- 拾伍章 -
堯天山の麓より帰還した王は諸官の立ち入りを許さない内宮の正寝へと足早に戻り行く。揺れる紅の髪と小さな背を追い景麒もまた正寝へ立ち入ると、彼女はそのまま就寝する訳では無いのか質素な袍のまま露台へ足を踏み入れた。身の周りの世話をする女御は居らず、しかしじき帰還を聞きつけた者がやってくるだろう。その前に話を済ますべく景麒自身もまた露台へと下り、若干開いた距離を縮めた。
「主上、」
「どうした、景麒」
振り返った陽子は歩み寄り来た景麒の仏頂面を不思議そうに見上げる。小言である事は既に予想が着くものの、その内容が如何せん分からずに彼の小言を待つ。主の表情から一切の悪気も疚しさも見受けられず、本日何度目かの溜息を吐き出した景麒はすぐに主の翠の双眸を直視しつつ告げるべき忠告を口にした。
「どうか、夜に街へ赴く事だけはお止め頂きたい」
「今回は特別だ」
「そういう問題では―――」
主の言葉に否と返そうとした景麒はしかし、主が露台に置かれた椅子へ腰を掛けた事によって閉口する。雲海を眺める横顔は真摯を帯び、彼女の双眸が真横へ挙げられる気配が無い。
……この王は、深く思うところがあって行動を起こす事が実に多い。現慶主景王とその麒麟が朝を起こして早六年―――じき七年が経過しようとしている今、景麒は陽子の行動癖を再認していた。この六年で果たして何度麓へ降り立ったことか。降り立たずとも毎年積極的に何かしらの行動を起こしているので似たようなものではあるが、これまで自重を願う景麒の思いが届いた試しはなく。
吐きかけた溜息はしかし、心底より発された主の言葉によってすぐに飲み込まれる。
「あれほど国を思う者なら玉座に就いても可笑しくはないと、正直思った」
「それは、」
「景麒は」
言葉を遮るように半身を呼ぶ陽子の双眸が雲海から逸らされる。半身をやや傾けながら傍らを真直ぐに見上げた王の貌は真剣そのものだった。
「景麒は、国が傾いたら何とかしようと思い行動するだろう?」
「?それは当然の事ですが」
傾国を見て見ぬふりなど果たして麒麟が出来ようものか。体に異常を来し、民に不安を与えるその事態を。
門違いの質問に怪訝な表情を浮かべながら見返す景麒はしかし、次の主の問いによって不意に言葉を詰まらせることとなった。
「その当然の事が許されない者は、どうすれば良いと思う」
主の質問に景麒は困窮する。問いが指し示すものは先程麓へ赴き会った男の事情ではないか、と。さらに、慶に存在する前例と重ね合わせている可能性に眉を潜め、しかし敢えて反駁を挟む事無く閉口するまま主を見下ろし続けた。
景麒の脳裏に過ぎる前例―――六年前、朝が正式に動き始めたばかりの頃に起きた浩瀚の一件がそれだった。
当時は悪辣な諸官が宮中に犇く中、彼は麦州候としての働きを努めていた。予王時代に発された女性の国外追放令では、偽りながら隻数の不足を理由に女性を港へ留めさせた例もある。民を思いやり、民の信頼を得ていた善良な州候を、新王は官の密謀に乗せられ国外追放に処してしまった。殺刑を下さなかった事が唯一の幸いだったが。
経験上どこか重なる浩瀚と
勠秦の姿に、過去に自身が起こした誤りを振り返った陽子はそれが他国の者と言えども手助けをせずにはいられなかった。……たとえ、それが新王の情報を渡すだけであったとしても。
「新王が登極したからといって、国外追放の令はすぐに解かれる訳ではないだろう。……いや、これ以降も解かれない可能性だってある。その場合、彼は浮民として生きなければならなない。たとえ巧の民が戻り、巧が復興を終えて豊かになっても、彼は国外で噂を掴む事しか叶わないのだから」
故郷を目前にしながら、足を踏み入れる事すら叶わない。その苦は果たして如何なるものか推し量り難く、しかし次に発された景麒の言葉によって彼女の熟考は区切られた。
「情けを掛けた、と仰りたいのですか」
「そうじゃない。―――いや、」
情けではない、と否定の意を示したかった陽子は言葉の最中に口を噤み、頭を横に振る。良く言えば手助けをした、悪く言えば情けを掛けた。ただ彼の為を思い行動したこの件は、傍観者である彼女の半身から見るとそう感じたようだった。民意の具現と受け取るならば、おそらくは。
「そんなつもりは無かったけど、傍から見たらそうなのかもしれないな」
「主上、」
半ば呆れたように主を呼ぶ景麒は、苦笑と共に逸らされた主の視線を見受けるなり顔を顰める。さらに挟もうとした咎めの声はしかし、続けて紡がれた陽子の言葉によって区切られ、飲み下された。
「でも―――少なくとも、新王の情報があるか無いかだけでも心持ちは違うんじゃないか?」
「……そうだと良いのですが」
おそらく彼の者自身の心持は浮くだろう。だが……巣窟と化した朝廷に立ち向かう者と逃避を重ねた者、二者の例を隣国へ重ねた景麒の面持ちがほんの僅かに翳る。
隣国の王が短命とならない事を祈りつつ、景麒はふと翠篁宮が在るであろう南の方角を見やる。目の前に広がる穏やかな雲海のように、巧の朝廷もまた無事平穏を取り戻せるよう無意識に願いながら、そっと瞼を落とした。
◇ ◆ ◇
慶を巡り終え、奏への帰還を果たした
勠秦は大国での生活を続行する。早朝から晩まで仕事をこなし、時折田畑の手伝いで土に塗れ、或いは夫役に参加した。そうして奏の民に紛れ日々を送る内、男が抱いていた期待の無意味さを次第に実感するようになっていった。
巧の新王登極から早四年。
隣国から受けた知らせは、一切として無いまま。
その日、日没前に仕事が片付いた男は淡い黄櫨染の空を見上げ、早々に自身の民居へ戻ろうと雑踏の中を歩いていた。仕事は明日も早く、出来る事ならば一刻も早く床へ就かせたい。この四年で貯めた金銭は多額となったが必要最低限の物を購入する以外に消費するつもりは無く、どうするべきかと考えつつ酉門へと続く中大緯の最中を左に曲がる。
そのまま真直ぐに帰路へ着き、遠巻きに捉えた自身の民居。その手前に佇む身形の良い見覚えある者の存在に気が付いた男の顔色が、一瞬にして豹変する。慌てて駆け寄った
勠秦は人目を気にしつつ拱手の礼を取った。
「卓朗君、」
「今は利広で良い」
表情は平然としたままさらりと呼称を避ける利広に、
勠秦は一つ頷くと足早に戸の前へ歩み寄り押し開く。戸の間へ滑り込む青年の後を追うように民居の主もまた内へ踏み入ると、表の人通りを確認してからそっと戸を閉ざした。
肩へ提げていた荷を榻の上へ下ろした利広は久方ぶりに訪れた起居を一望し、代わり映えの無さに苦笑を洩らしつつ振り返る。
「此処はいつ来ても質素だけど、物を増やす予定は?」
「無い。物は少量の方が落ち着く。帙は別だが」
「部屋も貴殿も、相変わらずだね」
勠秦が利広と面識を得てからじき十年になる。時は随分と早いものだと実感をしつつ、湯呑へ茶を淹れ始めた
勠秦は振り返る事無く卓前の席を勧めた。そこで軽く頷いた利広は脱いだ褞袍を背凭れへ掛けると椅子に腰を下ろし、ゆっくりと男を振り返る。袍子に身を包むその姿は、随分と民に馴染んでいるように見えた。
「三年ぶりだろうか」
「……もう、それほど経つのか」
ぴたりと手の動きを止めた
勠秦は湯呑へ落としていた視線をさっと上げ、すぐに何事も無かったかのように作業へと戻る。両手に取った湯呑の一つを利広の前へ置き、もう一つを反対に位置する椅子の前へ音を立てないように置いた。椅子の背凭れを掴んだ
勠秦の手が、向けられた問いを耳にするや否やぐっと力が込められる。
「噂は、」
「もう、奏へ渡っている」
「そうか……」
それが何の噂であるのかを察した
勠秦の顔が僅かに歪んだ。唐突に飛来した希望は次第に薄れゆき、そして十年も経たず流される隣国の噂。嘗て面識がありこの民居へ訪れもしたかの青年に、一体何があったのか。朝廷の内が噂として流れる事は無く、もどかしさを積み重ねていた
勠秦は左肘を卓上へ着くと首を軽く叩きながら湯呑へと視線を落とした。湯気立つ茶の面には、僅かな波紋が広がる。
「まだ四年だぞ」
「たとえ四年でも朝は動き出しているのだから、いつそうなっても可笑しくはない」
「そういう意味では―――」
言葉を言いきる前に切り上げた
勠秦の口からは自然と溜息が吐き出され、背凭れへと体を預ける。半ば自棄になりがちな男の姿を眺めていた利広は茶を一口含んでから湯呑を置き、男の呟きに耳を傾けた。
「……あと、何年保つ」
「少なくとも一年か二年かな」
「!見に行ったのか……」
「四年前の例もあるから」
眼の培われた大国の太子が直に見聞し立てた予想は的中する可能性が高い。そこで落胆を深くした
勠秦は顔を顰めながらも湯呑に口を付け、続けられる青年の言葉に顔を上げた。
「塙王が崩御したら、塙麒は王を探しに国を巡る事になるだろう」
「!」
利広の言葉に
勠秦は思わず立ち上がる。後方より響く椅子の転倒音も気にせず利広をじっと睨め付け、やがて何かを諦めたように肩へ込めた力を抜き青年に背を向けた。自身が倒した椅子を立て直しながら、心底からの思いを床へぼそりと呟き落とした。
「―――私は一体、何に期待していたのだろうな」
復廷を望んでいたのか、将軍職への復帰を望んでいてたのか……それとも。
男の胸中に渦巻く煩悶は続く。利広は何も口を挟む事なく、その姿をただ見守り続けるばかりであった。
新王登極から五年目を迎えた春季の頃。
翠篁宮の西宮、二声宮にて末声が上がる。
塙王聾源―――禅譲。