巧州国国都、喜州傲霜。
かの地でもがれた一つの卵果は、黒紅の髪と蘇芳香の眼を持って生を受けた。
冬至の翌日、霜降りる明け方の事だった。
- 壱章 -
その男は、傲霜でいくらか名の知れた武官であった。
本姓を
温、名を
烙。既に正丁しており、氏を
稻と名乗る。故に氏の後には官職の名がつくものであるのだが、その男の場合、将軍と冠されていた。
男は今現在、王の私物でもある巧国禁軍、その中将軍を拝命賜る。武に関しては人並よりも長け、人望も厚い事で周囲からは多くの高評を得ていた。先々代の王の時代では州師に所属し、そこから功績を立て積み上げ、現在の地位に伸上がった兵である。
字を
勠秦。
巧国一の剣客とも噂されていた。
男の名が仙籍に記載されてから、果たして何年が経過したのだろうか。
嘗ては傲霜山の麓に在住していた男の両親や兄弟は寿命が尽きて久しい。友人たちもまた次々と失われ、結局彼を知る者は王宮の内に務める者のみとなってしまった。……知人の数が絶え始めた当時、人とは儚い生物だと呟く男の姿が頻繁に目撃されていたという。
―――男が異例の昇進を果たしのはその矢先。先々代の王が斃れ、先代の王が登極した際の事である。
王直々に
稻烙を抜擢し、中将軍の地位を与えた。これに反論する者も多く居たが、後々の功績によってその声も沈下していく。いつしか男は王から絶対の信頼を受け、ついには左将軍へ昇格する話題が持ち込まれようとしていたその刹那―――朝は急速に瓦解する。
朝廷は混乱を極め、さらなる災厄を憂う。
何しろ、当時は二声氏さえも白雉の末声を疑った。崩御したその理由が不明であるが故に。
謎の登霞を遂げた王と麒麟に朝廷内での疑問は渦巻くまま、しかしそれから大凡十月の後―――次の塙果が捨身木に実り生まれて、いつまでも解す事の出来ない疑問を彼らは遂に投げ置いた。
……ただ一人を除いては。
「将軍―――
稻将軍」
走廊を駆ける足音と共に、男を呼ぶ者がある。
ふと遠い昔に思いを馳せていた男は我に返ると、駆け寄ってくる者の姿を視界に捉える。鳶色の髪が目を惹いて、それが大僕である事を認めた。
「おや、瞰逵殿。大僕としての仕事はどうした」
「仕事の合間を見計らって、
稻将軍を探しに此処まで参りました」
「私を?」
軽く瞠目した
勠秦を見上げつつ、一見青年に見える者は頷く。今朝方禁門にてした司右とのやりとりを思い起こし、首を捻る。大僕は今日、忙しいのではなかったか。尋羽に嘘を吐かれたのかと思えば、男の眉が若干顰められる。またしてやられたと片手でこめかみを押さえながら、続けられる大僕の話に耳を傾けた。
「大司馬と左将軍が主上の元へ向かったそうです」
「ほう―――それで、事と私との関係は」
「久方ぶりに小司馬との手合わせを拝見したいという者の声が多いので、是非願えないものかと」
「なるほど」
瞰逵の言葉に相槌を打ち、ああ、と思う。大司馬と将軍が呼ばれたのならば大方、大僕であるにも関わらず人払いを受けたのだろう。ここ近日に曰く仕事の合間とは、そんなものだ。
勠秦が小司馬についてを問えば、手合わせの相手は既に諒承したという。然して断る理由もなかったので、男は快く首肯した。
「堂に手合わせ出来る程度の間を空けておいてくれ」
「承知致しました」
その返答に、顔を綻ばせるなり踵を返した瞰逵は来た走廊を戻り行く。それを幾らか見送って、男は留めていた足を再び動かし歩き始める。
走廊へ差し込む光が一瞬目を焼いて、瞬きの後に嘗ての幻影を見た気がした。
◇ ◆ ◇
前王が斃れて十数年の後、塙麟は天命を以てとある初老の男の前に跪いた。それが、大凡五十年ほど前の事である。
巧は復興を始め、前進しようとしていた。民を救わんと政に力を入れ続けた王はしかし―――今年で五十年目となる今現在、少しずつではあるが、衰退を見せ始めている。
始まりは国内の些細な変化だった。
地方では降水が少なくなった。堯帝に祈るも、然したる変化は見られないようだった。街は近日賑わいが数割ほど増して、傲霜は今人の声で溢れている。それを一見すれば、別段何の翳りなどない。
……だが。
それは、嘗て男が二度見た、斜陽の前兆。民が無意識に見せる、落日までの足掻き。王の何かしらの言動か、朝廷の腐敗からか―――原因は何れにせよ、それを止める術はなかなかに難しい。台輔の体調に異変が見られない事が未だ幸いだった。
考えを巡りに巡らせて、途端それは最中に区切られた。
勠秦が俯かせていた顔を上げ、気付けば無意識に正堂を逸れて、長々と下った先に設けられた鍛練場の前で足を止めていたのである。
そこには久方ぶりの――或いは初めて見える――出し物を傍観する為にやって来た兵士が数多く集う。禁軍中将軍と小司馬が普段腕前を披露する場は然程無し。随分と集まったものだと関心を以って一望すると、駆け寄ってきた人影に気付くや否や目を瞬かせ、次いで顔を綻ばせた。
「ああ―――雀頴」
「久方ぶりですな、中将軍殿」
穏やかに交わされた二者の会話に、周囲がはたと振り返る。目的の者達が揃ったことにより直始まるであろう打ち合いを期待して、群衆がざわめいた。年に一度と無い、周囲を惹き付けるほどの打合。
褐色の短髪、丹色の眼。一見青年でありながら老人のような口調で話すのは夏官小司馬、その字を雀頴といった。
対峙するは禁軍中将軍。その姿は普段と異なり、黒紅の長髪を緩く結えた軽装のまま左手に剣を握る。
双方はよくよく噂される剣客であり、腐敗する朝廷の中で尊敬と親和を以って接せられる者達であった。
二者は揃い歩き開かれた群集の間に立つ。打ち合いには程広い空間に良しと頷いて、
勠秦と雀頴は其々得物を片手に握り込む。二つの影を囲むようにして、群衆は輪を描き佇んだ。
「さて……小司馬殿との手合わせはいつ振りだったか」
「一年半ほど前にも、こうして対峙しておりましたな」
「そうか―――やれ、年寄りになると物覚えが悪くなる」
大袈裟に肩を竦めると、群衆からは軽く笑いが沸き起こる。
勠秦もまた微笑を浮かべて、足首を回し解していた。
……事実、夏官入りから既に百年以上が経過しているのだから、年寄りという表現に語弊はない。禁軍の兵の中には入りたての者もあれば長年身を落ち着かせ続ける者もいる。その中でも
勠秦は年長に近かった。
両者は軽く体を解すと、すぐに得物を携え構えをとる。いつ大司馬と左将軍が戻るかは未明であるが故、時を惜しまずにはいられない。
「では、拍子三つの後に」
「ああ」
二者は頷く。周囲は期待を抱き、瞰逵が小気味良い音を立てて掌を打つ。
一―――僅かに腰を落とす。
二―――双方剣を振り下ろし、
三―――刹那、爆ぜた。
地を蹴り上げ駆ける一間は人波のそれよりも明らかに長けている。双方の間は瞬く間に縮まり、先に範囲へ到達したのは雀頴だった。
振り上げられた剣の切っ先は
勠秦の肩を目掛ける。一切ぶれる事の無い軌道はしかし、高速で振り下ろされた対峙する者の剣によって制された。間近に響くは削り合う金属音。
勠秦が力で押し切り一度距離を置こうと跳び退れば、その間を逃すまいと雀頴が斬り掛かる。何度か切り結び、そうして離れると、二者は突如構えを変えた。つまりは、ここまではどちらも本当の力量を発揮してはいない。単なる軽い運動でしかなかった。
数拍の間を置き、再び雀頴が先手を取る。槍の如く突き出した雀頴の剣は同じく
勠秦の突き払う刀身によって軌道が逸らされる。無機質な音を立てて柄に突き当たった剣を引き振り払うようにして薙いだ小司馬はしかし、下方より急速に来たる刃を咄嗟に受け流した。すぐに持ち手を変えて右脇へと添えると、読み通り切っ先を返した
勠秦の刃が交差する。腕を捻り刀身を弾き返せば、雀頴は一呼吸を以って革め緊張を高める。
禁軍中将軍の地位に居座るだけあって、剣を振る速度も強さも並の比ではない。大司馬に媚を売り左将軍の地位を買った者ならば、果たして幾分保つのか。……否、幾分も保たないかもしれない。何しろ受け止めた矢先に返された切っ先を視界に捉える事が出来ないのだから、大凡太刀筋から予測する軌道と長年の勘を頼りにする外は無い。男は年を重ねる毎に技量を増していた。
何とか後方へ跳び間を置いた雀頴が手元を握り直しつつ口を開く。
「いやはや、太刀が見えぬというのは恐ろしいですな」
「私はただ力任せに振るっているだけだ。それよりも、雀頴の突きの方が恐ろしい」
「何を仰いますかこの年寄りは。左将軍殿と打ち合わせたくなりますが、はて」
「―――それはいい名案だ」
勠秦と雀頴はにやりと笑う。普段傲慢な態度を取る男を打ちのめすいい機会だと、二者は気を合わせた。―――尤も、彼らのように冬器で打ち合っては首や胴を誤り落とす可能性が高いのだが。
閑話はすぐに終着を迎える。革め構え直した
勠秦は反撃とばかりに二歩で間合いを詰めるや否や腕を振り被った。あまりにも速いそれを紙一重で躱した雀頴は剣を斜めに振り薙ぐも、すぐに受け流される。
今にも火花が散らんとばかりに軋むような音を立てて刀身を削り合い、双方の獲物が離れた矢先、
勠秦が腕の方向を急速に曲げた。腰を落とし、そのまま一気に対峙する者の懐へ入り込む。刀身を弾かれた反動で体勢を立て直した雀頴はしかし、目前に迫る刃を目にすると反射的に剣を振るった。半ば叩き落すように下ろされた雀頴の剣は、見事に
勠秦の剣を防ぎ切る。だが―――ここで一瞬、気を緩めかけた直後の事だった。
雀頴の脇腹に、剣の柄が食い込んだのは。
「が、」
痛みは脇腹から身体中へと電撃の如く駆け抜ける。思わず手から零れ落とした剣が、音を響かせて床に落ちた。雀頴の視界に映るは、ゆっくりと距離を置きゆらりと揺れる黒紅の髪。
「一応加減はしだが……怪我は無いか?」
「―――ああ」
突かれた脇腹を押さえ、体勢を立て直そうと差し出された
勠秦の手を掴み両脚に力を篭める。未だ痛みは体内で響くものの、それよりも切り傷がない事が打ち合いの中で一番の幸いであった。
途端、周囲より歓声が沸く。締め切った正堂内で群衆の声が反響し、さも倍の観衆が居るかのような錯覚に陥る。雀頴と
勠秦はその声に思わず失笑を落とし―――ふと群衆の間より垣間見たのは、金色の長髪。確かに見えた姿はしかし、雀頴から離れ群衆を掻き分け進んだ先、何の気配も残されてはいなかった。
「……見間違い、か」
―――台輔がこの場所に来る筈がない。
勠秦は思い、溜息をそっと落とす。呟いた言葉は歓声によって掻き消され、じき左将軍らが戻り来るのを知ったことから群衆はその場で解散となった。