- 拾陸章 -
―――陥王。
治世五年目にして朝を自ら終わらせた巧主塙王聾源へ崩御の後に贈られた諡号である。
齢二十一にして玉座を背負った青年の功績は無い。強いて言えば、異常な速度で傾き続けた国土の荒廃を阻止した程度だろうか。……だが、それはあくまでも彼自らが腰を上げ行った善政に非ず。己が抱えた苦悩の解放だけを考え先立ち、官の期待を、民の希望を裏切り暗澹へ陥れた。絶望の意を含み与えられた号は次第に浸透し、民に巧への絶望を植え付けていく。
民が見放した国は錯王時代と然程変わらぬ速度で傾斜を重ね荒廃していった。
そうして、陥王禅譲から年月が過ぎ去ること実に七年。
勠秦が国外追放の命を受け国を離れてから十八年を迎える事となる。
未だ奏国隆洽での生活を続けていた
勠秦はその日、買い終えた食材の包みを片手に帰路へと着いていた。
奏の地は益々の発展を遂げ、平穏は常に街へ広がりを見せている。そこに翳りは微塵も無い。当初抱いていた羨望は年を重ねる毎に薄れ、いつか隣国も穏やかな景色を取り戻す日が来るのだろうかと何気なく思うばかりで。
人波を難なく抜けた男は、不意に自身の名を呼ばれて振り返り雑踏を一望する。行き交う人々の間より抜け出し男の元へ駆け来る者を視界に捉え、再度叫ぶその声を聞く。
「
勠秦殿……!」
声を耳にした男は確かに聞き覚えのあるそれに眉を潜め、やがて結い上げられた鳶色の髪と青年の顔を認めるなり驚愕に目を見開いた。それは、奏に居る筈のない人物の姿。身形は良く、おそらくは冬器であろう剣の佩刀から別段追放を受けた訳ではない事を察しながらも再認の意を込めて青年の名を口にする。
「―――瞰逵?」
「無事で何よりです……!」
破顔した青年の面持ちは実に穏やかなものだった。十八年ぶりの再会を祝う言葉は咄嗟に出ず、困惑する
勠秦は胸中に湛えられた疑問をそのまま問いとして滑り落とした。
「何故お前が、」
「一刻も早く報せをと思い、翠篁宮を抜け出して参りました」
「報せ?」
青年の貌を目の当たりにすれば吉報であるに違いない。だが―――王が践祚したという噂は流れていない。寧ろ近頃は傾国を憐れむ声と荒廃の噂ばかりを聞き拾い眉間に皺を寄せなかった日は無いほどだ。ならばどういった報であるのかと首を捻る
勠秦は、瞰逵が嬉々として紡いだ説明によって胸中の不安がほんの僅かに取り除かれた。
「数日後、塙麒が王を捜しに奏へ参ります。……いえ、実は台輔の身杖役も兼ねて御同伴させて頂く予定でしたが、逗留先の舎館を取りおく為こうして一足早く入国を果たした次第に御座います」
「……そうか」
軽く相槌を打った男は目を細め、憂いにも似た情を浮かべる。塙麒が態々高岫を越え奏へ赴くからには、王気を見出しやって来るのだろう。七年もの歳月の間に何故選定が叶わなかったのか、
勠秦はそう疑問を抱きつつも続く瞰逵の説明に耳を傾ける。
「後日、高岫山上で台輔をお迎え致しますが……
稻将軍も、」
「呼ぶな」
そこでようやくきっぱりとした断言を放った
勠秦は眼光強く青年を見やり、氏の後に付けられた官職を否定しゆるりと頭を横に振った。
「私は既に将軍職を降りた身だ」
「―――ですが」
発言に躊躇を始めた瞰逵の眼が困惑に揺れる。真っ向から否定した男の存在は、十年以上の年月が過ぎ去っても青年にとって未だに将軍という位置に固定されたままなのである。だが、復廷への期待や希望など微塵も感じさせる事の無い
勠秦の否定の言葉に、ふと瞰逵の脳裏を過ぎる男の存在がある。灯りは小さく、仄かな光のみの薄暗い空間の中。格子の向こうに毅然とした態度で腰を地に落ち着かせた、沈着冷静な男の姿を。
「司右は今、囹圄中で御座います」
「……尋羽が?」
そこで声を潜めながらも驚き問い返した
勠秦に、瞰逵は真摯な面持ちのまま深く首肯する。
「はい、白雉の足の件で」
「!」
―――そう。彼は本来考えなければならなかった。
新王が立ち王朝が動き出せば、白雉の足は単なる雉の足も同然。そこでさらなる瓦解が来たれば再度白雉の足が切り取られ、御璽としての役割を持つのである。だが……二度目も成功するとは限らないのだ。一度目は朝の混乱に乗じて行った為に目撃者は皆無であったが、二度目はおそらく落ち着いた禅譲のためにそう巧くはいかなかった。一度目の件が未だにばれておらず、
温烙の除籍がされなかった事は唯一の幸いか。
渋面のまま視線を落とす
勠秦を目前にして、瞰逵はそっと溜息を零し、途端眉を吊り上げながら男を見上げた。
「
稻将軍は司右をお見捨てになると?」
「そうは言っていない」
ゆるりと頭を左右に振り否定する
勠秦は、真直ぐな青年の問いかけに顔を顰める。そういうつもりで告げた訳ではなかったが、男の言葉を厳しい姿勢で受け取った青年は一度閉口し、では、とすぐに質問の内容を変えた。面を上げた瞰逵の顔は朝廷で悪態をついた当時と同様、覇気を含んだ双眸で男を威圧する。
「復廷を諦めになられたので御座いますか」
「!」
その言葉を聞き受けた男の眼が驚愕に見開かれる。よもやそのような問いを投げ掛けられるとは思わず、暫しの間青年を見下ろし続けていた
勠秦は内心彼の言葉が胸に深々と突き刺さっていた。
この平穏な地で、何か大切なものを薄れさせてしまったような気がした。穏やかな日々の中、このまま奏での生活を続行する事を良しとする自身が胸内に存在していたのは事実。正に図星である。気付いてしまえば、それを否定する事は儘為らずに。
「どうか、司右や小司馬の為にも希望を強くお持ちになって下さい」
その切実なる青年の願いに応えるべき言葉を迷う
勠秦は閉口したままであったが、一度だけ深く頷いた。
青年にとってはその首肯一つで十分だったのだろう。哀しげに歪められた顔のまま笑みを作り、頷いた男よりもずっと深く頭を垂れるのだった。
◇ ◆ ◇
舎館の客房確保を終えた瞰逵はそれから二日の間、男の元へ訪れてはこれまで巧国内で起きた事件を事細かく説明し、未解決のものは意見を請うた。あまり参考にすべきではないとの注意を踏まえた上で
勠秦の助言に耳を傾けていた瞰逵であったが、台輔を迎えに向かわねばならない瞰逵は到着から三日目の朝に
勠秦を誘って隆洽を出発した。
「午には御到着なされる筈です」
「そうか」
青年の説明通り、高岫山上で黄昏を待つ事となった瞰逵と
勠秦は其々天馬と吉量に騎乗したまま奏と巧の境界で滞留し続ける。上空からでも見て取れる隣国の荒廃は酷く、瞰逵との会話を続けながらも
勠秦の面持ちは苦渋を増す一方だった。
七年という年月の荒廃が奪取したものは厖大である。これ以上選定が長引くものならば、今度こそ巧は沈むだろう。
混濁する負の情を腹の底で渦巻かせながら眉間に皺を寄せた
勠秦はふと、上空に出現した二つの染みに目を凝らし話に制止を掛ける。
「待て、瞰逵」
「?」
掌を青年に向けて言葉を制し、視線が語る先を辿り見やった瞰逵もまた警戒を抱き始めてすらりと抜刀する。以前に取っておいた冬器を持ち出してきた
勠秦は青年の後に続き刀身を鞘から引き抜いた。染みは鮮明となり、狼にも酷似している妖魔の姿に身構えた青年は天馬を走らせようと手綱を振るいかけた―――その時だった。
「早く、こちらへ」
「!?妖魔が……」
妖魔が、誘導の言葉を発したのは。
驚き薙ぎかけた刃を止めた瞰逵は口を利く妖魔を前にまじまじと見下ろし、それが何であるのかを逸早く悟った
勠秦が吉量を走らせ傍らへと並ぶ。上空で軽やかに身を翻し疾走を始める妖魔の姿を追って手綱を手繰り、馬首を巡らせた。
妖魔を挟むようにして並行する瞰逵と
勠秦。その内、先に話を始めたのは
勠秦だった。
「台輔の指令か」
「如何にも」
「―――瞰逵」
奏へ来る筈の塙麒が来ず、指令が遣いとして二者を呼ぶ事はおそらく緊急事態のみ。過去の経験もありそれを察した
勠秦は手綱を振るうも、瞰逵はこの事態に対し明らかな困窮を露呈させていた。
この先は巧国、即ち未だに纏わりつく国外追放の命を男は堂々と破る事となるのだ。もし足を踏み入れた事が官に知られたのならばややこしい事この上ない。出来る事ならば回避させたかった青年はしかし、意外にも催促を口にする
勠秦の姿に驚き顔を強張らせる。
「行くぞ」
「!しかし、」
「此度は不可抗力だ。台輔に何かあってからでは遅いからな」
言い切って、さらに手綱を振るい前方を駆ける指令を追い始めた
勠秦からやや遅れて瞰逵を乗せた天馬が疾走する。駆ける三騎はやがて点々とした複数の黒い染みを見つけ、それらが互いに縺れ合い落ちていく様を認めた二者は焦燥に駆られ騎獣を急かした。
「妖魔か……!!」
黒い染みは次第に鮮明となり、群れるその中に黄昏の色を発見した
勠秦が襲来する欽原を容赦なく打ち払いながら吉量を滑走させる。指令に騎乗しているのは齢十五、六ほどの青年。陽を弾く艶やかな藤黄の長髪は尊き存在の特徴であり、それが指令の背に縋りぐったりとしている様を見るや否や空いている右腕を伸ばした。奏へ連れて行く旨を指令に向かい呟きながら青年を片腕で抱えると、そのまま大きく弧を描いて反転する。時折飛来する妖魔をあくまで鮮血が飛散しないよう叩き落し、
勠秦と同様に小物を次々と狩り落とす瞰逵と合流を果たした。
「台輔と共に高岫山を越えろ」
「は、」
その言葉と共に渡された麒麟を受け取った瞰逵は急ぎ騎獣を反転させると奏に向かい疾走を始めた。その姿を見送る間も無く、左手の冬器を握り直した
勠秦が小物の妖魔へと斬撃を落としていく。少しばかり腕は衰えたものの震え無き一振りは変わらず、妖魔を次々と打ち払っていく。塙麒の指令を減らしてはならないと、動きが鈍くなりつつある傷だらけの者達を守りながら。
妖魔の数は激減し、そこでようやく剣を下ろした
勠秦が未だ警戒心を抱きながらも一息を吐き出す。
「粗方片付いたか……」
後は奏へ戻るのみと、指令に前進の催促を告げた男は吉量を奏に向かって奔らせ高岫山を越える。翳り無き安泰の国へ妖魔が足を踏み入れる事は無く、故に襲撃を受ける心配もない。高岫を上空より越えるならばそう時間は掛からず、やがて足元に広がる豊かな緑を見下ろした
勠秦はしかし、突如低声を背後より聞き拾った。振り返る先に上空で留まる四体の指令を捉え、それ以上を進む気配の無い様子に内心首を傾げる。
「?どうした、」
「……後をお頼み申し上げます。台輔が御不調故、我等はこれ以上の身動きが取れません」
「台輔が……血臭に中てられたか」
麒麟は血に弱い。到着する前に指令が妖魔を噛み千切りでもしたのだろう―――先程のぐったりとした塙麒の様子から血臭に酔った事を察していた
勠秦は指令の言葉に顔を顰める。主が不調であれば指令の動きも鈍る。おそらくはそういう事なのだろう。
「どうか、塙麒を――」
「承った」
一つ頷いた
勠秦は、遁甲の為ゆっくりと地へ降下する四体の指令を見送った後に一旦留めていた吉量を再度滑走させる。おそらくは塙麒の不調により慌てふためいているであろう青年の様子を予想しつつ、生温い風を裂きながら急ぎ隆洽へと向かっていった。
隆洽山の麓に広がる穏やかな街並みは、上空から窺えば普段と然して変わらないように見えた。
扁額を見上げつつ午門を潜り抜けた
勠秦は今まさにそう思い、目前に広がる普段とは異なる喧騒に顔を顰める。騒ぐ者達の口から麒麟、台輔という単語が洩らされた事によって事情を逸早く察した
勠秦は怪訝な面持ちで人波ある広途を足早に通り抜けていく。おそらくは瞰逵が塙麒の不調に慌てて藤黄の鬣も隠さず街へ踏み込んだのだろう。……そして、この騒ぎ。
吉量を引き連れながら歩く
勠秦は不意に耳元で聞こえた声に眉根を寄せる。先程聞いたばかりの指令の声だった。それは塙麒の現在地を知らせ、一つ了解の意を告げた男はさらに急ぎ青年が取った舎館へと足を向けた。
舎館の厩舎番に小銭を握らせ、厩舎へ吉量を預けた
勠秦は集う人の間を縫って舎館内へと立ち入る。一階の奥に位置する客房の前には店の者が数人、その誰もが顔に困惑を含ませ佇んでいる。その客房へ向かい来る男に気が付いた店の者は慌てて引き止めるものの、男は淡々と事情を説明した後に客房の戸を開き、足早に滑り込むなり戸をぴったりと閉ざした。
「瞰逵」
「
稻将軍……台輔が、」
「分かっている。湯と手巾の手配を頼む。あとは着替えも」
「分かりました」
勠秦の指示に頷いた瞰逵はそそくさと客房を後にする。そこで溜息を吐き出すも休息を入れる間も無く血の付着した袍を脱ぎ捨て、小衫姿のまま臥室へと足を向けた。臥牀に横たわるは藤黄色の長髪を流し横たわる青年。その姿に前巧国麒麟の姿を一瞬重ね合わせ、すぐに振り払いながらも臥牀の元へ歩み寄った。血臭に中てられ発熱したのか顔色は悪く魘されている塙麒の姿に、顔を顰めた
勠秦は小さく溜息を吐きつつ左手で顔の半分を覆う。
「悪化しなければ良いが……」
一人呟いた
勠秦の顔に滲む疲労。それと共に、暗澹としたものが浮き沈みする。だが、今はそれに浸るまいとして気を入れ直した男は身を翻し、客房前に立つ者達へ声を掛けるべくそそくさと臥室を出ていった。