- 弐章 -
王の直属であり私軍とされる禁軍は左軍、右軍、中軍の三軍から構成される。黒備の場合、其々に五師の兵を引き連れ、その筆頭にあたるのが高位順から左将軍、右将軍、中将軍とされた。何れの者も最低の条件は大学を出る事であり、将軍となるには人格までもが問われる。酷く狭められた門であったが……彼の男は、見事にそれを潜り抜けてきた。
―――禁軍中将軍。氏名を
稻烙、その人である。
鍛練場では打ち合う音が絶えず鳴り響く。時折怒号が聞こえるも、すぐにそれは止んだ。しんとした静寂があると思えば、再び打ち合いの音が隙間無く響き渡る。それを幾度も繰り返し、周囲の部下を見渡した
勠秦はふと手元の戈を下げた。
先日目に留まった、金髪の髪―――その姿が再び鍛練場の隅にある事に気付き軽く頭を垂れると、彼女は踵を返し足早に退出をする。垣間見た陰鬱な様子に目を細め、
勠秦はふと内心に潜ませていた疑問をぼやく。
「……何か、あったのだろうか」
「はい?」
「―――いや、何でもない」
その場を誤魔化すように微かな笑みを浮かべて、鍛練の最中であった
勠秦は再び打ち合いに没頭する。
……ただ、休憩の合間にふと脳裏を過ぎる金髪が彼の不安を膨張させゆく。良からぬ事でなければいい―――そう思うも、何処かで気に留める自身が存在する事を、薄々と感じていた。
その夜、官邸へ帰還した
勠秦は軽く夕餉を終えると、起居に置かれた小卓の椅子へ腰を下ろし書簡に一通り目を通していた。
身に纏う物は民と然して変わらぬ袍衫。傍に置かれた火鉢は小さく、時折小さく火花が爆ぜては炭の形が崩れ落ちる。その光景は一見すれば傲霜山の麓に住まう民と変わらないが、男にとっては良質の豪奢な袍を纏うよりも質素な袍衫の方が良いと言う。曰く、必要以上の欲は芯を鈍らせる、と。
書簡を眺める内、ふと顔を上げ玻璃の向こうに目をやれば、夜は随分と更けていた。そろそろ床に就こうと、落ち着かせていた腰をようやく上げ―――ふと戸越の気配に気付く。気配はじっと佇むまま動く気はなく、一体誰かと
烙は内心首を捻りつつも戸を押し開いた。そこに在るのは―――眩い金の髪。午に男が気にしていたその人である。
「
稻将軍」
「!台、」
「お静かに」
声を抑えそっと告げられた言葉を受けて、
勠秦はすぐに閉口する。次いで戸の向こうへと気を配り、一目が無い事を認めるや否や彼女を急ぎ戸の内へ招く。催促を受けた塙麟は頷き無言のまま立ち入り、そうして背後で閉ざされる戸の音に耳を傾けた。
男は突然の来訪者に驚くも、真摯の面持ちで迎える。
「このような場に、何故」
「お話が御座います」
「……少々お待ち下さい。流石にこのような身形では非礼にも程がありましょう」
このような、と言い切る男の姿を塙麟は改め見やる。将軍でありながら民と大差の無い袍姿を目の当たりにして、普段とはあまりにも差異ある身形に目を軽く瞬かせた。……高位に身を置きながら欲とは程遠い人物だと、彼女は何気なく思う。
男が臥室の向こうへ姿を消してから程なくして、簡易ながら先刻とは明らかに質の異なった衣に身を包んだ
勠秦が、盆を片手に戻り来る。後ろ手に戸を閉めると、小卓の上に小さく音を立てて置かれたのは茶杯。塙麟は茶杯を置く手元から視線を辿り男の顔を見上げると、視線を受けた
勠秦はすぐに口元に笑みを湛えた。
「お口に合うかは分かりませんが」
「有り難う御座います」
小さな心遣いを目の当たりにした塙麟は近日眺めていた将軍の印象と引き比べて、傑物とは異なった印象に違和感を覚えて内心首を捻る。盆を付近の棚へ置き、椅子へ腰掛ける姿勢は礼儀正しい。
「それで―――お話とは一体」
切り出された
勠秦の言葉に、塙麟は意識を引き戻し現状を顧みて俯く。此処へ態々足を運んだのは、一重に主への思い―――その不安が日々募り続けるが故に。
胸中に重い鉛を抱くまま、途端塙麟は顔を歪めた。
「どうか、主上をお引き留め下さい。私ではもう……」
「お待ちください。一体、何が」
あったのか、と。そう告げようとした
烙はしかし、大凡次に出される言が呆気なく予想できた事に自然と閉口する。安易に着いてはならない予想はしかし、彼女の口から再び洩れた言葉が外れる事は無かった。
「
稻将軍は、この国が傾きつつある事を御察しの上かと思います」
「……残念ながら、存じております。やはりそうでしたか」
苦慮を顔に滲ませる塙麟を前に、
勠秦は嘗て遠い昔に見た光景と重ね合わせる。忘却した筈の思い―――それが不意に去来して、小卓の下で拳を作りやり過ごす。瓦解した国を二度目にした男にとって、台輔直々に国の傾向を伝えられるのは酷く辛いものがあった。
気は次第に落胆しゆく。治世五十年で終末を迎えるか、それとも。
「台輔、御身の具合は」
「…近頃、身体が重く感じるようになりました」
―――傾国への第一歩は、既に踏み出していたのか。
黄医への相談は否と。彼女の答えによって事態の進行を重く見た
勠秦は深い溜息を吐き出す。……出来る事ならば、三度目の失道を目の当たりにしたくはない。未だ不明な前王の崩御を引き摺っている事で尚更、失道阻止の意は強くなる一方であった。
「台輔直々のお話となれば、傾国となりつつある理由をご存知でしょう」
今しがた、塙麟は主を引き留めるようにと言った。国が傾くその理由を理解しているからこそ、彼女は人目を気にしながらも官邸に赴いたのだろう。今此処で対面しているのも単なる思惑からではない筈。そう思い
勠秦が自国の麒麟からの返答を待てば、塙麟がおずおずと理由を口にする。
「……慶の新王を道連れに、国を終わらせるおつもりなのです」
「―――」
―――慶東国。
短命の女王が数代続いた、未だ荒廃の進む国は今現在、王が居ない。慶の麒麟が新たな王を探し出したとなれば隣国としては実に喜ばしい……筈である。
しかし、塙麟の言葉が本当ならば両手を挙げて喜ぶ事の出来る事態ではなかった。
勠秦は絶句する。嘗て復興に力を注いだ王が五十年目を迎えてその意志を捻じ曲げようとしている事に、驚きと憤りを隠せない。己の寿命を迎える筈の年代頃が最初の山場だと、嘗て誰かが言っていたことをふと思い出したが、その言葉で全ての憤りを抑える事までは出来ない。
「いつからそのような愚行へ走る王に成り下がった」
「
稻将軍、」
「……申し訳ない。台輔の御前で失言を」
はたと我に返った
勠秦はすぐに目前の者へ謝罪を入れる。ゆるりと頭を横に振る塙麟はさらに顔色を曇らせ、そっと瞼を落とした。
―――麒麟は仁の生物。故に己の主が道を踏み外す事に酷く胸を痛め、尋常でない程に不安を巡らせているのだろう。
悲痛な顔をした塙麟を眺め、改めそう思わずにはいられない。心中を察する事が出来たとて、王を引き止められなければ彼女の胸中は蟠りに浸り続ける。……そう。午に垣間見た、あの姿のままで。
「午に気落ちなされた様子の台輔をご心配申し上げたが、やはりそうであったか」
「午―――」
塙麟の顔が驚きに満ちる。落胆を面に出した覚えは無い。にも関わらず目前の男は異変を察し、彼女を心配していたという。
洞察力に優れた男の顔を無言のまま暫し見詰める。卓上に置かれた茶杯へ虚ろ気な視線を落とし、左手で首元を軽く叩きながら何事かを思案する男もまた、自国の主の思惑を阻止するべく一時の思索に耽る。そうして沈黙に浸ること暫し―――僅かに目を細め、再び面を上げた
勠秦は穏やかな声音を装い事を告げた。
「……明日、朝議の後に諫言へ参ります。畏れながら、台輔も御同行願えますでしょうか」
彼が意を固め告げた、阻止への一歩。その申し出を嬉しく思う塙麟は一つ首肯を示した。彼女の口元には微笑が浮かぶ。それは、官邸へ赴いた彼女がようやく見せた安堵の表れであった。
◇ ◆ ◇
翌日早朝より開かれた朝議はあまりに呆気なくも解散となり、王の政に対する関心が消失した事を不審に思う者も居れば別段何を考えるでもなく官府へ戻る者も居る。其々が散り行く中で、
勠秦はただ一人内殿の最奥へと向かった。
朝議の際、王の傍らに塙麟の姿が無かった事から不審を募らせていた
勠秦の足は自然と速まる。積翠台へ向かったであろう主を追い向かった先、少しばかり開かれた戸の前でぴたりと立ち止まる。内より他者との対話する声を聞いた
勠秦は若干驚きに覗き込む目を見開くが、躊躇はただ一間―――男は構わず入室を決行した。
「主上」
突如として開かれた戸の向こうより現れた男に目を細めた一見初老の王は、肩に留まる鸚鵡を開かれた窓の向こうへと飛び立たせる。そうしてすぐさま訪ね来た将軍の元へ向き直り、用件を問う。―――否。問いかけようとして、それは突如やって来た男の言葉により遮断を受けた。
「主上、事は存じております。何卒お考え直し下さい」
「塙麟から聞いたのだな」
「―――主上の身を案じておられるからこそ、ご相談下さいました」
王は昨晩の訪問を知っている―――言葉では切実さを請うも、眼差しに含まれた猜疑の情が薄まる事はない。……何故知っている。やはり塙麟から聞いたのだろうか。そう脳裏に巡らせる思案は多様にあるが、今はそれらを隅へ押しやって、
勠秦は再び制止の言葉を紡ぐ。
「他国の王を道連れに国を終焉に導くなど、それこそ愚王と呼ばれる由縁となりましょう」
「……中将軍には解るまいよ」
「何を以って解せぬと申されるのか。王の役割が重責と考えておられるのならば、」
「そうではない」
王は首を横に振った。重責より逃亡したのではない―――と。そう否定した王の答えに、当然の如く反する情が
勠秦の胸中を満たす。無言のまま視線を差し向ける将軍に対し、王は
勠秦に背を向けて虚ろな眼差しで開かれた窓の向こうに広がる雲海を眺めていた。
……洩らされたのは、半ば苦にも似た心底の情。
「儂は王の器ではなかった。ただ、それだけだ」
「―――それだけ?」
呆気なく言い退けた王の言葉に、
勠秦は本来の情に任せた貌を表し睨め付ける。それは、殺気に酷く似ていた。
「主上の仰られた“それだけ”の事で国を……多くの民の命を犠牲にすると?」
王が道を失えば、台輔が失道の病に罹る。傾く次第に妖魔が跳梁跋扈し、疫病が流行り、天災が起こる。民の心は荒み、そうして巧は柱を喪失しただけで呆気なく沈み行く。……それを、王は理解した上で頷くのだろうか。
一歩を踏み出した
勠秦は、はっきりとした口調のままさらなる説得を試みる。
「まだやり直せる。台輔が失道に罹らぬ内に―――」
「もう遅い」
拒絶は一瞬。
ただの五文字で説得を否定された
勠秦は貌を硬直させ、そのまま真横を擦れ違う王の姿を目で追う。男は将軍の姿を一度も垣間見る事無く、積翠台を退出しゆく。
「主上!」
制止の声も虚しく、微かな軋みを上げる戸は無情にもぴったりと閉ざされた。
ただ一人静寂の中に取り残された
勠秦は、沈黙するまま複雑に混濁する感情を抑えていた。
積翠台を後にした
勠秦は何気なく禁門へと足を運ぶ。日々刻々と斜陽を迎えつつある国の姿を目に焼き付けては遥か昔と同様の光景を重ねては苦渋を浮かべた。
「……また、駄目か」
暗雲垂れ込める空の下、麓に広がる街並みを見下ろせば落日は近いように思える。……いや、実際近い可能性が高い。急速に変貌する遠景に只ならぬ不安を覚えながらも、奏上と見守る他に国を救う為の行動は出来ないことを理解している。……理解した上で、足掻かずにはいられなかった。
「
勠秦」
ふと官職ではなく字を呼ばれて、男は声のした方角を振り返る。そこに褐色の短髪が視界に映り、
勠秦はああ、と咄嗟に軽く手を挙げた。それは、親しげな者と言葉を交わす手前に見せる癖のようなものだった。
「雀頴、どうかしたか」
「……台輔が、失道の病に罹ったらしい」
前置きの無い突然の報告を受けて、
烙は驚きの後にすぐさま落胆を落とした。
―――麒麟の失道から心を入れ替える王は少ない。他者に耳を貸す事のない王ならば尚更、更生は酷く難しい。……詰まるところ、今現在の状況下において王が更生する可能性は皆無。
……治世五十年で、張王朝は終焉を迎える事となる。
「雀頴―――私はどうやら、三度目の崩御を見なくてはならないらしい」
「…………」
嘗て先代より賜った剣の柄を握り締める男の横顔は陰鬱を潜ませる。麓を見下ろす眼差しは哀愁強く、それはゆっくりと伏せられた。
雀頴は無言のまま
勠秦を見やる。大凡五十年ほど前に見せたものと同様の貌をする男を不安に思い、目を逸らす事無く見守っていた。
――…終末は、間近に。