- 拾捌章 -
陽のある内では犇く広途の喧騒も、日没を迎え更ける頃には呟きの一つすら聞こえない。
しんと静まり返った臥室の中、臥牀上に半身を起こしたまま腰を沈ませる者は脚に掛けられた衾を軽く握り締めながら僅かに俯く。臥牀の傍らに寄せられた榻へ腰を落ち着かせている青年は、悄然としている尊き者へどう言葉を掛けて良いものかと思いあぐねながらもその称を恐る恐ると口にした。
「台輔、」
「どうして」
青年の呼びかけによって滞留させていた塙麒の本心が胸元から競り上がり始める。疑問の声から始まる言葉に伴い、顔には憂いが滲み始めていた。
「王気は確かに、隆洽に在る筈なのに……何故」
「しっかりなさって下さい。きっともうじき現れますよ」
「……」
――じきに現れる。
そう希望を抱き、鬣を氈帽で覆い隠し巡った隆洽の街中には、確かに王気たるものが存在した。だが、いざ感じ取るままに進むと、突如靄が掛かったように王気が朧気と化しただ一つの街中にも関わらず中々逢えずにいる。何故、と自身に問いかけようとも答えは見出せず、現に今も王気を見出し方角まで割り出せている。だが、それでも舎館を飛び出した矢先に曖昧と化すのだろう。
自身の麒麟の性が可笑しくなってしまったか、或いは……十年も経たず早々禅譲してしまった陥王に対する謝罪と後悔が無意識にそうさせているのやもしれないと、一人悶々と考えながらも導き出した決意がひとつ。
「―――決めた。一旦、巧へ帰還する」
「台輔!?」
自国の麒麟の宣言に思わず瞠目した瞰逵が腰を浮かせた。夜更けである事を念頭から取り払ってしまったのか、荒げたその声量は大きい。愕然とする大僕の顔へ視線を転じた塙麒はゆるりと頭を横に振って、真剣な眼差しをじっと向ける。青年の反駁を十分に察しながらも意志を曲げようとしない理由は真昼の喧騒にあった。
「ここは他国、これ以上の迷惑を掛けては宗王や宗台輔に申し訳ない。後日改めて来ようと思う」
黄領地である首都州での騒ぎは身を退く理由の中でもやはり大きく、流石に未だ続く喧騒の一件を取り上げられては反論の仕様が無いのである。一度は自然と閉口し、塙麒の意志を尊重する瞰逵であったが、途端に何かを思いついたのだろう―――ふと上げられた面には微塵ながら希望が含まれていた。
「……では、私に杖身を手配させて頂けますか?」
「?それは、構わないけれど」
その提案のみで希望を抱く理由を察し兼ねた塙麒が疑問に眉尻を下げる。往路の急襲事件もあり、杖身の提案を挙げるのは塙麒を心配する官として当然に近い行いだった。麒麟が妖魔に襲われ亡くなった場合黄旗が上がるまでに最低五年、王を中々捜せず二十年以上も蓬山に留まり続けていた麒麟の例もある。それよりは捜索の方が良いと考える瞰逵であったが、塙麒は意味を察し兼ねているばかりのようだった。
「失礼する」
「ああ、
勠秦殿。丁度良いところに」
「ん?」
考える塙麒と瞰逵の元へ、夜中の来訪客が一つ。昼は巧国難民の者達による喧騒に包まれるため夜更けに訪う事を決めた
勠秦は、今日もまた密かに起居から臥室への戸を開き足を踏み入れた。来客を迎えた瞰逵はそこで一旦区切るつもりであった説明を繋ぐ。
「翠篁宮帰還までの杖身をお願い致したいのですが」
「―――瞰逵、」
「大僕、
勠秦殿が?」
「左様に御座います」
頷く瞰逵の顔に湛えられたものは満々の笑み。きょとんとする塙麒はちらりと来訪者の顔を窺い、あからさまに顔を顰めてみせた
勠秦は咎めるような口調で提案に制止を掛けた。
「待て瞰逵、事情を知らぬお前では無かろう」
「では、この機会に台輔に存じて頂きましょう」
青年のさらなる提案から、陥王時代に説明を通してはいなかった事実を汲み取った
勠秦の顔色が瞬く間に豹変する。奏上を敢えて行わなかったのか、それとも叶わなかったのか―――これには言葉を挟む事無く、塙麒の元へ向き直った瞰逵が紡ぎ始めた自身の事情に耳を傾けていた。
「
勠秦殿が元禁軍中将軍であった事は、以前にお伝え致しましたね」
「ああ、うん」
「この方は冤罪により国外追放を受けて今、此処に居られるのです」
「……え?」
冤罪、と告げられた言葉の理解に一拍を要した塙麒の双眸が大きく見開かれる。蒙った謂れ無き罪を否応無く背負わされているその事実に困窮し、思わず瞰逵と
勠秦の顔を交互に見比べた。多少の差異はあるものの二者の顔は真剣そのものである。
「台輔……塙麟を唆し、錯王を失道にまで追い込ませたという証拠一つ無き冤罪によって」
「そんな……そんな話は、一度も」
「陥王が我等の奏上に耳を傾けられる事は一度も御座いませんでしたから」
愕然とする塙麒に対し零される大僕の微かな苦笑。当時は陥王が諸官の奏上を聞く事など一切無く、結果として冤罪による国外追放の撤回を求める事は叶わなかった。その事実を無言のまま聞く
勠秦は眉根を寄せ、しかし次に綴られた瞰逵の本音に軽く目が見開かれる事となる。
「国外追放の命は未だ解けてはおりませんが、国を思う心は我等と同様。荒廃の進行した地とはいえ国の姿を彼に見せて差し上げたいのです」
「瞰逵……」
「ですから台輔、どうか」
真摯な面持ちで事を持ち掛ける青年の心遣いに、男の胸が痛む。
突如作られた一時帰郷の機会。理不尽なものとはいえ命に背く躊躇と帰郷への期待が交錯する。混濁する感情を抱え始めた
勠秦は、間も無く幾らか表情を和らげる塙麒が口にした言葉を聞き入れた。
「……私からも、頼みます」
「!台輔、」
「仮に見つかったとしても、私が頼んだのだと言えば諸官も強くは出られないはず」
大僕の提案を呑んだ塙麒は柔らかな笑みを浮かべ、そこで決定した巧行きに
勠秦は思わず息を飲んだ。……実に十八年ぶりの帰郷である。
笑みを湛える塙麒と瞰逵を交互に見やると、一間を置いた後に深々と頭を下げた。まるで、込み上げる情から歪めた顔を見せないように。
「――すまない」
◇ ◆ ◇
翌々日の早朝、準備を整え十二門の開扉と同時に奏国隆洽を旅立った三者は、其々騎獣や指令を手繰り巧国高岫を目指して上空を駆ける。まずは奏の手前から見回るべく、高岫山を越えた先に存在する街へ降り立った。閉門間近の夕刻方に滑り込むまでは良かったものの、どこか暗澹とした街の重い空気に
勠秦の足が自然と止まる。遠い記憶の中に存在した嘗ての光景と同様、荒廃に伴う街と民の様子に思わず顔を歪めながらも、その日は街で一晩を過ごした。
翌朝、喜州傲霜を目指し高岫を旅立った一行は最中に見つけた里へ休憩がてら降りる事となった。大きく弧を描き地へ降り立った騎獣から身を下ろした者達はしかし、廃れきったそれを見上げて愕然とする。
「……里が」
上空からでは捉える事の出来なかった里の様子。里閭は中程から何かが衝突したように屈折し半壊のまま、付着した砂埃によって廃墟を思わせる。墻壁は崩れ落ち、爪跡にも酷似した瓦解部分に赤黒い滲みが残されている。おそらくは妖魔の襲撃を受けたのだろう。
瓦解部分より覗き込んだ院子には最早何も無いとしか言い様が無かった。雨風に曝され続けた無人の里内、そこに建つ堂屋はほぼ全壊の状態のまま、人々に放置されたままの里は夜の如くひっそりとした沈黙を落とし込んでいる。
「墻壁が崩れてから随分と経っているな」
「では、此処に居た民は……」
「今はおそらく慶や雁、奏あたりかと」
そう言い切った瞰逵の視線は明らかに里から外されていた。敢えて背けたと言っても良い。荒廃した地を一望し、最後にちらりと里の内を覗き込んだままの
勠秦を一瞥する。辛うじて残る墻壁に片手を添えたまま無人の里を眺める男の顔は酷く歪められている。その理由は最早言うまでも無い。瓦解した墻壁の赤黒い滲みの先、雨風に曝され最早臭いすらも残されていないであろう屍体。その腕らしき白く細いものは堂屋へと向けられている。それは助けを求めた唯一の痕跡だった。
勠秦の元へ駆け寄った瞰逵はそれを一瞥したのみで視線を逸らし、男の顔色を窺う。
「大丈夫ですか?」
「ああ―――台輔、ご不調は御座いませんか」
「大丈夫だけれど……」
横に振られた頭に、内心安堵する
勠秦と瞰逵は早々に里から離れる意を固めると、里から少しばかり離れている塙麒の元へと足早に歩み寄る。前進の催促を入れ、あっさりと首肯する塙麒は指令に騎乗しながらも、里が気になるのかちらりと一瞥をくれていた。
三騎が飛び立つその手前、
勠秦はふと手綱を握り直しながら傍らの者へ巡回の許可を呈する。
「後々、傲霜の麓を回りたく思いますが宜しいでしょうか」
「ええ、どうぞ」
快く頷く塙麒は敢えて顔を綻ばせる。十八年ぶりに故郷を訪れた者にこのような荒廃を目の当たりにさせる事は酷く躊躇われたものの、積極的な申し出への拒否は流石に出来ず。
再び喜州傲霜を目指し上空の疾走を始めた三者は暫しの間無言であったが、塙麒が隣を並走する吉量の主へ声を掛けた事によって沈黙は突如破られた。
「
勠秦殿」
妖魔を警戒し空を一望していた男が反対方向を振り返る。意の含まれた青年の顔を眺め、そこで中々言葉への変換が難しいであろう問いを汲み取った
勠秦は目尻をほんの僅かに下げ顔を綻ばせながら風に紛れないようはっきりとした口調で答えを告げた。
「十八年ぶりに御座いますが、荒廃は錯王時代とそう変わりは無いかと」
「しかし……」
塙麒は錯王時代の巧を知らない。それでもこのような荒廃にまで進行はしていなかったはず―――そう考え返す言葉に思いあぐねるも、次いで男の口より発された国の行き先に閉口せざるを得ない。
「尤も、瑞雲を見られる日がそう遠くないのならばこの地も救われる」
「―――」
王を求める声が、此処にも一つ。
ちくりと胸に突き刺さる
勠秦の言葉に、視線を前方へ戻した塙麒は遠い目をする。隆洽で王気を見出したにも関わらず盟約もせず帰還を決めてしまった、この調子で王の元へ辿り着く事が出来るのだろうか。
青年の胸中に過ぎるのは、二度目の盟約への不安。暗君を選んでしまう可能性への恐怖。去来するのは王を喪失した当時の悲痛。
「どうか、巧に良い王をお据え下さりますよう」
男の願いに頷く事は叶わず。込み上げる全てのものが混濁し、僅かに俯かせた顔に憂いが滲んだ。
青年の横顔を眺めていた
勠秦は自身の言葉によって悄然としたその姿に思わず顔を歪める。王を選ぶ事の出来る唯一の存在、その重責への苦はやはり大きなものであるのだろうと。
彼の心境を察した
勠秦はそれ以上の言葉を差し入れる事も無く、塙麒に倣い無言のまま再び前方へと顔を向ける。瞰逵は二者の様子を伺いながらもやはり口を出さず、妖魔への警戒を続けていた。
喜州傲霜、その中心に聳え立つ傲霜山の中腹に存在する禁門付近へ複数の点が現れたのはちょうど午を過ぎたばかりの事だった。
禁軍左軍二伍―――数にして十名の兵が禁門の警護にあたり、彼らが上空の染みを肉眼で鮮明に捉え始めた頃には誰もが構え始めていた冬器を下ろしていた。弧を描き門前の平坦な地へと降り立つは藤黄の鬣を靡かせた巧国麒麟を先頭とした三騎の姿。塙麒の指令は地へ溶け込むようにして隠形し、数歩を踏み出した。
「台輔、お帰りなさいませ」
「ああ……」
頷く塙麒。その後方に立つ一名の姿が夏官大僕である事を兵らは認めるものの、その傍らに立ち大僕と幾らかの会話を交わす人物の顔は風除けの布で覆われている。正体は不明であったが、立ち去ろうとする姿から奏で雇った身杖である事を察し、彼らは敢えて追及の言葉を飲み込んだ。
「では、」
すぐに吉量の背へ騎乗した男は手綱を握り、馬首を巡らせる。荒廃した地とはいえ、酷く懐かしい風景を彼が忘れる事は出来なかった。禁門からの景色をざっと一望した男はさらに大僕と言葉を二、三言交わし―――久方ぶりに受けた、峰に沿って流れ込む風の塊に咄嗟の対応が叶わず。
向かい風に押される身体。風除けの布を押さえようとした手が布端を掠めてするりと首から抜けていく。さっと顔色を豹変させた塙麒と瞰逵と同時、兵の一人が深刻な面持ちのまま声を荒げた。
「!まさか、」
彼らの胸中で一気に競り上がる警戒心。一度下ろした筈の戈剣が構えられ、吉量を飛び立たせまいと兵の数名が駆け出した。
「
稻勠秦!!」
「!」
叫ばれた自身の名に思わず振り返った
勠秦もまた刀佩していた冬器を抜刀する。だが―――駆け来る数名の内見覚えのある兵の顔を見つけて思わず呆然とした。それは嘗て、禁軍中軍に所属していた兵卒の一人だった。
先駆けた兵の一人を打ち払い、さらに手首を捻りもう一人の剣を跳ね飛ばしてから腹部を容赦なく蹴り飛ばす。そのまま禁門を後にしようと手綱を振るいかけた
勠秦はしかし、不意に遠方より聞こえてきた声によって再び身を振り返らせる事となる。
「捕らえろ!」
「!雀―――」
雀頴、と。
夏官小司馬である嘗ての友の名を口にしかけた男の視界が突如大きくぶれた。
嘶きを上げて転倒する吉量。そこから投げ出された
勠秦は咄嗟に地へと着地するも踏鞴を一つ踏んでから手中の冬器を構え直す。退路を断たれた事で焦燥に駆られ、さらに構えられた弓を目にするや否やぴたりとその場で足を留めた。
―――最早、これまでか。
尽きたらしき命運に、深い溜息を落とした
勠秦は自然と両腕を挙げる。開いた掌から滑り落ちた冬器が甲高い音を立てて地へと落下し、同時にどっと駆け出す兵の姿を最後の視界に、そっと瞼を落として。
「
勠秦!」
捕獲の命に従い男へ飛び掛かる複数の兵。遠方で叫ばれる名を聞きながら、腕に走る痛覚に顔を歪めながらも拘束されるままに身を委ねていた。