだ。
「……主上を止められなかった報いか」
思わずそう呟いた
勠秦は首を擡げる。嘆くでも自嘲するでもない言葉と声音はしかし、突如叱咤にも似た言葉によって斬り捨てられる。
「馬鹿かお前は」
「……は?」
思わず間の抜けた声が出た。面識を得て相当な時が経過しているが、馬鹿と蔑まれた事はない。まして叱咤もない。これまではただ淡々として告げられるのみ。それが何故、言葉を崩してまで言い放ったのか―――
勠秦はそう考えながら再び背後を振り返る。が、やはり見受けられるのは筋の伸びた背のみ。あくまでも尋羽が顔を向けるつもりは無いようだった。
「お前は主上に諫言した。それであの男は耳を貸さなかった。台輔を唆したのは主上であってお前ではない事ぐらい、誰にでも推察出来よう」
綴る言葉は、男の自責を修正するように。
「お前は、悪くない」
「尋羽―――」
「だが、言っておく。私はお前が嫌いだ」
情感に満たされるのも束の間。それをあっさりと打ち砕くような言葉を突きつけられて、目を一つ瞬かせた
勠秦は平常心に戻りつつ改め問いを切り出した。
「理由を聞いても良いか」
「仕事に私情を入り混ぜるような者とはあまり慣れ親しみたくはない」
即答に含まれた情は無。再度態度を戻した尋羽の様子に、
勠秦は軽く溜息を零して頷いた。そうか、とただ理解の意を呟き、背後に佇んでいた者の気配が動き始める。話すべき事は終わったのだろう、来た道を戻り始めた男の背に、目を細めた
勠秦が呼び留める。
「司右」
尋羽は無言で半身を振り返らせる。眼差しが呼び留めたその理由を催促する。……若干端々に急くような仕草があって、それが囹圄へ無断での立ち入りだったらしき事を表す。見回りが来る前に立ち去ろうとした事を察した
勠秦は走廊と男の顔を交互に見やりつつ声を潜めて言葉を放った。
「裁可は既に下されたのだろう」
「……告げて良いのか」
「構わん」
僅かな躊躇を見せる尋羽に、
勠秦はしかと頷く。此れは決して捕らえて後に審議するのではない。既に決は下され、それに従い捕縛し、刑に処すのだから。貶める為の手順など、既に把握している。
逸らされる事のない眼差しを受けて、尋羽は男の願い通り、早すぎる裁可を告げた。
「―――
稻中将軍はその任を解き、国外追放に処される事が決定した」
「……国外追放?」
これに眉を顰めたのは言い放つ尋羽ではなく、
勠秦だった。殺刑と推測していたが、意外にも外れた。思わず復唱を口にして問いを確認すれば、静かな肯定が男へ返される。視線を逸らし思考を巡らせ始めた
勠秦はしかし、次いで驚きの策を知る。
「……尤も、足は既に摩り替えた。仙籍までは削除されまい」
「……良いのか。そんな事をして」
当然、良い訳が無い。国政に関わる物であるだけに事を気付かれれば最期、恐らく処されるは殺刑。危険な橋を渡る男を見上げた
勠秦はしかし、途端呆れ交じりの溜息を吐き出した。……不器用ながら、それがこの男なりに回した気遣いなのだろう。
礼を告げようとした
勠秦はゆっくりと遠ざかる男の背を目にして軽く目を見開く。再度言葉を掛けようとして、途端引く裳裾の音が止んだ。尋羽は頭部のみを横に逸らし、そうして普段と変わらず淡々と述べた。
「生き延びろ。再起を待て。新王が登極し、巣窟が一掃され、国外追放の命が取り消されるその日まで」
言い切るや否や、男は早々と囹圄を立ち去り行く。最後に告げられた言葉をよくよく噛み締めた
勠秦は、途端面を地に下げた。
たとえ厭うても、長年の知人を失う事は酷く惜しいものなのだ、と。
◇ ◆ ◇
数日を経て囹圄から開放された
勠秦は、裁可が下されるまで官邸にて一時謹慎の形を取る事となった。
面会は一切として謝絶。冤罪が故に後々の免罪を信じる者達は夏官に多く居たが、彼らが主張する意見のどれもがまともに取り合ってはもらえず、結局二十日の謹慎を経て国外への追放が確定した。
謹慎から数日、突然の来訪者がやってきたのは午を過ぎた頃の事だった。
起居内の荷を片付け纏めていた
勠秦は、面会謝絶との旨を聞かされていただけあり、見慣れた者の顔を見るなり眼を瞬かせる。開いた戸の前に佇む、夏官二者の顔。
「―――
稻将軍」
「雀頴と瞰逵か」
複雑な面持ちのまま中将軍だった者を注視する二人に苦笑を返し、
勠秦は身を一歩引き中へと招き入れる。入室を促された二者はゆっくりと踏み込み、ぴったりと閉ざされた戸の内―――片付けられ閑散とした起居内を見渡す。既に身を引く手筈を整え始めている男を振り返った雀頴は、困惑を隠せずにいた。
勠秦もまた疑問を浮かべるまま着席を促し、それに従った瞰逵と雀頴が榻に腰を下ろす。簡易ながら茶の用意を始める
勠秦は手を動かしながらも、此度の訪問についてを問うた。二者から聞けば、何故か二人の面会だけが許されたのだという。何かしらの企みを抱いているに違いないと警戒をしたものの、別段そういった事は無いようだった。
勠秦の淹れた茶を一口飲んだ瞰逵が、次いで話題を切り替える。
「どちらへお行きになられますか?」
「奏か雁の大国、或いは舜へ行こうと思っている」
妥当な答えに、片手に持っていた茶杯をゆっくりと置いた雀頴が相槌を打つ。大国ならば治安は良い。仕事もすぐに見つかることだろう。そう思い無理にでも納得を落とそうとした雀頴はしかし、傍らに坐る青年から洩れた言葉が胸内で木霊する。
「……正直、残念でなりません」
「瞰逵、」
「悪行を水面上に押し上げ非道の振る舞いをするのなら、わたしは殺刑になろうともあの首を刎ねる。醜き面を八つ裂きにしてやる」
「そう自ら道を踏み外そうとするな」
恐ろしいまでの鋭利な双眸と貸した瞰逵に、
勠秦はやや口調を強くして言葉を返す。有言実行の青年がやると言うからには――恐ろしい事ではあるが――勢いに任せて行う可能性が十分にある。それだけはならないと、
勠秦は制止の言葉を放った。
ぐっと歯を食い縛る瞰逵に、雀頴が肩を軽く叩き諫める。二者の姿を目前に茶杯へ視線を落とした
勠秦は気を沈澱させ、ぼやくように言葉を口にした。
「私達は命があればいつでも人を殺す事となる。それが他州の兵でも、民でも」
遥か以前に聞き覚えのある言葉を受け、雀頴は無言のまま視線を向ける。瞰逵もまた顔を向けるも、言葉を自身で咀嚼し、次いで首を捻る。……それは、軍に所属すれば当然と化す事である。
「だからこそ人は大切にせねばならぬと、いつぞや誰かが教えて下さった」
「誰か、とは……?」
挟み込まれた問いに、
勠秦は目を細める。脳裏に駆け遡る記憶は次第に褪せて、やがて途切れていった。……もう少しで辿り着けそうな記憶はしかし、忘却という壁により閉ざされてしまった。
「名は覚えておらん。面影程度ならば記憶にあるが―――仙とて、永く生きればこのように忘れゆく」
言って、目を細める
勠秦に瞰逵はそれ以上の言葉を返す事が出来なかった。長い時を生きたとて苦悩が絶える事はないのだと、目前の男によってそれが知らされる。
瞰逵は困惑を抱きながらも視線を外さずにいると、途端
勠秦の苦笑が零れ落ちた。
「愚者とて、首を刎ねるのは止めておけ。何れ天からの御裁可が下ろう」
「……
稻将軍は、それで宜しいのですか」
落ち着き始めた瞰逵が静かに問うた言葉に、問われた者は無意識に眉を顰める。無言と苦笑を以ってやり過ごそうとした青年の疑問はしかし、さらなる問いによって
勠秦が無言を通す事は叶わなくなった。
「悔しくは、ないのですか」
閉口する雀頴の傍らより、恐る恐ると告げられた疑問を受けた男は途端に眼光を強くする。
「悔しくないと思うか」
問い返す声音は低声。覇気は鋭利。茶杯を包み込む両手は微かに震えて、心底に潜む心情が見え隠れする。予想だにしない男の様子に、瞰逵は思わず息を呑んだ。
「冤罪で国を追われ、数少ない友人とも会えず、浮民となる事を、悔しくないと思うのか」
「……申し訳ない。失言でした」
すぐさま謝罪を入れる瞰逵と未だ刺々しい空気を纏う
勠秦を交互に見やった雀頴は軽く溜息を吐き出す。次いで半ば睨みを据える男を咎め、それでようやく気を落ち着かせ始めた
勠秦がすっと視線を逸らした。頭を軽く横に振り、青年の失言を許す。
「……いや。私も悪かった」
稻は表情を緩めた。その変わり様に驚きながらもほっと安堵に胸を撫で下ろした瞰逵もまた笑む。二者が和解したところで、さらに話題は移る。
雀頴らの他に中軍の兵が冤罪を訴え、国外追放の取り下げを奏上したものの、仮初の上は一切として聞く耳を持つ事はないらしかった。その旨を聞き淹れた
勠秦は卓上に片肘を着き、首に軽く手を添える。―――やはり、玉座が巣窟の根源と化せば無理であったか。
さらに説明を続けようと雀頴が再び口を開きかけて、対談は唐突に終わりを迎えた。……刻限が間近に迫り来ている。
茶を飲み干した瞰逵は慌てて席を立つ。それに続き雀頴もまた立ち上がり、恐らく最後になるであろう男の姿を見やる。暗澹なき雰囲気に目を細め、退出前にその字を呼ぶ。
「
勠秦」
呼ばれた者は顔を上げる。僅かに頭を傾げた男を前に、悲痛な面持ちへと変貌させた雀頴は微かに声を震わせて告げた。
「腕を、落とさんようにな」
「ああ」
それが別れの言葉になるであろう事を察してか、
勠秦もまた首肯の後に手を挙げる。親しげに交わされていたその挨拶もまた、最後になるのだ。
雀頴はそれ以降、無言のまま起居を退出する。残された
勠秦は来たる静寂の中で盛大な溜息を零し、脱力して天を仰いだ。