- 最終章 -
翌日早朝。
薄暗い囹圄から抜け出した二者は、禁軍右軍の兵卒二伍に包囲されるようにして傲霜山翠篁宮へと足を踏み入れた。外は夜陰が薄まりつつあるものの、陽が昇るまでには程遠い。路門へと続く階段を上り、時折遠方より響く妖魔の奇声を耳に広いながら、上りきった先に建つ路門を潜り抜けるとようやく朝堂へ辿り着いた。外殿に諸官が揃うまでの間は其処で待たされ、囹圄中へ押し込められた者同士で幾らかの会話を交わした後にいよいよ朝議の場へと引きずり出されるのだった。
ここ五年以上、御簾を上げられた空の玉座を埋める者はいない。その虚しさを諸官は感じながらも、程なくして挙げられた朝議の題に外殿内の空気が豹変した。腕を拘束されたまま諸官の前に突き出された者の姿を目前に、様相は険悪なものへと傾いていく。
「国外追放の命が在りながら戻ってくるとは」
「自国の台輔より杖身を仰せ付けられたのならば、断る理由が無いだろう」
「台輔には大僕が居られたではないか。指令も、」
「ほう……現秋官長大司寇殿は妖魔の群集を大僕と指令五体で事足りると申されるとは」
敬うに足らない者の顔触れを一望した
勠秦の顔が険しくなる。特に六官の長は錯王時代より密謀の多い者達で構成され、魔の巣窟を思わせる。根から腐敗した朝廷を前に怪訝な面持ちを浮かべるも、大司寇の意を余裕の含まれた口調で返した
勠秦は目を細めた。宮中での感覚を取り戻しつつあるのか、普段は穏やかなそれが嘗て拝命を賜っていた将軍のものへと戻りつつある。
ぐ、と言葉を詰まらせる中肉中背の男を半ば睨め付けるように注視して、男は言葉を続けた。
「台輔は巧の高岫上空で妖魔の襲撃に遭い、血に酔われた。指令も満足に動けぬ状態で大僕ただ一人が奮闘したところで結末は見えよう」
「なんと不謹慎な……!!」
窺える結末とやらを逸早く察したのだろう、これに誰よりも早く声を荒げ腰を浮かせたのは冢宰を兼任する太宰だった。自身が居なければ今頃は塙麒の命が危ぶまれたと、遠回しに告げる男を前に反駁を飛ばす男の声を皮切りに周囲がざわめき、或いは罵声を飛ばす。統制する筈の王が不在の所為か朝議に於いての礼儀さえも欠ける光景に、
勠秦の隣へ腰を下ろしていた尋羽が落胆の色を顔に滲ませながらそっと溜息を吐き出した。
勠秦もまた訝しげに眉根を寄せると、諸官が棚上げした不利の指摘をはっきりと口にする。
「何故、禁軍一伍以上の兵を護衛として同伴させなかった」
低声でありながらよく通る男の声に、途端外殿の声が途切れた。しんと静まり返った諸官は、即座に返せる言葉を誰も持ち合わせてはいなかった。
「自国の麒麟を軽んじておられているのではないか、貴殿らは」
「前台輔を唆した者が何を言う」
「唆した言葉を、確かに聞いた者が居るのか」
「それは―――」
男の追放当時は冢宰が全てを握り、自身が不利となるものを次々と消していった。その男は今、陥王の勅命により高里へと帰還し世には存在しない。水面上下に関わらず統御を行っていた者が欠けると瞬く間に綻びが広がり、そして覆い隠していたものが今さら浮き彫りになる。現に
勠秦の問いに答えを持ち合わせる者は此処に居らず、誰もが言い惑う矢先に口を開いたのは夏官長大司馬であった。
「国外追放の命を破った以上、刑は受けてもらわねば」
赦丞という男をよく知る
勠秦は顔を顰め、逸らされかけた軌道の修正を計るように差し挟まれた台詞が官の間に響き、外殿は再び喧騒を取り戻した。国政を腐敗させた原因の一人である赦丞の姿に向けられた双眸は二組。尋羽もまた厭なものを見る目付きで大司馬を見据え、刑の確認を取る。
「殺刑か」
「ああ」
軽く顎を引き、口元を歪めた男に明らかな悪意を感じ取った
勠秦と尋羽の面持ちが瞬く間に変貌を遂げる。そこで反駁の意がどちらかより飛ばされる筈であった。だが―――不意に聞こえた僅かに渋みを含む男の声に、喉まで競り上がっていたものが飲み込まれていく。
「お待ちいただきたい」
「何かね、夏官小司馬。余計な質問ならば今すぐにでも」
「重要な確認で御座います。少々お時間を頂きたく」
「……許す。話せ」
大司馬の許しを得てゆっくりと立ち上がった男の姿に、二者もまた口を噤んだ。夏官小司馬、つまりは昨晩囹圄を訪れた雀頴がこれより発するであろう疑問に彼らは閉口し、耳を傾け始める。
「
勠秦殿はこの十八年間の間に何度か他国を放浪していらしたとか」
「ああ」
「一年前にはどちらに?」
「……確か、柳あたりか。夏の事だった。日照りが続いていた事をよく覚えている」
突然投げ掛けられた疑問に過去を振り返りながらも
勠秦は返答を紡ぐ。そこで軽く相槌を打ってみせた雀頴は問いを淡々と続けていった。
「では、半年前は」
「範へ。あれは秋分を過ぎた頃だった」
「三月前は」
「漣。南は冬でも温暖な気候であった」
「恭へはお立ち寄りにならなかったのですか?」
「二、三年前に何度か赴いている。しっかりとしている国でな、街並みが綺麗なのだが」
他国への短い感想を附属させながらも的確に答えていく
勠秦と問いを向け続ける雀頴。二者のやりとりの意味を理解し兼ね険相を浮かべた赦丞は背後に立つ男を振り仰ぐと、さも射刺すような鋭利な双眸を頭上へ昇らせた。
「何が言いたい、小司馬」
雀頴は答えなかった。……今は答える必要が無かったのだ。
閉ざされた筈の、外殿の扉が不意に開かれる。聞き慣れた筈の意外な音にちらほらと振り返る者があり、床に深く叩頭する者が見えた。それは朝議に参席する事を許されない官であり、招く筈のない者であった。
戸惑いと緊張を含みながらも発された少女の声が朝議の場に響き渡る。
「―――天官女御、苑梨。参りまして御座います」
女御と聞き及んだ矢先、諸官の中でざわめきが起こった。特に太宰へ飛ばされる疑問と指摘に当人は困惑し、朝議の場へ足を踏み入れた女御もまた不安を滲ませながら背後で閉ざされる扉の音を聞く。
「何故女御が此処へ、」
「お時間を頂く事に諒承をなされたはず。―――苑梨、台輔が王気をお感じになられた場所を覚えておろう」
「はい、確かに」
雀頴の問いにおずおずと頷いた苑梨は腕を拘束された二者をちらりと一瞥する。塙麒の言い分が正しければ―――そう思えば思うほどに、彼女の視線は冤罪を蒙った者へと向けられていた。
「一年前に台輔が王気を見出された場所を覚えておるか」
「柳に御座います。王気が移動なさると必ず私へお報せ下さいましたから」
「半年前にはどちらへ?」
「範で御座いました」
「三月前には」
「漣へ」
口早に投げ交される質疑応答に、察しの良い官は愕然として二人を交互に見比べる事となった。無論六官が気付かない筈もなく、呆然として開口する者の中からは呟きがぽつりと洩れる。
「……ばかな」
「諸官はこの証言をお聞きになられて、元禁軍将軍を殺刑に処すと未だ仰られるので御座いましょうか」
勝ち誇った訳でもない、怒りを露にするでもないその男の顔は無表情に近かった。
腐敗した朝廷に憤りを感じながらもそれに耐え続けてきた雀頴が、その事実に気付いたのは
勠秦の帰還から間も無くのこと。そこで試みた賭けに対し、諸官は猜疑と驚愕を混濁させながら朝議の場に喧騒を生じさせる。あとは塙麒を招き最後の賭けへ足を踏み込ませるのみ。
―――だが、その手前で雀頴の予想だにしない事態が外殿を騒ぎ立たせた。
「小司馬とその女御が手を組んでいたのだ、その証言は虚偽に違いない!」
すっと立ち上がるや否や前方の者へ指を差し向けたその姿は禁軍左軍将軍に違いなく、途端すらりと鞘から抜かれた剣が掲げられて鈍い光を帯びる。
―――外殿へ冬器を持ち入れる事は厳禁であるはず。
最初からこの場で討つつもりであったか……或いは。
胸の内で膨脹する焦燥と危機感に数歩を踏み出した雀頴は諸官の間から抜け出した将軍の後姿を目で追った。将軍が手中に収めた剣は間違いなく冬器であり、腕を拘束された男の首などたった一振りで落ちる事だろう。
制止の為に官の数名が群集の中から飛び出し、将軍の腕を押さえ込み始めた。それを振り払ってまで前進する将軍の面持ちはしかし……途端に酷く歪む。最悪の事態を脳裏に過ぎらせた雀頴や尋羽もまたぴたりと動きを止め、響く低声と押し迫るような覇気に息を呑んだ。
「台輔が足を踏み入れる外殿を血で汚すか、愚者」
腕を後ろ手に拘束されながらもゆっくりと立ち上がった男の、纏う気迫の何たることか。
柄を握る男の手が微かに震える。それでもなお身を退くつもりのない左将軍は床を蹴り、振り翳した刀身が一瞬煌く。
「
勠秦!」
彼らに届く筈のない距離で咄嗟に腕を伸ばした雀頴の叫びが反響した。身構える
勠秦を逃がすまいとして傾けた白刃の軌道を計る左将軍はしかし―――聞き慣れた凛とした声に、息を呑む。
「虔季」
誰もが、その場を振り返った。
開扉と同時に通る声は諸官の口を一斉に噤ませ、声の元を振り返らせる。靡く藤黄の長髪に驚き目を見張った者達を余所に、青年は官が腰を据えたままの集団を迂回すると玉座の目前を目指して颯爽と歩く。
対峙する
勠秦と将軍の間に唐突なる異変が生じたのは、衆目が前方より逸れた直後の事だった。
どちらの影ともつかないそれが床よりぬっと突出し、生え出たそれは歪な獣の姿に模られる。鉛色の剛毛に覆われた獣は時折その姿を揺らめかせ、鮮血を滲ませたような鋭利な双眸を外殿に居留まる者達へぎょろりと差し向けた。
「虔季は多々手を滑らせるので、決して誰もその場を動くことの無いよう」
禍々しさを醸す獣の主、塙麒の淡々とした声に反論の意が寄せられる事は無かった。諸官の無言を諒承の意として捉えた青年は阻む者もなく無事玉座の前へ辿り着くと、冬器を下ろした左将軍と指令を背に二者の目前へ立つ。そのまま片膝を着いた塙麒は先に尋羽と目を合わせ、微かに緩められた口端を認めてから
勠秦へと視線を転じる。
指令と凶器が間近に有るにも関わらず怯む様子の無かった男の顔に、微かな困惑が滲む。
「台輔、」
「申し訳ありませんでした。奏では傍に居たのに」
勠秦に対し真摯な面持ちで告げる塙麒の右手がゆっくりと挙げられる。それは軽く薙がれると同時に、隠伏していた者の名が小さく紡がれた。
「攵駕」
《 御意 》
途端、鼬のような獣が濡羽色の影を押し上げてぬっと頭部を突出させた。二者の腕を縛める縄がぶつりと音を立てて裂かれ、縄を腕から完全に取り払った
勠秦がゆっくりと立ち上がる。同様に膝を床から放した青年に複雑な思いを胸に抱き戸惑いを垣間見せながらも、これから行うであろう動作の前に断りを告げた。
「しかし私には、」
「
勠秦殿は困る者があればすぐに手を貸していらっしゃいました。今度はその手を、巧に差し伸べて頂きたいのです」
四十万にも満たない、民の為にも。
眼光強く告げる塙麒を前に目を細めた
勠秦は、格の異なる手助けの申し入れに未だ答えを惑わせていた。降り掛かる重圧を初めて受け止め、さらに紡がれる言葉を聞きそっと瞼を伏せる。
「他国で苦しむ民をお思い下されるのなら……どうか」
塙麒が告げるその刹那、御決断をと呟く声が男の膝辺りで零される。そっと瞼を起こし視線を落とした
勠秦は未だ腰を落ち着かせたままの尋羽を視界に捉え、双眸に込められた意を汲み取った。……それは司右が元将軍に初めて見せた、冷徹以外の貌であった。
次いで付近に佇んでいた女御へと視線を転じ、切望を湛えた少女の面持ちを愁う。不意に脳裏を過ぎる青年の姿に、
勠秦の眼は自然と遥か壇上に拵えられた玉座へと向かう。
―――聾源。
胸中で問うた。
彼の意志を引き継いで良いのか、と。
「……最後に聞くが……間違いでは無いのだな?」
「はい」
深い首肯を見せ、肯定を口にする青年の顔が希望に満たされていく。自身に向けられた天命をようやく受容した
勠秦はひとつ溜息を落としてから、改めて塙麒と向き直った。
「波乱は有ろう」
「充分に覚悟しております」
「……そうか」
答えを聞き終えた
勠秦の面持ちが途端に和らぎ、ふと玉座に向かい膝を折り屈したままの諸官を一望する。その面持ちは実に様々なものであったが、果たしてこの場に居合わせる者の誰が反駁を口に出来るのだろう。天命に反論をする者は天に叛意ある者として見做されるのだから。
冤罪の撤回が最後まで叶わなかった事に唯一後悔を覚えていた男はしかし、これより足を踏み入れるべき途を心中にて確かに承諾し玉座を振り返る。
背負う玉座への重責を思い、覚悟を心底に据えて。
「巧を救えと天が仰るのなら、それも良かろう」
天命を認めた男の言葉を聞き取り終えた塙麒は床へ徐に膝を屈した。嘗ての苦い思いが過ぎる中で、今度こそ傍を離れない決意を胸に抱きながら、下げた視界に映る両手と双眸の距離を次第に縮めていく。他者ならば身に掛かる筈の制止も無く、額を男の足の甲へと近付けた。
「天命をもって主上にお迎えする」
明澄な声が、二度目となる盟約の言葉を紡ぐ。額に集うは光明。希望を以って綴る天意は、さも告げ終える時を惜しむかのようにゆっくりと。
「これより後、御前を離れず、勅命に背かず、忠誠を誓うと誓約申し上げる」
紡ぎ終えて訪れる沈黙の間は幾許も無く。
官が一人、また一人と叩頭を行う中で、頭を深く垂れ時を待つ塙麒へ視線を落とし続けていた
勠秦は、口端を緩めそっと瞼を伏せた。
「許す」
ただその一言が、民の希望へと転じると信じて。
―――塙王、登極。