- 拾肆章 -
長楽殿の堂室に穏やかな声が響く。
背筋を伸ばし椅子へ腰掛ける
勠秦と大卓を挟み対面するように座る陽子、その後方に鈴の姿があり、会話は暫し続けられていた。その大半が慶の国情関連や巧からの難民の対策等についてであり、情報を得る毎に
勠秦の眉間の皺が深くなる。複雑な情を滲ませる男の姿に思わずちらりと顔を見合わせた陽子と鈴はしかし、すぐに近付いてくる第三者の足音に気付き半開きの扉の方角へと視線を向けた。
足音はすぐに立ち止まり、扉の間より滑り込むのは―――淡黄。
「主上、」
「ああ、景麒」
足を運び来たのは、慶の麒麟。その顔には怪訝の色ばかりが浮かび、仏頂面の景麒へ陽子が声を掛け、同時に鈴と
勠秦が其々拱手をする。礼を取る一方を一瞥した景麒は客人の前を通り過ぎると、不服を含む物言いた気な面持ちで主の目前で足を止めた。背が主よりも高い事から自然と見下ろす形となり、そこでまず吐き出されたのは深い溜息だった。
「御内密にお窺いなさるとはいえ、正寝へ招き入れるなど以ての外です!」
「他に良い場所が見つからなかったんだ」
苦笑交じりに言葉を返した陽子が同意を求めて鈴を振り返る。立場上もあり流石にこの場ではっきりと首肯する事はできなかったが、主と同様に苦笑いした鈴の反応が遠回しに同意を表していた。
諸官に気付かれていない事が唯一の幸い、しかし本来官でさえ容易く踏み入る事の叶わない場へ客――それも今は民となった者――を招く事に不満を抱く景麒の矛先は、すぐに主から客人へと向けられる。
「仮にも元禁軍将軍ならば宮中の礼儀を熟知しておられるはず。何故立ち入りを拒まなかったのか」
「王直々の命と仰せられた場合、我々は何も言えますまい」
「……」
淡々とした
勠秦の返答に、景麒は不満の色を強めながらも口を閉ざした。王の命を民が拒否する事は叶わず、と。そうさらりと言ってのけた元将軍の姿を見やる景麒はすぐに二度目の溜息を落とす。半身の溜息に聞き飽きていた陽子は未だ苦笑を浮かべながらも、話題を切り替える事によって誤魔化すべく思い付いた事柄を口にした。
「そうだ景麒、塙麒と会った事は」
「御座いません。塙果と女怪は主上も御覧になられた筈ですが」
「ああ―――そうだったな」
それは、天勅を受ける為に蓬山へ足を踏み入れた時の事。女仙の先導を受けながら奇岩の間を歩き、不意に途切れた先に立っていた捨身木の下、枝垂れた枝の先に実る黄昏色の果実を見守る女怪の姿。あれが塙果であり塙麒の女怪であった事を景麒の発言によって思い出した陽子は、景麒を見上げていた視線を僅かに逸らしつつ軽く頷いてみせる。そこで会話が途切れるかと思いきや、意外にも大卓越しの男が二人の会話に口を挟み込んだ。
「もうじき、最初の昇山が終わる頃かと」
「ええ。鳳は鳴いておりませんが」
「景麒!」
余計な言葉を呟く景麒に対して陽子が思わず咎めるように半身を呼ぶ。だが、青年は口を挟み込んできた男をじっと眺め―――その後方に存在する扉が突如勢い良く押し開かれた事に目を見開いた。墻壁と扉が衝突する音は無かったが、背後より流れ来た風を感じ取った
勠秦が振り返った。陽子もまたその方角を見、それが見慣れた者の仕業である事を認めて一瞬走らせた緊張を解く。
「主上、」
「どうした祥瓊」
「それが―――」
口走りかけた女史の言葉は、視界の端に映り込んだ人物を認めてぴたりと止まる。呆気に取られて主から視線を薙いだ祥瓊は綺麗に結い上げられた黒紅の髪が印象的な男の姿を思わず凝視する。
勠秦もまた見覚えのある紺青に驚き目を見開くと、思わず言葉を滑らせた。
「貴殿は、先日の」
「あ、」
「いや、すまない。私の事は気にせず、続きを」
慌てて言葉を下げた
勠秦に頷き軽く会釈をした祥瓊は、すぐに火急の知らせを述べるべく口を開く。
「梧桐宮が、」
「!」
梧桐宮と聞くや否や陽子と
勠秦の表情が一変する。どういう事かと、すぐに詳細を問おうとした陽子の言葉は玻璃を外側から叩く音によって飲み込まれた。
振り返った先には、鳳。今しがた話したばかりの話題を脳裏で振り返りながら、その鳥が運び来た報が何であるかを察する。慌てて祥瓊と鈴が玻璃の窓を開くと、滑るように滑走し優雅に一つ羽ばたいてみせた鳳が大卓の中程に設けられていた金の止まり木へと降り立った。
羽をゆっくりと折り畳んだ鳳はすぐに国主の元へと体を向け、そして謳う。
「白雉鳴号。巧国に一声―――塙王即位」
「―――」
この場で唯一彼の国に携わる男は驚愕に言葉も出せず、ただ呆然として鳳を見詰めていた。
……塙王崩御から新王登極に懸かった月日は、実に六年。それでも早い方ではあると内心考えつつも、どこか判然としない胸中に疑問を抱く。その理由を考え始めた
勠秦はしかし、若き王の声によって意識を引き戻した。
「
勠秦殿、大変申し訳ないが―――暫くの間、掌客殿へ滞在してくれないだろうか」
「!主上、何を仰いますか……!」
「せめて入り来る詳細だけでも伝えておきたい。頼む」
即位の声に嬉々としても良い筈の男の顔色が何故か優れない事に疑問を抱いた陽子が、咄嗟に提案を持ち掛ける。半身の反対を半ば無視し押し切っての案に、ようやく顔を綻ばせた
勠秦が丁寧に拱手をした。深々と頭を下げ、そしてそっと瞼を落とす。
「御配慮、感謝致します」
その感謝の言葉を告げると同時、男は自身の胸中に蟠る靄の正体を悟り、笑みを消失させた。
―――己が期待していたものは王だったのか……それとも。
◇ ◆ ◇
「飄風の王となりましたね」
「ああ……」
正式に掌客殿へ滞在する事となった
勠秦は、今現在蘭雪堂の内に置かれた卓の前で腰を落ち着かせていた。
軽く組んだ手を卓上に乗せ、目前で湯気立つ茶杯を眺めながら鈴の言葉に軽く首肯する。少女の口から意外な語を耳にして内心驚く一方、その単語によって気付かされた事実に納得を得ながら、茶杯を片手に取りぽつりと言葉を洩らす。
「これで、私も不安なく過ごせよう」
「え?」
勠秦の言葉に思わず声を洩らした鈴が卓上へ向けていた視線を上げる。意外だと言わんばかりに目を丸くする女御の様子を捉えた男は不思議そうに首を傾け軽く目を見開くも、すぐにやってきた問いを聞き受けるなりほんの僅かに緩めていた口元を引き締めた。
「復廷を望まないのですか?」
「それはこれから主上がお決めになられる事だろう。せめて国外追放の命を撤回して下されば良いのだが」
故郷は目前。にも関わらず足を踏み入れる事すら叶わない、その虚しさ。募るばかりの思いに目を細め視界を手前へ落とし、茶杯の中で作られる小さな波紋をじっと眺める。……果たして、故郷をもう一度目に来る日が本当に来るのだろうか。
新王即位の報を聞いてなおも猜疑を抱く男は自然と閉口し、茶杯を握る左手に力が篭る。憂いをほんの僅かに滲ませる男の顔を覗き込んだ鈴は、心配そうにおずおずと声を掛けた。
「……
勠秦殿?」
「いや、何でもない」
名を呼ばれ顔を上げた
勠秦は咄嗟に平然を装う。近頃脳裏を過ぎるのは先案じや不安ばかり。これではならないと落胆を覚えるような思考を振り払い、それを手伝うように鈴が明朗な声で言葉を掛ける。
「
勠秦殿は民思いの良い方ですから、きっと大丈夫ですよ。―――ね、祥瓊」
「!」
途端、少女の視線が真横へと薙がれる。それに倣い
勠秦もまた扉の方角へ顔を向けると、半開きの間から堂内を窺うように覗き込んでいた紺青の髪の女史を見つけた。不意にかちあった視線に驚きながらも扉の間をするりと抜け卓の傍へゆっくりと歩み寄る祥瓊は、鈴を見やりながら足を止めるとそっと溜息を落とした。
「気付いていたのね」
「もちろん。何かあったの?」
すぐに移行された話題に深く頷いた祥瓊はすぐに
勠秦の元へと向き直り、軽い拱手を済ませて面を上げる。昨日とは異なる正式な応対を前に男もまた身を引き締め、貌は真摯なものへと一変し、女史の言葉を聞き入れた。
「申し訳御座いません。もう一月ほど御滞在下さりましょうか」
「……即位式の日取りが?」
「はい」
深く頷く祥瓊の姿に
勠秦が思わず目を細め、浮上する嬉々とした情も束の間。さらなる滞在の期間にふと思い出したのは遭遇する度に突き刺さる天官の含みある視線。男の素性を知った上での眼差しかもしれないし、知らずとも地位の明かされない余所者に対する白眼視なのかもしれなかった。だが……どちらにしろ、これ以上の迷惑を掛けるわけにはいかない。
考えへ至った
勠秦の決断は、実に早く。
「一月ならば堯天の舎館で待たせて頂きたい。これ以上、官が猜疑を深めぬ為にも」
「―――その旨、一字一句違えず主上にお伝え致しても宜しいでしょうか?」
「宜しく頼む」
伝言を頼み終えた男はそっと溜息を落とし、鈴と二三言葉を交わした後に身を引き返していく祥瓊を見送る。慶の雲海上で過ごす事はこれで最後であると内心思いつつ、音を立てて閉ざされる扉を暫しの間無言のまま眺めていた。
後日、景王の許可を得て堯天山を下りた
勠秦は吉量を連れて東南東に位置する辰門から程近い舎館の一室を借りる事となった。
所在を知る為に女御が同行し、休憩も兼ねてと男が淹れた茶に口を付けた鈴は他愛の無い会話を交わしてから舎館を後にする。その後姿を見送り、ようやく一人となった
勠秦の口からは自然と溜息が零れ落ちた。大事に一区切りが着いたかのような感覚に陥り、肩の力が抜けたのである。
その翌日には気持ちを切り替えた
勠秦が職を探し、一月の約束で雇われた店で働き始めた。門の付近に建つ舎館は麓付近のそれよりも額が高く、一月も泊まれば流石に嵩む。長期間を部屋でじっとしていられる性分でも無いため、労働は程良い運動となった。
そうして―――早一月。
夕刻、閉門の合図が鳴る前に仕事を切り上げた
勠秦は慣れた足取りで舎館の客房へと戻り、湯と盥を借りた後に運ばれてきた夕餉を済ませた。器を下げる店の者に礼を告げ、その姿を見送った後に椅子の背凭れへと背中を預けながら、ふと堯天で過ごした日数を数える。間近に迫る期日に目を細めながら、近々知らせが来るであろう事を予想したその矢先―――不意に戸を叩く音を聞き意識を引き戻した。
まだ何かあるのかと首を捻った
勠秦は入室の許可を口にする。その直後、ゆっくりと開閉する様を衝立の上から確認し、無言の入室である事に不審感を抱いた男が思わず腰を浮かせた。
「何か」
低声で問うた
勠秦はしかし、衝立の向こうより姿を現した少女の姿を目の当たりにするや否や身を硬直させた。鮮やかな紅の髪と深い翡翠の彩に愕然として、発そうとした言葉が喉元でぐっと詰まる。
「主上、何故―――」
「静かに」
じき夜陰が下りるであろう時刻、それも王直々の来訪など予想外であった
勠秦は驚愕と困惑を混濁させながら目前の王を注視する。此処で少しでも声を荒げたのならば不審を抱く店の者が様子を見に来る事だろう。聞き耳を立てられては堪ったものではない。内心で考えながらも衝立越しの扉へ視線を向け、
勠秦の不安を汲み取ったらしき陽子は苦笑交じりに男の不安を払拭させた。
「大丈夫だ。口喧しい者が外で待機しているから」
「口喧……もしや、台輔の事ですか」
「ああ」
即答と共に頷いた陽子を前に、
勠秦は冷汗を浮かべる。扉越しに耳を傾けているであろう半身の存在を気にせず堂々と口にする王も珍しい。巧では絶対に無い光景を目の当たりにして何も言えずに困窮していた刹那……男の緊張を引き戻させる言葉が若干潜められた声のまま告げられた。
「塙王の詳細が分かった」
ぴくり、と
勠秦の眉が跳ね上がる。早速持ち込まれた本題に思わず顔を顰めつつ、引いた椅子の一つへ着席を勧める。それに甘受して腰を下ろした陽子は小卓越しに対面し椅子へ座る男を見やった。心なしか陽に焼けた肌が男の一月の生活を物語る。
すっと息を吸い込んだ陽子は、先日得たばかりの情報をゆっくりと述べ始めた。
「氏は菰、字は聾源、齢は二十一。蓬山へは随従として着いて行ったらしい」
「……聾源?」
刹那―――かたん、と音を立てて男が椅子から立ち上がる。王の名を復唱し、衝撃を受けたように目を見開いたまま立ち尽くしていた。
異様な反応を示した
勠秦に驚く陽子は困惑ながらも男を見上げ、呟かれた言葉に首を傾げる。
「菰 聾源?まさか、」
「知っているのか?」
「奏で知り合った巧国出身の青年ですが……奏を発つ前に顔を合わせたばかりで」
予想外の縁を聞かされた陽子もまた驚きを露として事実を聞き入れ、内心安堵する。男の知り合いならば国外追放の撤回も遠い話ではないのかもしれない。
安心を覚え始めた王の目前では、気を落ち着かせ始めた
勠秦が再度ゆっくりと椅子へ腰を下ろす。事実を受容するまでに随分と長い時間を要したものの、人為を理解しているために不安は無かった。安堵からそっと溜息を落とした
勠秦は、思わず言葉を洩らす。
「そうか……彼が」
呟きは酷く小さなものだったが、男が本当に安堵した事を理解するには十分なものだった。
これで荒廃は止まる。民は安堵と新王への期待を抱き奏や雁、慶より戻ってくる。今はそれだけで良いのだ、と―――そこで自身を納得させた
勠秦はふと、すっかり日没を迎え夜陰を落とし込んだ外を玻璃の窓越しに見やる。流石に外の者をこれ以上待たせる訳にもいかず、そこで話を区切った。
これまでの礼を告げ、ちらりと扉を一瞥する
勠秦の視線に気付いた陽子もまた察したように苦笑を零し軽く頷く。そそくさと踵を返すと衝立へ向かい歩き出し、ふと足を止め拱手をする男を最後に一度だけ振り返ってから、衝立の内へと踏み込み客房を後にした。