- 拾壱章 -
陽射しが、明るい。
ふと空を仰臥し目を細めた男は片手に握っていた鍬を地へ突き立て、土に塗れた手を休めた。着込んだ袍子の袖で汗を拭い、風向きを確かめる。今日も良い日和だと綻ばせ掛けた顔はしかし、突然の来訪者によって再び引き締められる事となった。
「よう、
勠秦」
「……また来たのか」
「同郷への心持ちが同じ友はお前しか居なくてな」
行き交いの少ない畦の途中で立ち止まり軽く笑う青年の姿は旅装、一所に留まる者では無い事は瞭然としていた。久方ぶりの来訪者に目を細めた
勠秦は、近場に置いていた桶へ手を突っ込み水で軽く土を洗うと、縁に掛けていた手巾で軽く水気を拭き取る。それから畦へと上がり、桶を片手に何も言わないまま歩き出すのだった。
「どうだ、最近は」
「変わった事は何も」
「そうか」
青年の何気ない問いをあっさりと躱しながら、時折すれ違う者に呼び止められ、幾らかの会話の後に再度足を進める。小さいながらもしっかりとした民居の戸を押し開き足を踏み入れ甕の隣へ桶を置くと同時、
勠秦は耳にした青年の言葉に屈み込んでいた身を勢い良く起こした。
「黄旗が揚がったらしい」
「!」
思わぬ報告に見開いた
勠秦の双眸はすぐに猜疑の色を滲ませる。黄旗を確認するには巧の地を踏まねばならず、里祠を訪ねなければならなかった。崩御から経過した時は決して数月ではなく、既に荒地と化した妖魔の跋扈する地へ態々赴き確認したのかと今一度問えば、青年の深い首肯が返される。そこでようやく昇山の時を迎えた事を認め、重い溜息を吐き出した。
「崩御からもう六年が経つのか」
「ああ、うん」
―――六年。
その年月を振り返った
勠秦の顔が、一瞬歪む。その年数は廟へ足を運んだ年数とほぼ並び、しかしながら未だその願いを聞き届けられてはいなかった。麒麟が生誕し王の選定へ入るまでには最低五年の月日を要する。そして選定へ入る事を知らせる物として里祠に黄旗―――麒麟旗が揚げられるのである。
通常五年目で揚げられる筈の黄旗が何故一年も遅れたのか、その理由は大凡不明である。仮にも昇山し、女仙に理由を問うたところで誰一人として口を割る事は無いだろう。口止めを受けているのか、或いは。
次第に他方へと向かう男の思考は、不意に真摯を帯びた声音を聞き取り遮断される事となる。
「行かないのか」
「何処へ」
「黄海を抜けて、蓬山に」
それは昇山に関する問いだった。
安闔日は年に四度。今は丁度夏至を過ぎ、才国坤海門に接する令坤門の開閉を終えたばかりである。ならば次に来るのは秋分―――右回り、と覚えていた
勠秦は次に四令門の開く四州国の一を思い出し、それを潜り抜ける事は自身に限り到底無理であると知る。尤も、今期に昇山する気の無かった男にとっては落胆など微塵も有りはしなかったが。
「次に開くのは令巽門だ……そこまで辿り着けると思うか」
「……無理か」
令巽門とは巧国巽海門に接する四令門の一であり、巧国へ一歩でも足を踏み入れる事の出来ない
勠秦はたとえ昇山への希望があったとしても結局は諦めざるを得なかった。当然ながら、事情の知らない目の前の青年は男の言葉が跋扈する妖魔を掻い潜り向かう門までの道程を指しているものであると思い込み、唸る。実を言えば、彼が
勠秦の元を訪ねたのは昇山への同行を誘う為だった。だが、態度から昇山する気が更々無い事を汲み取り、結局諦め口を噤む。
急に口数の少なくなった青年の様子と今しがたの話から事情を察した
勠秦は微かに笑むと、ゆっくりと立ち上がる。棚から湯呑を取り出すと、今度は湯を沸かし始め背を向けたまま言葉を切り出した。
「巧の情報を分けてくれるのはありがたい事だが、大事は己の身だぞ」
「分かってる。程々にしておくさ」
榻へ腰を下ろした青年はひらひらと手を振り、屈託無く笑う。
数年前に知り合った青年の字は聾源。同国同州出身の縁を大事に思い、以後度々
勠秦の元を訪れるのだが、男の歓迎するでもなく怪訝を浮かべるでもない妙な態度に毎度の如く首を傾げていた。きっと照れ屋なのだ、と彼独特の思考で男の真意を決め付けている事など当然ながら
勠秦は知る由も無く。
後頭部で結えた黒紅の髪を揺らし身を振り返らせた男は、先程の問いをそのまま返した。
「聾源、お前はどうだ」
「蓬山?」
ああ、と湯呑を片手に頷いた
勠秦の姿を見上げた聾源は一度閉口した。この場で真意を明かしたところで彼が誘いに便乗するとは思えず、思わず苦笑を浮かべると返答を切り返す。
「徒党を組める良い輩が居たら、な」
「ああ」
聾源の話に耳を傾けながら、男は沸かした湯を湯呑へ注ぎつつ軽く相槌を打つ。昇山に関する話自体に無関心である
勠秦はそれ以上の言葉を返す事もなく小卓上に湯気立つ湯呑を二つ置くと、異なる意を察した―――否、思い出し後方を振り返った。現在地は起居、背後にあるのは書房と臥室への戸が二つ。
「一泊していけ。お前はそれも目的だろう」
言葉の中に篭められた意味深気な一字。そこで男が既に話相手の内心を察していた事を知り、思わず苦笑を零した聾源はああ、と一つ頷きながら湯呑を手にした。まだ温かいそれに口を付けてから小さく溜息を吐き出すと、同様に湯呑を片手で持ち墻壁へ背を凭れた
勠秦が今しがた途切れた話の続きを口にする。
「最初の昇山者は、我こそはと自信を抱く者ばかりだ。特に、巧の民は気の強さが玉に瑕だからな―――蓬山で喧嘩を起こさねば良いが」
……無論、蓬山公の立つ場での流血沙汰を回避する為に女仙が蓬山から追い出すのだろうが。
容易に思い付く喧嘩の結末に苦笑を噛み殺した
勠秦は湯呑を持ったまま書房へと歩き出す。聾源の宿泊の際には毎回臥室を貸す為、双方の間を確認しなければと思い付くや否や足を進め、数歩を踏み出した足は青年の声によって不意に留められた。
「
勠秦、お客」
「ん?」
大方近隣の住民だろうと安易に考えながら振り返った
勠秦はしかし、戸の間から起居へ入り来た人物の姿に思わず目を見開き硬直する。やあ、と気軽に掛けられた声を聞き入れた事によりはっと我に返ると、慌てて拱手と共に深々と頭を垂れるのだった。
◇ ◆ ◇
書房で書物を読むので席を外すと告げ戸の向こうへ消えていった聾源に内心感謝を告げつつ、
勠秦は椅子へゆっくりと腰を下ろした。小卓を挟み対面するように椅子へ座るのは奏の太子。姿に成長の無い青年とは実に六年ぶりの再会だったが、それに嬉々とするよりも嫌な予感が前に押し出され、背筋を伸ばしつつ眉をほんの僅かに顰める。
「貴殿が足をお運びになられたという事は、」
「待った」
疑問を口に出しかけた
勠秦は、区切りの良いところで突如制止を受けると同時に閉口する。何か、と制止の理由を短く問えば、途端利広の顔が緩み僅かに苦笑を洩らした。
「公式で来ている訳ではないのだから、堅苦しくなくともいい」
「……そうか。ならば甘受させて頂こう」
利広の言葉によって幾らか篭められていた緊張を解いた
勠秦は微かに息を吐き出した。公式で訪う際は、太子であれば少なくとも五人ほどの従者が着くものである。錯王時代、当時太子と公主が州城視察を行っていた姿を振り返ると同時、崩御から数日の後に降りていった二者の安否をふと考える。彼らは今、妖魔の跋扈する地でどう生活しているのだろうか、と。
長々と続きそうな思考を一度区切った
勠秦は、小卓へ落としていた視線を上げた。
「何かあったのか」
「少し進展があったから、一応報告しておこうと思って」
進展、と単語を復唱した男の顔色が曇る。国外追放の令が解除された、という吉報も考えられるにも関わらず、彼の脳裏に過ぎるのは不安ばかり。根拠の無いその不安はしかし、すぐに現実となって男の気を落ち込ませる事となる。
「
勠秦が隆洽に滞在している事がどうやらばれてしまったらしくて。お陰で府第へ引渡しの要求が何度も来ている」
「……」
自国からの要求を聞き内心呆れと落胆と混濁させた
勠秦は視線を逸らし深い溜息を吐いた。面持ちに怪訝さを露呈させながら、小卓へ肘を着くと顔の左半分を掌で覆った。優先順位の違えた六年越しの執拗な追尾を聞き、国の傾斜に拍車が掛かる原因を仄聞したような気分に陥る。それは愚行というものだと胸中で悪態を吐きながら、眉間を指でそっと押さえた。
「荒廃を食い止める方が先であろうに」
「まあ、内情を全て洩らされたらあちらも困るだろうから」
そう告げるものの、利広の顔に浮かぶのは苦い笑いのみ。数百年に渡り他国を巡回する者にとって、要求側の意見の心中を察する事も容易いのだろう。尤も、それに同意するか否かは別であるが。
報告を聞き頭を悩ませ始めた
勠秦はふと思う。此処は安全圏ではあるけれども、決して危険が皆無という訳では無いのだと。
「……一旦、他国へ避難するか。難民に紛れ込んで来るやもしれん」
「行くとしたら、雁かな」
会話を交わすそのどちらも、何が、とは言わなかった。言わずとも話の流れから察する事の出来る危険を危懼し、一時の逃亡先を選ぶ。周囲に住民の存在があるからこそ迎え撃つという選択を取り止め、奏に告ぐ大国の名を挙げた利広に対し
勠秦はゆるりと頭を振った。
「いや、慶にでも」
「慶?」
意外な国名を聞いた利広は疑問を胸中で浮上させながら、ほんの僅かに目を細めた。目前の男は単なる思い付きで彼の東の国名を口にした訳ではないのだろう、と。そう考え短く復唱する青年へ、
勠秦は手を小卓の上で軽く組み合わせながら理由を述べる。
「景王登極から既に六年。復興は進んでいるのだろう」
「そうだね。この前見てきたけど、あの国は順調だった」
……そう、あの国は勢いがあると卓を囲み話し合ったのは数年前の事。それがつい先日のように思い起こされ、今はそれを掻き消すように目を瞑った利広はしかし、
勠秦が東端を訪れようとする意を察するや否や瞼を押し上げる。彼が今も抱く感情。時折垣間見せる堅物な部分の所為だろうかと、不安を過ぎらせる利広の目の前では
勠秦が言葉の続きを口にした。
「三年前に見に行ったきりだからな」
「―――
勠秦」
言葉の最中、利広が男の名を呼び遮断する。そこで逸らしかけた視線を戻した
勠秦は、青年の不安の原因を知る事となった。
「罪悪感と後悔は別物だ」
「分かっている」
生前、王の愚行を阻止出来る地位に身を置きながら、塙麟という抑止力に任せてしまった事への後悔。そして、王の阻止を為せたのならば無かったであろう隣国の女王への非礼。そう考える度に募るものがあり、胸中に留め続ける情があった。だが……慶に対する思いは、決してそれだけではない。
「女王に恵まれる事の無かった慶が今、ようやく前進しようとしている。その先に興味を抱くのは利広、貴殿とて同じではないのか」
その意見には賛同した利広がひとつ首肯を示す。経過した六年は国としては実に短い年数であるが、これまでの噂を聞けば荒廃の彌漫していた国がようやく良い方角へ進み始めたように思われる。その行く先に興味があるのは、誰もが同じではないだろうか。
頷く利広を見やり、ふと視線を逸らした
勠秦は玻璃の嵌め込まれた窓を眺める。玻璃の窓越しにある、穏やかな風景を。
「それに……少し、考えたい事もある」
「ん?」
遠景を眺め眼を細めた男の顔に浮かぶのは、憂いにも似た苦悶。おそらくは無意識に滲出させているであろう情を読み取り、利広は述べかけた追究の言葉を咄嗟に飲み込んだ。行き先を最終的に決めるのは
勠秦自身でありそれ以上の口出しは無用と決め込んで、青年は微かに笑った。
「行き先を決める権利はわたしに無いから、それ以上は言わないけど―――暫くの間、望む場所へ行ってくるといい」
「ああ」
利広の言葉を受け取って、彼は一度だけ首肯する。
顔を傾けた
勠秦の双眸は未だ窓越しの風景を捉え続けていた。