- 拾玖章 -
「よもや、再会の場が囹圄内になろうとはな」
「ああ、まったくだ」
湿りきった空間の中。
細長い途とは格子のみで区切られた房間の内にて、薄暗さを厭う様子も無く砕けた口調で言葉を交わす者達の姿があった。
一方は胡座を掻き、もう一方は正座のまま会話を続ける。漂う陰湿な空気に浸る様子は微塵も有らず、十八年ぶりの話に調子良く言葉を投げ掛けていた二者はしかし、男が切り出した本題により唐突に終わりを告げる。
「何をしに来た」
「単に台輔の身杖でな。そのまま引き返そうと思っていた矢先に見つかった」
情けない事だと肩を軽く竦めてみせた
勠秦の様子から一見現状を軽視しているかのように思われたが、それはあくまで表面上に過ぎなかった。そう振舞う事で気を紛わせながら、どうする事も出来ない現状を冷静に受忍した上で打開策を思案している。だが―――呪の施された格子を破る術は持ち合わせておらず、結果旧人と共に合議の結果を待ち続けていた。
「……一つ聞きたい」
先に囹圄入りを果たしていた男――尋羽は傍らの男へ視線をくれる事もなくぽつりと言葉を投げ掛ける。冷静な面持ちは
勠秦の記憶に残るものと然程変わりなく、潜ませた怪訝さが唯一の変化だろうか。
問われた者の返答を待たずに口を開いた尋羽は、僅かに目を細めてさらなる問いを紡ぐ。
「陥王に余計な事を吹き込んだのは、貴殿か」
「それは、一体どういう」
突如挙げられた先代の王の諡号に
勠秦は思わず尋羽をまじまじと凝視する。余計な事―――その詳細を躊躇いがちに問いかけ、途端睨み付けるような男の双眸が疑問を面に湛えた者へ向けられた。
「登極一年目、勅令によって冢宰が殺刑に処された」
「!」
告げられた事実に
勠秦は愕然とした。禁軍中将軍を国外追放の命に処し後に迎撃を下したであろう黒幕の冢宰は未だその地位にて健在しているものだと彼は思い込んでいた。それだけに受けた衝撃は大きく、
勠秦は瞼をぐっと押し上げ見開くまま眉間に皺を寄せる。まさか、と内心猜疑を抱く者へ、途端さらなる衝撃が突き刺さった。
「二年目には禁軍三将軍を罷免、その空席には州師の将軍が就いた」
「……」
左将軍は地位を購い、右将軍は追従者だった。冢宰が殺刑、将軍二名が罷免ともなれば朝廷はさぞかし混乱を極めた事だろう。
「そのどれもが理由も聞かずに、だ」
「……聾源が」
嘗て聾源に対し
勠秦が口にした巧の内情は、結果的に黒幕と周囲の者を地へと引き摺り落とした。だが……事情を問わずに下した勅令は拙かった。官の信用を失墜させ、朝議は荒れ、その果てに疲れ果てた青年は登極から五年目にして禅譲したのである。
「狭量な王が張った片意地は結果的に朝廷を混乱させる事となった。……だが、大元を放り出したからといって膿を出し切った訳ではない。内通していた者を割り出し、所業を問い詰めねば意味が無かろうに」
そう吐き出しきった尋羽の面持ちは暗い。
―――では、と
勠秦は思う。彼が禅譲した理由は、背負う玉座の重責に耐えられなかった所為であると。
玉座の重みは国の未来、民の命の重さであり、それらを背負う覚悟を据えておかなければ朝を長く保つ事は困難を極める。かの青年ならばやって退けるであろうと、そう信じた
勠秦はよもや自身の言葉によって朝廷に火種を生じさせてしまうなどと思う筈も無く。
俯き左手で顔を覆った男は暫しの間沈黙を落とした後、深い後悔と共に溜息を吐き出した。
「すまなかった尋羽。それは私の責任だ……もう少し、踏まえておくべきであった」
心底からの謝罪が囹圄内に響く。
今さら取り返しのつかない事実への後悔に苛まれる
勠秦を横目で見やった尋羽はそっと溜息を零し、すぐに視線を逸らすのだった。
勠秦の囹圄入りから早五日。
二者の間を行き交う言葉が少なくなりつつある頃に、ただ一つ訪う者の姿があった。彼らが滞在を余儀なくされた房間ほどの空間、その格子の前で足を止めた者は灯篭を片手に持ちながら、懐古を含みその字を久方ぶりに呟く。
「
勠秦」
「……雀頴か。上はどうだ」
再会を祝す言葉は無い。口元こそ緩めたものの、単刀直入に問うた
勠秦の言葉に視線を逸らした雀頴は不意に尋羽と目が合った。彼もまた結果を耳に入れておきたいのだろう……無言のまま予測出来るであろう先を待ち、向けられた二者の双眸に苦渋の表情を浮かべた雀頴が僅かに頭を前方へ傾ける。
「それが……殺刑に処す、と」
「やはりそうか」
「おい、」
納得を示すような
勠秦の言葉へ咎めの声を即座に入れた尋羽の顔が渋面を作る。安易に受け入れるな、と言外に告げる男の意を汲み取った者はそこでようやく苦笑を零し、くつくつと笑いを漏らしながらも決定の裏に存在する官の思惑をしっかりと読み取っていた。
「この機会に消し去れば、余計な情報が出回らんからな」
「……」
水面下をも知る男の存在はただ煩わしいのみ。ここで首を断てば目の上の瘤は失せるのだと。所業を隠匿するには一番の手であると変わらず苦笑を零す
勠秦に、雀頴は敢えて告げる事を止めた。
―――彼らは焦燥に駆られている。一日でも早く殺刑を望み議論するその理由を雀頴が知る事は無い。情報が直接漏らされる事は無かったが、まるで何かを懼れているような言葉が朝議中に行き交うのだ。
まさかと、脳裏を過ぎらせる予感を敢えて身の内に留め置く雀頴は、ふと顔を上げた
勠秦の問いに顔を綻ばせる。
「台輔は」
「回復しておられますよ。明後日には朝議にも御出席なされるでしょう」
「ならば良かった。台輔には早く王を見つけてもらわねば」
「……」
―――もしも、諸官の危懼が現実と化したならば。
薄暗い囹圄の中で胡座を掻き見上げ来る男の姿を瞬きも忘れじっと見据えた雀頴は、無意識に作った拳の内に手汗を掻き始める。
果たしてどちらが早いのか。それこそを、官が危懼し焦燥に駆られているのだとしたら。
「……
勠秦殿」
「どうした、急に改まって」
「……いえ、何でも」
「……?」
思わず男を呼びかけた雀頴はしかし、すぐに話を区切らせた。どちらにしろ明日か明後日には判明する事であると口走りかけた言葉を飲み下すと、丁寧な拱手と共に本題を切り出す。
「お二方、明日に朝議の場へ御同行頂きますよう」
「ああ」
其々の首肯を認めた後にそそくさと踵を返した雀頴は出口へと向かい足早に歩を進めていく。遠ざかりゆく者の姿を何気なく目で追いかけた尋羽はそっと溜息を落とし、次いで傍らより聞こえる男の本音を耳にする。
「……本当は、諦めたくなど無いのだが」
旧友の言葉は、戸を潜る直前の雀頴へも確かに届いていた。
◇ ◆ ◇
-達観-
負の情が渦巻き澱む翠篁宮内で塙麒の内心が晴れた事は数えるほどでしか無かった。
喜州候としての政務を終えた巧国麒麟は女御に付き添われながら仁重殿への走廊を歩く。奏にて回復した体調は巧へ足を踏み入れてから若干悪化し、禁門での一騒動で兵が無配慮に吉量を斬り捨てたために塙麒の体調はいっかな回復へ向かう気配がない。悪化の一歩を辿る中でもやるべき事をこなす為に広徳殿を訪れ、そして夕餉前には仁重殿へと戻り行く。そんな日常を繰り返して早五日―――夕刻の空を見上げてふと立ち止まった塙麒は違和感に思わず首を傾げた。
「?」
気になる方角、即ち王気が塙麒の気付かない内に動いていた。体調が思わしくない所為で感じ取る事が出来なかったのかと、胸中にはただ疑問を感じるばかりである。
(いつの間に移動を……)
青年が気付いたのは今であるが、王気は一所に滞留している。その方角をじっと見詰めていた塙麒はしかし、付き添っていた女御が振り返り声を掛けられた事によってはたと我に返った。
「如何なさいましたか、台輔」
「いえ、何も」
慌てて頭を左右に振った塙麒は笑みを繕い、そうして王気の感じる方角へ腕を伸ばす。此処からではしっかりと捉える事の出来る地へ指を差しつつ、顔は親しき女御の元へと向けられていた。
「苑梨、奏はあちらだと思っていたけれども」
「?いえ、台輔が示される方角に違いは御座いませんよ」
「え?」
思わぬ言葉に塙麒は一瞬目を見開いたまま硬直した。指差す方角は間違いなく南の大国へと向けられている。今更ながら方角を勘違いしている塙麒の様子に首を傾けた女御――苑梨は未だ不調である青年の姿を不安に思いながらも困ったように眉尻を下げた。女御という身分故に余計な詮索を入れる事は無かったが、話を誤魔化すように切り出された別の話題に苑梨の顔色が曇りゆく。
「体調は回復したから、明日は朝議に出席できるよ」
「―――その事なのですが」
気拙そうな顔を窺わせながらも話へ便乗する苑梨を前に、塙麒は言葉の続きを待つ。視線を落とし顔を俯かせる少女は次の台詞を言い渋りながらも、言わなければならない話をおずおずと口にした。
「諸官が、もう暫く朝議をお休みになられては如何かと仰られまして」
「官が?でも……」
返そうとした塙麒の言葉は直前で飲み込まれる。これまでも何度か官から朝議を休むよう勧められた事があった。その度に不審な噂が出回り、官が良からぬ事を水面下で行っている事を感じてきた。最近は色濃く感じる諸官の所業に頭を悩ませていたものの、今現在王は不在―――どうする事も出来ずに苦悩する日々を送っていた矢先にやってきた何度目かの進言に思い悩み、ふと顔を上げた塙麒は傍らの女御の元へと視線を転ずる。
「苑梨は、どう思う?」
「私などの意見をお聞き入れ下さるのですか?」
「一意見として聞いておきたい」
深く頷く塙麒を前に苑梨もまた思い悩む。余計な進言は厳禁であると予め釘を刺されている身ではあったが、それよりも先日聞き及んだ件が脳裏に過ぎり不安を抱く。……幸い、此処に立てられている耳はない。
そこで意を決した苑梨は息を吸い込むと、声を潜めながらも彼女自身の意見を初めて主張した。
「……朝議に御出席なさいませ。明日の朝議は元禁軍将軍の―――
勠秦殿の殺刑日を決められるのだととある方よりお聞き致しましたから」
「!」
苑梨の言葉を聞き受けた塙麒の双眸がぐっと見開かれる。殺刑日の決定―――そのような話は、一切耳にしていない。諸官は誰も教えてくれなかった。
ただ一人だけ知らされなかった明日の予定に、塙麒の声が自然と荒げられる。
「
勠秦殿は冤罪だ!」
「!た、台輔―――落ち着いて下さい」
塙麒の大声にびくりと肩を跳ね上げた苑梨が左右の走廊をさっと確認しながらも慌てて制止の言葉を掛ける。声量は出来る限り抑えられたままであったが、はっと我に返った塙麒もまた自身の口を掌で覆った。二者の会話が官の耳にでも入れば、塙麒は確実に明日の朝議への出席を拒まれる事だろう。体調の悪化を狙い流血沙汰を起こす可能性も十分に考えられた。
日没間近の空へ身体を向けた塙麒は手摺を両手で掴みながら顔を俯かせる。そのまま吐き出しかけた溜息はしかし……何故か喉元で停滞を開始した。
「―――」
「……台輔?」
女御の呼びかけにも応じない塙麒の視線は、ただ一方を向く。否、正式には真下……傲霜山の麓へと。
―――息が詰まる。
―――胸が苦しい。
無意識に右手で胸倉を掴み握り締めた青年はゆっくりと息を吐き出しながら、振り返る事もせずに背後の苑梨へと問いを投げかける。
「……苑梨、傲霜山の麓に囹圄が在るの」
「?え、ええ。左様に御座いますが」
それが何か、と呟きつつ疑問を胸に傍らへ並んだ苑梨は青年の顔を覗き込む。その横顔にぎょっとして目を見開き、驚愕せずにはいられなかった。
塙麒の頬に伝う、涙。無表情のまま流れ落ちるそれに当人は気付かず、それよりも彼にとっては気にしなければならない大事な事実に今ようやく辿り着く事ができた。胸を締め付ける苦しさが、酷く大切なもののように思えてならない。
(―――ああ、そうか…)
靄の晴れた心中で決された意に、手摺と胸を掴む手に力が篭る。尊き者の落涙は瞬く間もなく麓へと消え去り、それでも彼の視線は真直ぐに地へと下ろされ続けていた。