- 拾漆章 -
夕刻。午の情景は夜を迎える手前にのみ見せる鮮やかな黄丹の色で一面を彩られ、その端にはこれから夕刻を浸蝕するであろう闇が薄らと現れ始めている。
仕事をいつもより早く切り上げた男は街の北東に位置する社へと足を運び、廟へ向かい進香をしていた。
時間は普段と異なるが、男にとっては普段通りの行いである。進香を済ませるとすぐに身を反転させ里祠より立ち去ろうとしたが、やがて駆けて来る足音を聞き入れるなりやや俯かせていた面を上げた
勠秦の顔が驚きに満ちた。
「此処に居られたのですね」
「瞰逵―――台輔のお傍を離れては」
ならない、と。巧国麒麟を一人臥室に残してきた事への不安から紡ぎ出した咎めの言葉はしかし、すぐに発された吉報によって断ち切られる。
「目を覚まされましたよ。いらっしゃいますか?」
「……ああ、」
それは、人物を特定させる為の問いを投げかけずとも察する事の出来るものだった。そこで声を潜めながらも頷いた
勠秦は瞰逵の後を追って今度こそ門を潜り出る。丁度途へ出たところで鳴り始めたのは閉門を知らせる太鼓の音。間隔を置きゆっくりと鳴らされる地響きにも似た音を聞きながら、二人は舎館への道程を急ぎ歩いていった。
舎館へ到着し、迷い無く客房へ足を踏み入れた
勠秦は臥室の戸の前でふと立ち止まる。戸の取手に触れる事を一時躊躇い、それはすぐに解消された。葛藤に打ち勝った末に背後からの催促を受けつつゆっくりと戸を開いたのだ。
勠秦が開いた先には、未だ臥牀に横たわる青年の姿がある。それまでは呼吸で胸を上下させるばかりであったが、押し開かれた淡い紫紺の双眸は足を踏み入れる男の姿をしっかりと捉えていた。
……尤も、若干怯えてはいたが。
「台輔、お目覚めになられましたか」
「はい……何とか。大丈夫です」
「それはよう御座いました」
些か緊張を抱きながらも柔らかな笑みを浮かべつつ拱手の礼を取る
勠秦に、塙麒はほっと安堵の溜息を吐く。現状を目の当たりにしたのなら、無事で何よりとは言い難い。だがそれでも、自国の麒麟が妖魔に喰われず良かったと内心思いながら男は視線を僅かに泳がせる塙麒へ説明を述べ始めた。
「台輔が血に中てられたご様子でしたので至急こちらへお連れ致した次第に御座いますが、何かご不便は」
「特には何も」
ゆるりと頭を左右に振ってみせた塙麒はふと頭の中へ直接語りかけてくる声を聞き、説明を受け入れて微かに笑みを浮かべた。この男と大僕が塙麒と指令に手助けをしてくれたのだと、指令の証言が確実ならば感謝をしなければならない。その旨を伝えようと口を開き掛けた塙麒はしかし、すぐに背筋を伸ばし再度拱手をする
勠秦の姿に目を見張る。
「大僕が傍に居られる故、私はこれにて失礼仕ります」
「あ、」
「?」
思わず声を洩らした塙麒に、退室の為身を翻した
勠秦はすぐさま足を止めて振り返る。彼が何か告げ足りない事があったか、それとも説明不足であったか、或いは。
考える前に男の口から洩れたのは短くも疑問の言葉。
「何か」
「――…いえ、何でも」
少し躊躇った後に自身が洩らした声の意味を自ら掻き消した青年は未だ不調故に弱々しくながらも微笑む。そこで追求の言葉を挟む事無く戸の前へと移動し、最後に拱手を一つ見せたところで臥室を退出した。
男の話が終わるのを待っていた瞰逵は、戸をゆっくりと閉ざした
勠秦に声を掛ける。彼の眼から見た塙麒の様子の説明を欲し、淡々として口調で述べられるそれに耳を傾けた。今は意識を取り戻したばかりで思わしくない事、全快するまでは指令も満足に動かせない為奏に逗留するべきだという事、そしてこの客房内に人を踏み込ませてはならない事を告げ、その旨を聞きしかと頷いた瞰逵は敢えて閉口したまま、客房を退室するべく戸へ向かう男の姿を見送った。
勠秦は廊下へ出ると、客房の戸をぴったりと閉ざし内より聞こえた施錠の音を聞いたところで、左手に握り込んでいた取手を離した。その理由は背後を振り返った先の光景がはっきりと示している。
「……何か」
「私達は巧国出身の者だ。是非とも台輔に目通りを」
「今台輔は血に中てられ御不調であらせられる。選定の為の眼通りならば後日改められよ」
「悠長な事を言っておる暇はないのだ、若者よ」
複数立ち留まる中の、前方に佇む男が覇気を以って男へ説得の言葉を放つ。そこに混濁する情には苛立ちと焦燥、不安が含まれていた。
「奏に住む貴殿には分かるまい。巧の荒廃ぶりを、民の嘆きを―――王の不在によって黄海と然程変わらぬ地と化してしまった国の姿を!」
「駕呈、止めておけ」
駕呈と呼ばれた男の齢は一見四十代前後。男の叫びはおそらく客房内にも届いているだろう。それを考慮した周囲の者が男を制止し半ば背を押し出すようにして舎館の出口へと向かっていく。その姿を見送る
勠秦はしかし、複数の足音に紛れず聞こえてきた呟きを聞き僅かに片眉を上げた。
「……何故だ」
勠秦の耳へ届いたのは深い疑問の声。若干震えた声が耳にこびり付き、次に発されたおそらくは本心からであろう疑問の言葉によって客房前に佇む男の眉根が寄せられる事となる。
「何故、七年もの間、台輔は王を見つけられずにいるのだ」
「……」
それに答えられる者はいない。客房の内に存在する、ただ一人を除いては。
角を曲がり見えなくなった同国出身の者達。そこで深い溜息を吐き出した
勠秦は、ちらりと客房の戸へ視線を投げやってから自身もまた去っていった集団の後を辿るようにして廊下を歩き出す。彼は今後も反駁の意を示す事は無いだろう。彼自身が男達と同様の心中でありながら咎める事など、出来はしないのだから。
◇ ◆ ◇
勠秦が立ち去った後、瞰逵は塙麒の居る臥室を訪れていた。
戸をぴったりと閉ざし、ゆっくりとした足取りで臥牀の横へ並ぶと、臥牀上で半身を起こしている塙麒の顔色を窺う。発熱による赤みもなく回復に向かっている事からほっと安堵の溜息を落とした青年は、顔を綻ばせながら頭を僅かに傾けつつ言葉を優しく投げ掛けた。
「如何ですか、台輔」
「……迷惑を掛けてしまったね。申し訳ない」
「お気になさらず。今は御身が大切に御座いますから、あまり無茶は致しませぬよう」
「分かってる」
瞰逵の自身を気遣う言葉に塙麒は笑みを湛えて応える。辛い時期を乗り越えるまでに相当な時間が掛かってしまった。その分だけ焦燥に駆られ、何故か転々とする王気に惑う。追い掛けたは良かったが中々姿が見つからずに苦悩し、そして大国へ留まり始めた事を認めてやって来たまでは良かったのだが。
身体が重く動きが鈍い。これが穢瘁によるものだろうかと片腕を動かし実感しつつ、そっと瞼を伏せた塙麒はふと先程面会したばかりの男を思い出した。瞬時に和らいだ蘇芳香の双眸が印象に残り、名も聞かないまま行ってしまった男に少しばかりの関心を持ち始める。……今思い返せば、立ち振る舞いは民のそれではなかった。
「あの方は。大僕が謙遜しているように窺えたけれども」
「あの方―――ああ、
勠秦殿の事でしょうか」
起居より聞こえてきた会話にもっとよく耳を傾けていれば良かったと若干後悔を抱きつつ、瞰逵が口にした男の字を呟くように復唱する。僅かに小首を傾げる塙麒を眺めていた瞰逵は綻ばせていた顔に懐古の念を含み始め、視線を臥牀上へ落としながら穏やかな口調で男の説明を述べ始めた。
「我々巧国夏官の者が憧れていた存在で御座いました。尤も、事情あって国を離れてしまわれましたが……
勠秦殿が、何か?」
「いえ、何でも」
頭を横へ小さく振った塙麒は、何気なく臥室の戸を眺めつつ眼を細める。近々再び男が舎館へ訪れる事をほんの僅かに期待しながら、未だ不調の身体を休ませる為に柔らかな衾褥へと身を横たえさせ、ゆっくりと瞼を落とした。
塙麒が意識を取り戻して早二日。
辰門付近にて馬車が誤り民居を囲む墻壁へ突撃した事により一辺が崩れ落ち、その補修に手を貸していた
勠秦は他数人と共に夕刻まで作業を続け、閉門の合図である太鼓が街に響き渡る頃に切り上げる事となった。
袍子姿で袖を捲りつつ手巾で額を拭う
勠秦へ、民居の主である中年の男がゆっくりと歩み寄りながら破顔する。
「ありがとな、兄さんよ」
「いや、」
勠秦はゆるりと頭を振る。今日が偶然休日だった事もあり、部屋で寛ぐにも然程やりたい事が見つからなかった為に手伝いへ向かっただけなのだが―――無論手を貸した理由を教える事も無く苦笑を零すのみの
勠秦へ、男が不思議そうに首を傾げつつ賑やかな大途を眺めながら疑問を落とした。
「しっかし、奏で隣国の王が選定されるのかねぇ」
「台輔は奏へ避難した民の誰かに王気を感じたのだと仰られた」
「あぁ……そうだったな。あんたは台輔の世話をしてるんだったか」
「世話、と言える事は何も。男手では細かな事に目が行き届かぬもので」
「ま、そりゃあそうだな」
からからと笑う男は帰宅支度を整えた
勠秦へ再度礼を述べてから片手をひらりと振り、別れの挨拶を交わす。そのまま自身の民居へ戻る為に広途の雑踏へ紛れ込み、足早に帰宅を果たした。
広くも無く狭くも無い一明二暗の構造の内、起居へ踏み込むや否や荷を榻上へ放り袍子を脱ぎ捨てると、水で濡らした手巾で汗まみれの身体を拭う。それから新しい袍へと着替え終え、髪を後頭部へ結え直すと休む間も無く起居を抜け出し広途へ足を向けた。
舎館前では未だ巧国出身者による喧騒で浮ついた雰囲気が生じていた。群集の間を縫って進み、両開きの戸の間を擦り抜けた
勠秦は二者の宿泊する客房を目指して歩く。店の者もそれなりに浮ついてはいたものの、他の宿泊客のために平静を装い廊下を歩いていた。
じき客房前へ到着するであろう
勠秦はしかし、ふと前方の墻壁に凭れ座り込む者を目にするや否や足を止めた。先日目にしたばかりの男の姿に
勠秦は顔を顰め、男は不意に留まった足音が気になったのかやや俯かせていた面を上げ、頭を傾けるや否や軽く眼を見開く。
「!貴殿は……」
「駕呈殿、と申されたか」
男の根気に感心すると共に、先日耳にした字を思い出すや否や確認の意を込めて問う。そこで軽く頷いた駕呈に起立の催促を掛けた
勠秦が取手を掴み、徐に立ち上がった男へ視線のみを向けた。
「入られよ」
「な、」
「いつまでもその場に留まっておっては舎館の者に迷惑が掛かろう」
「……」
客房前に他者の姿が無い事が幸い、一人のみならば選定に然程時間を要す事は無い。ここで潔く諦めてもらうべく男を部屋に招き入れた
勠秦は戸の向こうに立ち塞がる衝立を躱し、起居に設置された椅子へ腰を落ち着かせている宿泊者へ眼を留める。当然ながら無許可で踏み込み来る男の姿に逸早く反応したのは大僕の瞰逵である。
「!
勠秦殿、」
「三日前より客房の前に留まり続ける巧の者だ。目通りを願いたいのだそうだ」
眼を細める男の意を察した瞰逵は、そこで視界を転じると傍らの人物の顔色を窺う。今日は随分と顔色が良く、本人曰く体調は良好だという。如何か、と短く問いかける
勠秦を見返した塙麒は手中に収めていた茶杯をそっと卓上へ乗せると、小卓越しに叩頭する男を視界の中央に留め置く。……その姿から感じ取るものは、何も無く。
落胆を滲ませ俯いた塙麒の口からは、自然と謝罪の言葉が洩れた。
「申し訳ない」
「……そうか」
謝罪の中にしっかりと込められた否という返答。青年の言葉を受け取り、叩頭していた男の言葉が少しだけ震えた。
その様子を見守っていた
勠秦と瞰逵の双眸に複雑な情が篭められる。……王は一体、奏の何処に存在するというのか。果たしてこの調子で塙麒が無事盟約を済ませる事が出来るのだろうか。麒麟にしか解らないものまでが不安と化して脳裏を過ぎり、しかしながらすぐに発された断言に二人は思わず目を見開く事となる。
「だが、奏に王気は在り続けている。盟約を交わす日はそう遠くない」
「台輔……」
その言葉を他国に避難した巧国の民が聞けば、どれだけの希望となり励まされる事だろう。
体調が全快次第王気を辿り王となる者を迎えに行く旨を伝えた塙麒は柔らかな笑みを湛え、男は床に爪を立てながら嗚咽を漏らし肩を震わせていた。おそらく、国の荒廃による災害で辛い目に遭ったのだろう―――そう考え椅子から立ち上がった塙麒は、ゆっくりと男の元へ歩み寄り僅かに屈むと、慰めるように肩を優しく叩いていた。
男と塙麒の姿を見守っていた者は、何を思ったのか瞰逵の隣を離れ衝立の手前と向かい始めた。声を潜めながらも離れ行く男の字を呼んだ瞰逵が、最中に半身を振り返らせる
勠秦をじっと凝視する。
「瞰逵、また来る。台輔を頼む」
「分かりました」
頷く瞰逵を見やった
勠秦は僅かに口元を引き上げたまま衝立の向こうへと姿を消し、何の挨拶も無く開いた戸の間より起居を抜け出て行く。
……衝立の向こうへ消えたその背が、青年にはどこか寂しく見えたような気がした。