- 拾参章 -
走廊には汚れ一つ無い床を蹴る音が響く。数はただの二。
他国とはいえ久方ぶりに王宮へ立ち入り雲海上へ上がった
勠秦の面持ちはやや硬い。数年ぶりの正装にもあまり慣れず、どうにも心地の悪さが残る。それは単に着心地の問題ではなく、男の気持ちの整理が着かないことも影響するのだろう。それまでやや強張っていた男の顔が、はっきりと歪んでその場に身を留めた。
案内役を務める鈴は足音が一つ減った事に気付き振り返る。走廊の外と後方をしきりに眺め、何かを察したように眉を顰めた。
「
勠秦殿?」
不安げに名を呼んだ鈴は男の顔色を窺うも、どこか優れない風を見せる。そこで首を捻りかけた鈴は、
勠秦の問いによってその原因を知り納得した。
「この先は……内殿ではないのか」
「え、ええ……」
「内殿は足を踏み入れるには大変畏れ多い場故、立ち入り兼ねる」
「主上直々の命で御座いますから」
「……」
男はなお渋る。嘗ての禁軍将軍が見せたよそよそしさをふと思い出した鈴は、彼もまたそういった堅物のようなものを持ち合わせている事を察すると、あくまで王直々の命であると主張をした上で再び歩みを進めた。踏み出した最初の数歩は足音が一つだったが、やがて距離を置き二つの履音が走廊に響く。朝廷に長く居続ける堅物混じりの者は王の命と聞けば肝を冷やしながらでも来るものだと教えられた事が役立ったと、鈴は一人笑みを浮かべたまま内殿へ足を踏み入れ、そそくさと通り過ぎ、目的地である正寝――長楽殿へと足を踏み入れた。
堂室へ入ると、鮮やかな紅が
勠秦の視界に入る。官服に近い質素な襦裙を纏っていたが、景王の特徴だけは知識として詰め込んでいた
勠秦にとってはその姿を一目するだけに留まった。彼女が近付いてくる事を認めるや否や突如その場で叩頭したのである。
「景王陛下、」
「突然の招きで申し訳ない、諸官には内緒だからと此処へ案内させた。……困惑しているとは思うが、今はどうか楽にしてほしい」
「有り難う御座います。―――六年前の一件で景王陛下には御配慮を賜り頂き、感謝申し上げ致したく存じます」
「それは構わない。面を上げてくれないか」
叩礼を解くよう告げられ、ゆっくりと身を起こそうとした
勠秦の頭部がふと静止する。何を思ったのか、無言で床へ視線を落とし続けたまま口を噤んでしまった。
「―――」
「
勠秦、殿?」
傍らに立っていた鈴が名を呼び掛けるも全く反応はない。これには流石に困惑を浮かべるばかりの陽子と鈴であったが、突如床を擦る響きを聞いた二人は軽く目を見開かせた。まるで感情を抑えるように床へ着いた指先が微かに震え、肩に力が入る。
慶国の王を目にするや否や胸の内で競り上がる、言い様の無い感情。それを必死で抑制するが、堰を切り溢れ出したものを押し留めるに値する情はなく。
後悔と罪悪感が異なる事は重々承知の上、
勠秦は心底へ沈澱させていた筈の本音を口にする。
「……錯王への諫言が許される立場に在りながら引き留める事が叶わず、結果景王陛下へ多大なる御迷惑をお掛け致した事への謝罪を申し上げたく。申し上げたところで言い足りぬほどでは御座いますが、」
「待ってくれ!」
突如つらつらと並べ立てられ始めた謝罪に慌てて制止の言葉を発した陽子が困惑を色濃くする。唐突に切り出された六年前の出来事への謝罪に驚きながら、感じた差異をやや強い口調で告げた。
「あれは塙王によるものであって、あなたの所為では無い筈だ」
「あの時、私が主上を弑し奉ってでもお止めしておれば、慶の民が惑わされる事もなく、景王陛下の登極が大幅に遅れる事もなく、巧の民もこれほど早く涙を惜しみ土地を離れる事も無かったのです。なれど私は……私共は、それを見逃してしまった……!」
「!」
本来、男が白状したものは諸官が背負うべき責任に過ぎない。にも関わらず
勠秦ただ一人が責任を背負っていたかのような口振りは一体どうした事か。
―――六年前の某月、一羽の青鳥が一通の通達を携えて金波宮へと舞い降りた。王が崩御したばかりの巧からの通達だった。
挨拶から始まり錯王の愚行を侘びる一文が礼儀並に書き付けられたそれは、突如物騒な文字が羅列されたものへと変貌を遂げた。通常罪人の他国逃亡に於いて通達する要請内容は拘束及び引き渡しである。それが今回ばかりは異なり、発見次第追撃との要請が書き綴られていた。当時は何も思わず了解の意を巧へと差し向けたが、後に届けられた奏からの書状によって通達の意を知ったのだった。
そして今、男の為人を垣間見た陽子は明確な答えを見出す。―――奏からの書状が正しかったのだと。
叩頭したままの
勠秦はなお言葉を続ける。
「巧の難民は隣国である慶へも流れ込んでおられる筈。王が崩御したところで他国への負担は掛かってしまう。私はどうしても、その件に対する謝罪がしたかった」
床に額を押し付け、半ば砕けた物言いで吐き出された独白に近い
勠秦の言葉はあまりにも切実なものだった。一向に顔を上げようとしない男の姿を見下ろしていた陽子は顔を歪め、すぐに床を伝う低声を感じ取ると同時にその言葉を受け取った。
「申し訳御座いません…!」
謝罪に込められた意が決して生半可なものではない事は十分に感じられた。その真摯さは嘗て自国の禁軍将軍が取った姿勢にも似ているような気がしてならない。
鈴が傍らで心配そうに見守る中、陽子は軽く息を吸い込む。ほんの僅かな沈黙は自棄に長く感じられ、しかし朗々とした王の声によって静寂は破られる。
「面を上げてほしい」
陽子は二度目の催促をする。だが、男が顔を上げる様子は無い。
「―――確かに、塙王の行いによって登極は遅れたかもしれない。巧に流れ着いてからは苦難も多々あった」
脳裏で振り返るのは、嘗ての頼りなき自身。漂着した当時に良かったと思える記憶は無い。欺かれ裏切られ、それを恨み人を信用しなかった、あの頃。……だが、巧での経験があるからこそ現在の自身があるのだと、彼女は改め心底より思う。
「わたしはそれを後悔してはいないし、恨んでもいない。寧ろ巧へ辿り着かなかったら楽俊とも会えなかったし、此処に立つのは今のわたしでは無かっただろう」
「―――」
「だから、どうか忸怩も自責も抱かないでほしい。あなたが背負い込んだものを、わたしは許すから」
景王の許しを得たからといって、嘗ての過誤を修正する事など出来はしない。たがそれでも、胸に蟠る靄がすっと消えていくような気がした
勠秦は肩の力をそっと抜き、ついにゆっくりと面を上げた。
綺麗に纏め上げられた、鮮やかな緋色の髪。見下ろす凛とした翠の双眸。質素な官服でありながら纏う気は紛う事なき王たる者の風格。そこでようやく、男の口から安堵の溜息が洩れた。
慶は良き王を得た。錯王が道連れにせず本当に良かった―――と。
眩い姿に目を細めた
勠秦は、心底より思う。
◇ ◆ ◇
「しかし……畏れながら、私個人へ宛てての“自責を抱くな”というお言葉には頷き兼ねます」
「それは何故、」
「おそらく、私の気持ちの問題でしょう」
面を完全に上げ背筋を伸ばし座り続ける男は、緋色を見上げ続けながら言葉を返す。だが、響く台詞の内容に陽子は目を細めつつ問うものの、すぐに返り来たのは苦笑交じりの曖昧な答えだった。
勠秦の視界に映るのは、詳細を察し兼ねて口を噤む女王の姿。そこでほんの僅かに憂いを浮かばせた
勠秦は短く息を吐き出して、金波宮の主から視線を外した。
「今思えば……あの時の私は、他力本願だったのではないかと」
「え?」
唐突な独白に思わず疑問を含めた声を上げる陽子は軽く目を見開き、次第に憂いを濃くする男の顔から一度も視線を外す事無く直視を続ける。王のやや後方に控えていた鈴は二者の姿を交互に見やり、陽子が催促する間も無く開かれた
勠秦の口からは思いもよらぬ事実が述べられた。
「実を申せば、過去に二度ほど巧の瓦解をこの目で見ております。今現在の荒廃を含めると、三度となりましょう。瓦解する度に突き付けられる事実は己が行った王の制止と諫言の不十分さ、そして己の無力さに他なりません」
当然ながら、王は自身の行いの果てに荒廃しきった土地を見ることは無い。その前に麒麟が病み、斃れ、王もまた一年と経たずに登遐するからである。故に陽子が同意として頭を縦に振る事は無かったが、朝廷に残された善良ある官の苦しみは過去に慶国宝重の刀身、その水面に映る記憶を拝見した際に感じた自身の情を顧みると思わず顔を歪めた。王の不在の間、傾斜を食い留めるのに官がどれほど苦労していたのか。それを思い出す度に、胸が苦しくなる。
「六年前の、あの時。太宰や右将軍、台輔が……誰かが、主上を止めてくれるに違いないと、人任せに考えていたのやもしれません。己が主上をお止めするのだという明確な意志があったのならば、それこそ毎日のように足を運んだ事でしょう」
塙王の、愚行。
そこでようやく
勠秦の心中を知った陽子はしかし、彼の台詞に賛同を以って首肯する事は叶わなかった。男の言葉と受け取った印象に差異が生じたのである。
ほんの僅かな間で言葉を探した陽子は、ぽつりと小さく言葉を零した。
「―――最後まで、王を信じたかったのではないだろうか」
下げかけた
勠秦の視線がさっと上がる。再び陽子を見上げ、続くであろう王の言葉を待つ
勠秦。上げられた視線に含められた疑問に応えるかのように、陽子は再び口を開いた。
「今度こそ踏み留まってくれる筈だ、愚行を果たさない筈だと。信じていたからこそ見守るという態勢を選んでいたのではないかと、わたしは思う」
「それは……」
「あくまでわたしの考えだから、聞き流してくれてもいい」
予めそう告げる女王を前に、浮かない顔で軽く首肯を示した
勠秦は口を噤む。男の様子から諒承の意を汲んだ陽子は然して間も置かずに自身の考えを述べ始めた。
「国や民の事を思い動く者を信じたい気持ちはよく分かっているつもりだ。先程の謝罪で巧だけでなく慶の民についても心配していた
勠秦殿ならば尚更、その思いは強いだろう。だからこそ、王を止められなかった事への後悔を抱くだろうし、民にも申し訳なく感じるのではないのかと思う」
どれ程悪態をつこうと最後まで王を信じたかった気持ちは心中の何処かに存在していた。だからこそ短い時の中で諫言を徹底せずにいたのだと。
だが……錯綜するものは、民への思いと主への信用。陽子の考量に感じ入るものはある。だが、自身の胸中に浮上した差異、その矛盾に苦しみ始めた
勠秦は眉間に寄せた皺を僅かに深くして、溜息の後に小さく呻った。彼自身の中で結果が抽出されるには当分の時間を要するらしく、やや下へ傾きかけた面はしかし、不意におずおずと掛けられた声を聞きふと視線を薙ぐ。
「あの……」
「ん?」
陽子もまた後方へ振り返り、傍に控えていた女御の鈴を視界に入れた。日常で王の会話に言葉を挟み入れていた鈴はつい声を洩らしてしまった。何でもないと慌てて口を噤むものの、少女を見上げる男は硬い表情を僅かに和らげながら諒承の意を告げる。
「私は構わん」
「……では、少しだけ」
王と男の許可を得た鈴は少し躊躇う風を見せてから、呼吸を一つ。やや緊張を含んだ声音が堂室に響いた。
「つまり……負うなら自責ではなく後悔を、という事ですか?」
「要約してしまうと、そうなのかもしれない」
「―――」
少女の言葉を聞いた
勠秦はふと、過去を振り返る。
嘗て罪悪感と後悔は異なるものであると話した、利広との会話。当時弁えていると告げはしたものの、今思えば青年の告げた言葉の意味を読み違えていたのかもしれない。事実によって背負うものと自身が感じ抱えるものは異なるのだと。
勠秦は改め王と女御の姿を見上げる。二者の言葉から見出せるものがあるような気がしてならなかった。
「御二方の考量を、参考にさせて頂いても宜しいでしょうか」
「!ああ、もちろん」
大きく頷いた陽子は僅かに顔を綻ばせる。少しでも役立てた事を嬉しく思い口端を引き上げる王を前に、
勠秦もまた釣られて表情を緩めた。朝廷でよく見受けられる固さが無い女王の様子を眺めながら、ぽつりと内心を落とす。
「不思議なお方ですな、景王陛下は」
「え?」
「いえ……決して疚しい意味では御座いませんが、」
すぐに附言した
勠秦は笑みを崩す事の無いままゆるりと頭を横に振る。一度は自身の目前に立つような王に仕えたかったと心底から思い、一度瞼を伏せた。彼女ならば慶の民を見捨てる事は無いのだろうと。
粛然としながらもつい先程の硬い面持ちを和らげた
勠秦へ、陽子はふと思い出した噂を確認の意も込めて言葉にする。
「そういえば……巧では黄旗がようやく揚がったと聞いた」
「三月ほど前にお聞き致しましたが……最初の昇山で王が選ばれたのなら、民にとってこれほど良い事はない」
「ああ―――新王が、悪評高い官に惑わされなければ良いのだが……」
「陛下が巧を御案じなさいますな」
陽子の不安を除けるかのように、
勠秦は微笑を浮かべながらはっきりとした口調で事を告げる。先程男が慶の民を案じた事を棚上げした発言に思わず苦笑を零した王はしかし、彼がすぐさま頭を深く垂れ叩頭する様を認めて目を瞬かせた。
「どうか、この先も慶を良い道へお導き下さいますよう」
改め告げられたのは、玉座を背負う事の重責。
朝廷は問題こそあるが落ち着き始めている。だが、そこで気を緩め過ぎてはならないと、再度引き締められるような感覚を得た陽子は口元を引き結ぶ。
男の期待を聞き受けて、王はしかと頷き応えるのだった。