- 拾弐章 -
―――慶国瑛州堯天。
薄藍の空を背に聳え立つ堯天山が陽光を受けて眩く、焦香色の山肌は陽の反射によってほんの僅かに薄められている。麓からは裳裾のように蛇行し延びる街並みが広がり、街を囲う郭壁の間に設けられた十一の門では人の出入りが緩やかに行われていた。
その内、南東付近に存在する巳門の傍を通り過ぎたとある者の姿が一つ。人波ある還途の流れに沿いを歩きながら、ふと一軒の店を見つけるなり足をその方角へと向けた。
飯堂へ立ち寄った者は店内を一望し、賑やかな声を聞きながら片隅にぽつりと空いた席を目指す。一つの小卓に椅子は二つ。対面するように置かれたその片方は既に客が腰を落ち着かせ茶に口を付けていた。……今は午時。空席があっただけでも儲け物だと思いつつ、青年――楽俊は男へ声を掛ける。
「すみません。ここ、空いてますか?」
「ん?ああ。どうぞ」
「それじゃあ、お言葉に甘えて」
あっさりと許可を取った楽俊は椅子に腰を下ろすと、すぐに寄り来た店の者に注文を告げる。久方ぶりに街を散策した事もあり昼餉も外で済まそうと考えていたのだが、この午時に満席でない店を探し辿り着くまでに随分と時間が掛かってしまった。
背凭れに軽く身を預け一息を吐いた楽俊は、湯呑を置いた男の呟きにふと顔を上げる。
「堯天は賑やかで良いな」
「?」
含みある言葉として受け取った青年の眼が一つ瞬く。手前の入口を眺めつつ発されたその台詞に頭を傾けながら、然したる間も置かず述べられた男の言葉に耳を傾けた。
「復興も随分と進んだだろう」
「ええ、景王登極からもう六年……いや、七年ですから」
「そうか」
景王赤子登極から、じきに七年が経つ。国は順調に復興へと向かい、発展への兆しを見せつつある。行き交う人々の顔は明るく、嘗ての荒廃ぶりがまるで嘘のようだった。あと三年で区切りの良い年を迎えるが、その年月が過ぎるのもおそらくはあっという間なのだろう。
楽俊はふと男を見やる。堯天は、と確かに口にした男が引き比べるのは、果たして北か南東か。
「出身は巧ですか?それとも柳?」
「巧国喜州傲霜だ。今は足を踏み入れる事すら叶わないがな」
「巧は妖魔で溢れてるから、高岫山を越えるのも難しいと思います」
やはりと思いながらも、楽俊は数年前に一度足を踏み入れた自国の姿を思い起こす。母親を慶へ連れて来る為に騎獣を借り、足を踏み入れた時の事を。あの時は護衛による手助けもあり無事に連れてくる事が出来た。だが、後の異常な荒廃ぶりを風の便りに聞き及んだ楽俊は若干複雑な気分に陥っていた。先日黄旗が揚げられた旨を耳にしたところでようやく安堵した矢先、同国出身の相席者によってほんの僅かに口が緩む。
「実はおいらも巧国出身なんです。淳州安陽県鹿北の」
「おや、慶国寄りか。あちらは妖魔の出没が喜州よりも遅いと聞いたが」
「それでも今は何処も一緒かと。塙王が亡くなられて六年ですから」
「……」
―――六年。
もうそれほど時が経ったのだと事実を口にした本人自身が改め思い、ふといつの間にか湯呑へ視線を落とした男が複雑な面持ちへ変化している事に気付いた。自国の行く末を思うは誰もが同じく、はたと我に返った男は若干慌てたように話題を切り替えた。
「今は慶に?」
「ええ、大学生です。今年卒業の予定で」
「おぉ、それは実にめでたい。祝いに何か一つ奢らせてくれ」
「え?いんや、気を使わなくても―――」
意外にも顔を綻ばせた男は店の者を手招きするや否や楽俊の制止を聞く事も無く数品を頼み始めた。会話が途切れたところでようやく諦め苦笑いを零した楽俊は浮かせかけた腰を下ろし、すぐに目の前の男へと視線を移す。湯呑の手前で軽く指を組み合わせた男は口端を引き上げたまま、気軽な声音で問いを口にした。
「名は?」
「楽俊と言います。貴方は?」
「
稻 勠秦という。今は単なる旅人に過ぎないが、この間までは奏に滞在していた」
――
稻。
その氏に聞き覚えのある楽俊は次第に胸中へ押し寄せる驚愕を抑えながらも目を丸くして、一間の後に確認の意を篭めて恐る恐ると聞き返す。
「……もしや、禁軍将軍の」
「!」
今度は男が驚愕の色を滲ませ、しかしながら肩の力を軽く抜き溜息を吐き出した。ああ、と一つ頷き首を左手で軽く叩きながら顔を綻ばせる。目の前の青年はあくまでも大学生だという。その上気付かれるような言葉を吐いた覚えの無い
勠秦は不思議でならず、二度目の溜息と本音を小さく吐露する。
「……やれやれ、何故分かったのか」
「
勠秦殿は有名でしたから」
将軍として、と付け加えられた言葉へも疑問を抱きつつ、しかしながら今やその職より身を退いた男にとってはどうでも良い事となった。その関連の話となれば溜息は自然と多くなり、ゆるりと視線を落とした
勠秦は湯呑を片手に取る。既に温くなったそれに目を細め、すぐに数口を嚥下した。
乾きかけた喉を潤した後、男はすぐに双眸を上げる。
「将軍は元だ。今は国外追放を受け、国に足を踏み入れる事も許されん」
「それは……」
初耳であろう将軍の処遇に驚き困惑の色を顔に滲ませる楽俊はその先を言い惑い、その様子に思わず苦笑を零した
勠秦はあくまでも声音を明るく装い言葉を続けた。
「なに、官のちょっとした手違いでな」
「手違いが放置されているほど、宮中は荒れているんですか?」
妙に確信を突くような楽俊の質問に、
勠秦が不意に言葉を詰まらせ返答を渋る。……確かに荒廃を窺わせるのは国土だけではない。だが、果たしてそれをはっきりと告げても良いものか。今、黄旗が揚げられたばかりだというのに。
返答に迷いながらも男が向けた視線の先には、飯堂内で食事と休息を取る者達の姿と賑やかな声。ほんの僅かな羨望を抱きながら、思いつくものは曖昧な言葉ばかり。
「……荒れていると言えば、そうなのかもしれんな」
何れ登極するであろう王が国土と国政を立て直す力量を持つ傑物であれば良いと、男はただそう願う。
◇ ◆ ◇
相席者との会話は続く。大学に関連する話から慶の国情まで、幅広い内容の話題を話し合う二者はやがて運ばれてきた品を摘み、それも尽きた頃に聞こえてきた若い声にふと言葉を区切った。
「楽俊、」
「ん?」
呼ばれた当人は勿論、
勠秦もまた釣られて声のした方角を振り返り、歩み寄り来た人物を認めるなり楽俊が目を丸くした。歩く度に揺れる紺青の髪。紫紺の双眸が楽俊を見下ろし、些か困惑を含んだ声が降り掛かる。
「ああ、なんだ、祥瓊か」
「なんだ、じゃないわよ。訪ねても居なかったから、」
「そりゃあすまねぇ」
彼女が訪れた先はおそらく大学の寮だろう。普段、休日を寮内で過ごしている楽俊は擦れ違いとなった事に苦笑いを零しつつ少女を見上げ、不意に手前の人物が動いた事に気付き視線を逸らす。少女もまた立ち上がった男の姿を見上げる形となり、告げられた男の言葉に慌てて頭を横に振った。
「すまない、邪魔をしてしまったか」
「いえ、」
少女――祥瓊は短く言葉を返したものの、
勠秦の表情は硬い。意外な場面で目にする事となった将軍としての貌。驚き慌てて腰を上げた楽俊と態々向き直った祥瓊へ男は軽い拱手を二者へ向けると、口早に別れの言葉を告げる。
「長話に付き合わせてすまなかった。では、私はこれで失礼する」
告げるや否や席を外し、店の者へ手早く銭を払うと墻壁沿いの階段を上っていく。男がこの上にある舎館へ宿泊している事を知った二人はしかし、すぐ後に
勠秦が昼餉代を纏めて支払ってしまった事を店の者より聞き知るのだった。
勠秦の滞在予定は数日。堯天の街を巡り、時折何事かに困った者達へ手を貸しながら、早くも三日目の朝を迎えた。
五日目の朝に出立を予定していた
勠秦は舎館を出、いつものように郭壁に沿って歩く。寅門の前で進む方角を変え、里閭を潜り、里祠を訪ねた。廟に祈りを済ませるとすぐに身を翻し一度舎館へ戻るべく足を進め―――最中、目に付いた光景を見逃す事が出来ず、結局寄り道を決行するのだった。
「いやぁ、すまんかったな」
「いえ」
偶然目撃した屋根の修復に手を貸し終えた
勠秦は、年老いた男の傍らで修繕を施した屋根を見上げながら適当に返答を口にする。朝に舎館を出たにも関わらず、陽は随分と上昇してしまった。だがそれでも良いかと、微かに口元を引き上げつつ老人の言葉に耳を傾ける。
「一時的なものとはいえ、この年になるとどうもな」
「修復の途中で怪我でも負えば大変でしょう」
「ああ、まったくだ」
大きく頷き笑う老人を見下ろした
勠秦もまた笑みを浮かべ、ふと差し出された手巾を受け取った。硬く絞られたそれで汚れた手を拭きながら、思い出したように問いを発し始めた者を見下ろす。
「そういや、あんた
勠秦って人を知らないかい?」
「……いえ、聞いた事は」
「そうか」
唐突に出された自身の名に驚くも敢えて知らぬ振りを装った
勠秦は内心疑問を湛える。目前の老人とは顔を合わせたばかりである。しかし、老人が当人へ向かい投げ掛けた事から人伝に聞き及んだ事を察し、瞬間僅かな危機感を覚え始めていた。……此処は巧の隣国、奏へ宛てられた一件を忘れた訳ではない。
次第に不安を募らせる男を余所に、老人は問うたその理由を淡々と述べ続けた。
「年は十四、五ぐらいで黒髪黒目の嬢ちゃんなんだがな、その
勠秦って人を探してるらしいんだが中々見つからないらしい」
「……?」
老人の言葉に、
勠秦は思わず首を捻った。黒髪黒目とは海客や山客の第一特徴である。錯王の政見もあり、たとえ奚であったとしてもそういった容姿の者を宮中に迎え入れてはならないという一件を思い出し、巧からの者ではないのかとさらなる疑問を抱く。蓬莱や崑崙からの知人も居ない。……それでは、一体誰だと言うのか。
「聞いた容姿があんたにそっくりなもんだから、てっきりそうなのかと」
「その子は、今何処に?」
「午門に行くと言っていたが」
「……午門」
彼の者の行き先を呟き、すぐに老人へ向き直り軽く拱手の礼を取った
勠秦は踵を返すや否や足早に郭壁へ沿い歩き出す。人波の間を抜け、辰門と巳門の前を通り過ぎ、国都だけあり人多き街の光景に目を細めた。
―――此処も、早々に立ち去るべきか。
難民に紛れ国境を越えても然程可笑しくはない。一応の警戒を考えながら歩を進め、やがて老人が告げていた容姿の少女を目に留めた。少女は視線を泳がせながら周囲を一望し、
勠秦の姿に気付く事もなく未門の方角へ駆けて行く。
「……彼女か」
早々に事情を訊ねた後、慶の地を去る事を考えつつ少女の小さな背を追い掛ける。あくまで様子と事情を窺うのみであると心中で念を押しながら、
勠秦は突如足を止めた少女の背に向け普段よりも声は低く冷静な声音を以って問いを投げ掛けた。
「失礼。
勠秦とやらを探し回っているのは貴殿だろうか」
「え?」
突如掛けられた声に驚き振り返った少女は老人の証言の通りに齢十四、五前後の黒髪黒目であった。その顔にやはり見覚えは無く、疑問を胸中で深める中、目を細めた
勠秦はおずおずとながら発された少女の問いに目を細める。
「あ……
勠秦殿、でしょうか?」
「――巧の者では無いのか」
「え?ええ、はい。あたしは頼まれて」
頼まれたと、確かに少女は口にした。……巧からの者ではない。そして今しがた捜索していた者の顔を目前にしたところで一切確信を得たような表情をする事もない。先日会った巧国出身の青年、楽俊の知人という可能性もある。だが……何の用で。
巡り続ける
勠秦の思考に突如終止符を打ったのは、突如変貌した少女の声音と唐突な誘いだった。
「
勠秦殿。突然で申し訳ありませんが、金波宮においで願えますか?」
「金波宮?」
少女の口から発された、あまりにも予想外の場所名を耳にした
勠秦は怪訝を露呈させる。だが―――男を驚愕に陥れたのは、続け様に紡がれたその理由、少女へ捜索の命を下した人物の称であった。
「主上が、是非ともお会いしたいとの事です」