塙麟失道の報から数日後。
傾国の王は、翠篁宮から忽然と姿を消した。
- 参章 -
主無き朝議は諸官に多大な困惑を齎した。六官の長は顔を見合わせ、主上の所在を問うたが、結局居場所を知る者は誰一人として居なかった。半身ならば何かしら知っているだろうと、今現在重病を患う塙麟を訪ねる事となり、結果朝議の場に出席していた禁軍中将軍を仁重殿へ向かわせるよう話が進められる。
反論のいと間も無く退出を余儀なくされた
勠秦は、無言のまま一礼のみで朝議の場を抜け出す。重い音と共に閉ざされた扉へ一瞥をくれてから、向かうべき方角へ顔を向けると渋々と足を運び始めた。
勠秦は外殿から仁重殿までの走廊を足早に歩く。脳裏に甦るのは、嘗てこの走廊で末声の報を耳にした無念の記憶。間近に迫る再現の可能性。それらを否定し、振り払ってなお心底に沈殿する思いは不安。王が姿を消した理由は大方予想が着く。故に焦燥に駆られる
勠秦の歩幅は増して、若干小走りのまま仁重殿へと向かった。
「―――失礼致します」
遠慮がちに叩いた戸の向こうからは返答が無い。仕方なく、無礼を承知で押し入った
勠秦は無人の堂室、その先にある臥室へと目を向ける。恐らく黄医は臥室か退席中なのだろう。そう思いつつも臥室の戸を叩き、なるべく音を立てぬように開いた。だが……物音はない。
「台輔、無礼をお許し下さい」
言葉を掛け踏み入った臥室に人の気配は無い。暗がりの奥に置かれた臥牀は錦の幄で覆われ、その先が見えない。異様な空気を纏う臥室内に眉を顰め、さらに一歩を踏み込んだ矢先―――白い何かが、男の目前に立ちはだかる。前方を阻むようにして佇む姿をまじまじと見上げ、それが女怪と呼ばれる存在である事に気付く。
「台輔の女怪と見受けるが―――貴殿は主上の行き先を存じておるか」
勠秦の問いに、女怪からの答えは無かった。無言のまま突き刺すような眼差しが男を射て、しかし女怪を見返す男もまた引き下がる訳にはいかず、一歩も引かず対峙の姿勢を窺わせる。そのまま膠着して暫し、不意に幄越しの補足弱々しい声が静寂を除けて響き渡った。
「伊灑、お通ししなさい」
「しかし、台輔―――」
声の主を振り返った女怪は心配そうに幄の向こうを見やる。姿は見えなかったが、無理をしている事を十二分に理解しているのは傍らにて見守り続けていた彼女のみである。故に不安は増すばかりであったが、主の命であれば仕方ない。
最中に言い噤んだ伊灑は俯きながらも姿を溶解していった。
「―――台輔、主上のお姿が見受けられず皆困惑しております。せめて何処へ御行きになったのかを知っていらっしゃるのでしたら、」
「……以前お話した事を思い出して頂ければ、想像はつくはずです」
男の問いを遮る静かな声には、およそ生気が無い。衾褥の擦れる音が無い事から横臥したまま話したのだと察して、
勠秦は途端閉口した。……大罪を承知の上、あの男がやろうとしている事。それを果たす為に態々伸ばされた足の先は。
「隣国、ですか」
意図も容易く予想出来る答えを告げたところで、返答はない。男の顔が前面に押し出すのは憤り。それを何とか堪えて、さらに言葉を続けた。
「覿面の罪を犯すつもりか、あの方は」
これにも返される言葉は無い。
王は重々承知の上なのだろう、麒麟の諫言を無視してまで他国へ渡った自国の王を思えば忿懣せずにはいられなかった。
……急速な荒廃は今現在深刻になりつつある。進行が早ければ早いほど、王が道に悖る行いをしているのだと、官のみならず巧の民までもがそう口にする。それは酷く悲しい現実であり、待ち受ける未来は絶望と言っても過言ではない。それこそ崩御すれば、地は瞬く間に荒廃し、妖魔は跳梁し、民は浮民に為らざるを得ない。
嘗ての荒廃を思い起こし唇を引き結ぶ
勠秦は、途端再びか細い声を聴覚に拾う。
「……将軍」
呼ばれた
勠秦は顔をゆっくりと上げる。幄が僅かに揺れて、無理をしてまで起き上がったのだと察すれば、慌てて臥牀の元へ駆け寄った。―――そこで目にしたのは、病む筈の無い麒麟の身体を蝕む痣。それらは手足だけでなく、顔面にまで斑に広がりを見せていた。
男は一瞬言葉を失う。塙麟失道の報を聞いたのはほんの数日前。にも関わらず、病は既に全身を蝕むまでに進行している。……これはやはり深刻であると判断した矢先、思わぬ言葉が塙麟の口から洩らされた。
「わたしは、主上を引き止めに参ります」
「いけません台輔、そのような御身で、」
ごそりと音のする臥牀。彼女の様子を見兼ねた
勠秦は思わずその場に片膝を着き幄を退ける。そこには臥牀から抜け出そうとして刹那身体を伏せる女性の姿。苦しげな呻き声が男の良心を苛む。咄嗟に肩を抱き支えると、不意に二者の視線が搗ち合った。
「わたし以外の誰が、主上を止められると、仰るのですか」
「―――」
途切れ途切れになる言葉の中に含まれた意思を聞き入れて、
勠秦は胸中を抉られる思いがした。
彼女の言った事は理解出来る。不甲斐なくも首肯を見せるには十分である。だがしかし……待機と告げただけでは、配慮を聞き入れそうには無い。
勠秦は無言のまま塙麟を見やる。塙麟は悲しげに笑って、肩を支えていた男の手をそっと外した。その手はさも死人のように冷えきっている。
「あとは、頼みます―――」
向けられた笑顔に、男はふと手折られる直前の彼岸花を思い出す。彼女の微笑みは、それに酷く似ていた。
それが、彼が見た最期の顔。
……数日を経て、呼ぶは鳳。
さらに二月程を経て鳴くは末声、落ちるは白雉。
今、一つの王朝が五十年で幕を閉じた。
◇ ◆ ◇
「……終わったな」
「ああ―――」
王の弔いを終えた
勠秦は内殿の庭院へ足を運び佇んでいた。
庭院は未だ手入れをする者があり花が誇らしげに咲くものの、それらは決して二者の心を和ませる事はなく。仮初の平穏で心を癒したところで、後々心が荒む事を熟知しているが故に気を緩める事は出来なかった。……何せ、これから巧の荒廃は加速するのだから。
地に膝を着き花を眺める雀頴は、先刻外殿にてあった一時の決定を思い出し、その場に出席していなかった者を振り仰ぎ見た。
「一先ずは冢宰が仮朝を預かるそうだ」
「そうか……」
相槌を打つ
勠秦はやや面が下げられ、視線は定まらない。首元に左手を掛けている事から何事かを思索しているのだろうと、長年の付き合いから察した雀頴は立ち上がる。僅かに視線を上げたそこに、眉を顰める男の顔。二者の間には幾許かの沈黙が続き、そして突如ぽつりと言葉が洩らされた。
「私は、甘いな」
「うん?」
頭を僅かに傾げる雀頴へ視線を向けた
勠秦はしかし、すぐに面を下げた。吹き抜けの天井より注ぎ込まれる光の中で、花が揺れる。目が眩む一瞬、それは儚げに見えた。
荒廃が進むにつれ、目前にある光景はやがて潰えていく。当然のように存在したものが次第に失われていくのだろう。
嘗ての荒廃を思い起こしながら、
勠秦は呟いた言葉の続きを述べる。
「将軍と言えば、十分王へ諫言できる立場だ。……にも関わらず、この有様は一体何なのだろう」
「
勠秦、」
自身を責めるような口振りに、浮かべた皮肉な笑み。男のそれは、独白に近かった。
その様子を不安に思う雀頴は名を呼び言葉を遮る。若干気を張り続け無理をしているように思えて仕方がない。近日眠りが浅いのか、それとも眠れないのか……疲労の滲む男の顔が、今は自嘲に歪んでいる。
「……あまり、無茶はせん方が」
「しとらん。考え込むのは年寄りの癖だ」
冗談を模す言葉は普段と変わらずのまま。未だ余裕はあるらしき
勠秦の様子を眺め、僅かに安堵した雀頴は口元に笑みを浮かべそっと瞼を落とした。柱を喪失した朝を長く支えるのは辛い。故に今現在の時点で余裕が無ければ長い時を耐え忍ぶ事は酷く難しい。それを熟知しているからこそ彼は憂慮したのだが、どうやら杞憂に終わるようだった。
裾を軽く払った
勠秦は再度庭院を一望し、次いで背後を振り返った。
「私は一旦官邸に戻るが……小司馬はどうする?」
「司右に用があるので、一度夏官府へ寄らねばなりませんな」
「そうか」
勠秦は頷く。これ以上の長居は無用と、身を翻し立ち去ろうとした刹那―――足がぴたりと止まった。……言い忘れていたことが、一つだけあった。
「雀頴、」
名を呼び半身を振り返らせた男に対し、雀頴は小さく返答をする。その様子に微かな笑みを以って告げようとしたのは、感謝の言葉―――その、筈であったのだが。
「ありが」
「大変です将軍!!」
最中、走廊を疾走する慌しい足音が一つ。それは
勠秦の言葉を掻き消す程の大声を張り上げて庭院へと駆け込む。鳶色の髪をした武官―――それが大僕である事に気付けば
勠秦と雀頴は顔を見合わせ、次いで肩を大きく上下させる青年を見やった。彼の顔は何故か蒼白に近い。それが只ならぬ事である事は十分に見てとれた。
顔を顰めた
勠秦は息を整える青年の元へ小走りで駆け寄り、すぐに問うた。
「……瞰逵、仕事はどうした」
「王亡き今、大僕としての仕事は激減致した次第で―――ああ、それどころではないのです!」
「兎に角、落ち着きたまえ」
「これが落ち着いてなどいられましょうか……!!」
慌てふためく瞰逵は顔を上げるなり目を剥き
勠秦を見上げる。若干泣きそうな顔をしているのは気のせいだろうかと、傍で眺める雀頴は思う。彼がこれ程までに慌てるのならば、余程のものであろうと眉を顰めた矢先―――青年の口から吐き出された言葉は、愕然とさせる虚言。
「台輔を誑かし、主上に隣国の王を弑い奉らせようとした全ての元凶は、禁軍中将軍にあると大司馬が―――!」
「なに?」
勠秦と雀頴は思わず耳を疑った。事の経路と詳細を聞き返そうとして、それは多数に近付きつつある足音により阻まれた。
振り返ると同時、甲器を纏う多くの兵が庭院へ雪崩れ込むや否や三者を取り囲む。其々の手中にある冬器を標的へ翳し、完全なる包囲の壁を築き上げた。
勠秦は右腰へ佩刀している剣の柄に手を置き、壁を一望する。数人の見覚えある顔に、それが左軍の兵である事を察するや否や双眸を変貌させた。中将軍としての貌に数人が怯むも、冬器を下ろす気配はなく。大僕と小司馬を背に、
勠秦は低声で言を発した。
「何事だ、騒々しい」
決して平常を崩さず、周囲へ問いを振りつつ顔触れを一望する。やはり、左軍に違いない。
本来、禁軍は王以外の者が動かせば大罪にあたる。だが、主無き今は仮朝を預かる冢宰が動かせるのだが……それもあくまで火急の折。そう安易に動かして良いものではない。
―――陰謀。
その他に、どの言葉が見当たろうか。
あまりに数違いの対峙の間を暫し。ようやく姿を現したのは禁軍、左軍将軍。媚びてその地位に就いた、実力無き武官。中年の男は手中にある抜身の刀を
勠秦へ突きつけると、野太い声を張り上げた。
「台輔を貶め、主上を失道へ唆さんと謂れ無き言を奏上の挙句、新たな慶の王を亡き者にせんと仕組んだ事は明白である!」
虚言を堂々と告げる将軍を前にしてなお平然を装い対峙するも、
勠秦の脳裏で駆け巡る思考は男の裏に潜む官の顔を探し出す。
―――貶めようとしているのは誰だ、と。