- 序章 -
天をも貫き、屹立した雄大な山―――傲霜山の頂に、翠篁宮は存在する。雲海上に浮かぶ小島上にはいくつか顕在する建物が窺えて、基とした釉薬の色は翡翠。波打ち際に建つ月白の壁により浮き立つ色は陽の照り返しで薄く淡い色彩を放つ。一見豪奢な建物の建つ山はしかし、雲海の下へ出ると様子は瞬く間に変貌を遂げた。
山麓から波紋を押し広げたように建つ街並みは、垂れ込める曇天により薄暗い景色の中にある。……だが実際、天候だけが街の模様を作り出しているのではなかった。
巧州国都、喜州傲霜。
街は日常よりも幾分か賑やかな、午過ぎの事である。
雲海に隔てられた傲霜山の中腹では、間近に春が迫りつつあるにも関わらず風に含まれる冷気は依然として変化を見せず。峰々を沿い流れ、巨大な空洞へと風は流れ込む。吹き溜まりが緩く逆巻いては再び峰に沿い押し出され、身構えもなく山麓を見下ろしていた男は追い風を背に受けて無意識に眉根を寄せた。
「まだ寒いな……」
呟きは誰に向けられる訳でもなく、言葉は突風が掻っ攫う。旗袍を掻き合わせ、耳元を掠める冷風に耳を傾けた男はしかし、突如背後からの声を受けて振り返った。
そこにあるのは、既に見慣れた無表情な薄香色の顔。
「またそうして眺めにおいでか」
突然現れた者の言葉を受けた男は何事かを言おうとして口を開きかけ、そして閉口する。反を返す為の言葉が、見つからなかったのである。
仕方なく僅かに肩を竦めて、裳裾を引き結えられた髪を靡かせ近付いてきた者の官職名を口にする。
「司右」
「尋羽で結構です」
言には怜悧な情を篭めて。尋羽と呼ばれた者と対するその男とは彼此数十年の縁であったが、男へ向ける態度が無愛想の他に変わった事は一時たりとも無く。心情を解するのは大凡声音のみであり、男は少なくとも彼の無表情以外の貌を見たことが無かった。
男の傍らに立った尋羽もまた模すように山麓を見下ろす。極めて小さく見える建物が傲霜山の麓を囲い密集している―――それ以外の変化を見出そうと目を凝らし始めたところで、再び傍らより呼ばれたのは官としての名。
「……役職名はあまり好きではない」
「仕方なかろう。司右を五年もやっておれば慣れなど、」
「慣れと好みは違う。言葉を大雑把に纏めた分別で視るのは如何かと」
男の若干呆れたような言葉を遮った尋羽は、口調を強めて言をきっぱりと放つ。言葉を受けた方は暫しの沈黙があって、渋々と頷く。男は別段深く解し告げたつもりでは無かったので、それ以上の追求は止し留めておいた。
次いでふと気にかかった事柄を思い出し、時折禁門にて見る顔を脳裏に過ぎらせつつ男は問うた。
「瞰逵―――大僕は」
「仕事です」
再び発せられた返答には情を含まず。いつまでも変わる事無き姿勢に半ば感心を抱くも、男は逸らした視線を遠景へ走らせる。
一見変わらぬ景色、これが快晴であれば、靄がかった景色もはっきりと見えようか。
再び背に風を受けた二者の間には何度目かの沈黙が走る。各々に異なる思考を巡らせて、ふと湧き出たらしき言葉が尋羽の口より発せられた。
「それで―――いつも眺めている景色に何か変わりは?」
視線を向けられた男は言葉を聞き受け、そして再度山麓に向け視線を落とす。緑薄き地はしかし、果たして一重に季の影響のみと言えるだろうか。
軽い返答のみを発した男は遠景を眺めつつ目を細め、そうして溜息を零す。すぐに頭を横に振って、返答を否と告げる。
「……残念な事に、普段と同じ返答は口に出来んな」
「
勠秦―――」
咎めるような声音で男の字を呼ぶ尋羽はまっすぐに男を見やる。その視線に耐えられず踵を返した男――
勠秦が足早に禁門へ向け歩き始めて、途端足を止めた。退散する様子を眺めていた尋羽は留まった事に内心首を捻ると、半身を振り返らせた
勠秦を無言でじっと見やる。彼は何事か言葉を発し、風に運ばれた事で遠くからの声ははっきりとして耳へ届いた。
「雲行きが怪しい。今はそれだけだ」
言葉を残して、男の後姿は遠ざかる。足早に去りゆくその先、あっという間に小さくなった姿は閨門を潜り抜けて尋羽の視界から完全に消え失せた。
周囲より拾う音は緩く逆巻く風ばかり。耳を澄ませて、尋羽が一人空を仰臥するその先―――今現在、広がるは蒼穹を薄く覆う曇天。
この雲行きならば確かに怪しい―――そう感じ目を一つ瞬かせた尋羽は、その後も暫しの間景色を遠巻きに眺める。
……だが、彼は気付く事が出来なかった。
去り際に告げられた言の意味が、決して外観からのものばかりではないことを。