- 拾章 -
奏南国の国都隆洽、その中央に存在するは雲海をも貫き雄雄しく聳え立つ凌雲山。雲海上では突き抜けた山頂がさも小島のように浮かぶ。その島上へ構えられた清漢宮の外宮に位置する掌客殿の中、清香殿の一室で露台を眺め溜息を零す者があった。
緩みかけた黒紅の髪を括り直しながら、身形の整った男はもう一度深い溜息を落とす。
「まさか、此処まで話が通るとは思わなんだ」
太子、宗王への謁見後に利広と合流し現在に至るが、緊張を解いた後にどっと押し寄せる疲労感は実に大きい。思わず本音を零した
勠秦の視線は、自然と後方へ薙がれていく。墻壁沿いに置かれた榻へ腰を落ち着かせたまま笑みを浮かべる青年は膝の上で軽く手を組み合わせながら、呟きへの答えを明るい音調で告げた。
「だが、各国を逃げ回るよりは良いだろう?」
「それはそうだが―――」
続きを言い渋る
勠秦の顔は未だ曇るばかり。再度露台の先に広がる雲海を一望しつつ、目を細めそっと溜息を落とした。
各州城への通達が完了するまでの数日間を清香殿にて滞在する許可は既に利広が取得済みである。久方ぶりに戻り来た放蕩息子の奏上と彼が連れてきた巧国元将軍の話を聞いた上で下された王の許可故に利広は平然とした面持ちだったが、対照的に憂いを浮かべるのは
勠秦だった。国が傾き始めたにも関わらず荒廃を防ぐべく尽力する事も叶わず、隣国で保護を受け観望するだけが精々の、何と無力なことか。
「国が心配かい?」
「ああ……あの巣窟に友人を残してきたかと思うとな」
胸が痛む、と。
酷く顔を歪めた
勠秦は自身の手元へと視線を落とす。当然ながら他国の宮中の事情など入る筈も無く、小司馬や大僕らの無事を確認する術は無い。ただ無事であればと、祈るより外に無いのだ。彼は国に足を踏み入れることすら叶わないのだから。
「今現在翠篁宮に残った官の殆どは、主上が咎めぬことを良い事に私腹を肥やしてきた連中ばかりだ。特に悪評高い輩は、王の不在を好機と見做し水面上で謀略を振るうようになるだろう」
王が不在の間、要となるのは冢宰である。だが……その冢宰は
勠秦の国外追放を命じた本人に他ならない。当然ながら民への思いやりも国の荒廃を留めるべく策を打ち出す事も無く、それが数年でも続けば民の半分は失われるだろう。巧の荒廃は、他国のそれと比べると明らかに速さが異なるのだから。
「その暴徒が民に影響するのならば心配の一つもする。錯王が生前に取った行動の影響を受けたか、巧は今急速に傾いているのだからな」
言い切った
勠秦は縁に片手を掛けたまま窓辺から一歩ほど離れると利広を振り返る。自国の主を制止出来たのならば、青年に手間を掛けさせる事も無かっただろう。……そして、民を苦しめる事も。
「私は、」
「王を弑い奉ってでも止めなければならなかった」
「!利広、」
「誰も聞いていない」
瞬く間に形相を変貌させる
勠秦に、利広はあくまで冷静を装いながらはっきりと告げる。その言葉はあくまでも錯王の愚行に対するものであり、塙麟という抑止力が無ければの話である。慶の希望を道連れとして殺ぎ落とすなど言語道断―――少なくとも、罪深い愚行の為に他国へ渡ろうとする王を弑い奉っていれば、今の異常な荒廃速度は無かった筈だ。
「王の愚行を諫言や阻止出来る者は限られている。少なくとも、民には出来ない事だ」
淡々とした利広の言葉に耳を傾けていた男は、やるべき事をやり過ごしたのだ、と柔らかく責められている気がした。
勠秦自身の気負いもあり余計にそう感じるのかもしれない。
僅かに顔を俯かせた
勠秦は、憂いを含んだ言葉をそっと零した。
「……私は、間違っていたのだろうか」
これに敢えて答えは無く。組み合わせていた手を解いた利広は僅かに前屈みとなっていた半身を起こすと、落ちかけた沈黙を破るように言い放つ。
「過去を悔やむよりも、これからの事を考えるべきだろう」
「ああ……」
滞在の許可は数日。その後は麓へ下りてからの生活となる。暫くの間は隆洽への逗留となる事を予想しながら、ふと見上げた窓越しの景色に目を細める。久方振りの長い下界生活に不安こそ無かったが、それでも他国へ滞在する事を止むを得ない現状に焦燥を募らせるばかりだった。
◇ ◆ ◇
残暑の強く残る空気は、夜明けにも関わらず生温い。
清漢宮の回廊へ流れ込む緩やかな風は男の裾を小さくはためかせ、淡い蒼穹の色を湛えた上空を見上げ目を細めた。……下は快晴だろうか、と。
旅装姿にしては少ない荷を詰め込んだ嚢を肩より提げた
勠秦は女官の先導を受けて路門へと辿り着いた。王宮と言えども、翠篁宮と清漢宮の構造は基本的な場を除いては大幅に異なる。故に案内が無ければ迷い兼ねない事を改め思いながら、
勠秦は路門の先へ続く階段を見下ろす青年の後姿を眺めつつ足を止める。 ぴたりと止む硬い履の音に気付きゆっくりと振り返った利広は、微かな笑みを浮かべながら男の合流を迎えた。
「準備は出来たようだね」
ああ、と軽く頷いた男の面持ちは酷く穏やかだった。一晩悩み明かした末に隣国からの吉報をひたすら待つ事を決心し、当分は奏の地へ滞在し生活を立てようと考えていた。幾ら先案じが脳裏を過ぎったところで今自分に出来るのは些細な事ばかり。ただ廟へ足を運び、早く巧の新王が立つよう祈るのが精々。……それでも、何もせずにはいられずに。
口元を引き上げ微かな笑みを浮かべる
勠秦の前へ、利広の手が差し出される。正確に言えば、青年の手中に収められた物を。
「念の為に渡しておこう」
「旌券か……ありがたい」
「無いと不便な事もあるだろうからね」
身分を証明する物が無ければ今後困る事は多々あるだろう。それを配慮した利広が用意した旌券だったが、裏書に迷った結果冢宰の名を拝借していた。少なくともその裏書による不利も不便も無い事は確実、受け取った
勠秦が書かれた冢宰の名を目の当たりにして一瞬表情が固まり、利広はその様子を目前にして笑っていた。
当分の間は隆洽への滞在をするのだと説明を述べた
勠秦は、すぐに利広から視線を外すと僅かに声音を下げながら惜し気に言葉を洩らした。
「しかし……主上や英清君へ御礼申し上げる事が叶わず残念に思う」
「あの人達は解っているだろうから、大丈夫だと思うよ」
うむ、と頷いた男の顔には渋面が作られる。大国の王と太子には世話になり、せめて礼を告げたい
勠秦の考えはあっさりと打ち砕かれた。外殿では既に朝議が開かれており、王は勿論の事太子――利広の兄――も出席しているらしく、機会を待つには午過ぎを待たなければならなかったのである。流石にそこまで待つ訳にもいかず麓へ降りる事となったのだが、
勠秦はふと目前に佇む青年の存在を改め考え直すと同時、丁寧な拱手の礼を取る。
「卓朗君」
太子としての号を呼ばれた利広は敢えて返答の言葉を口にせず、続けられる男の言葉に耳を傾けた。
「此度の御配慮、心より感謝御礼申し上げる」
「
勠秦、」
真摯を含む声音。それは将軍としての貌を窺わせ、ふと奏に次いで長い王朝を築き上げた男の顔を脳裏に過ぎらせる。まさかと思いながらも、
勠秦の顔を直視する利広は落としかけた笑みをすぐに取り戻した。
「あの時、貴殿が見つけて下さらなければ私の命は無かった」
「いや……お陰で巧の実情を知ることが出来たから、構わないよ」
「…有難う存じます」
丁寧な口調と拱手を保つまま深々と垂れる頭。男が嘗て将軍職に就き続けていた名残が今此処で露呈されようとは思わず、若干驚きながらも軽く頭を横に振った利広は、礼の言葉から然程間も経たずに拱手を解き顔を上げた男の顔を見やる。先程の合流したばかりの顔へ戻っている事に気付き無意識に肩へ篭めていた力をゆっくりと抜いた青年は、すぐに今しがたよりも幾らか砕けた口調の声を耳にした。
「正式に言うならば、な」
「あまり堅苦しいのは好きじゃないんだけどなぁ」
「おや、奏の太子は楽天家か」
「楽天家という訳ではないさ」
小さく笑った利広に釣られて
勠秦もまた穏やかな微笑を湛えた。路門より続く下りの階段を全て踏み切った後、目前の青年との再会は暫く間を空けてからの事となるだろう。そう予想を立てながら、男は再度確認を取るように改め問いを告げる。
「……奏国内ならば、何処へ動いても良いのか」
「ああ、構わない」
それこそこの麓から、国境に近い地でも、と。
蓬莱に匹敵する一国の面積は実に広い。徒歩での横断に要する月日は三月前後であり、しかし隆洽への滞在を今しがた話したばかりの
勠秦は自身の意思で移動する気は無かった。それはあくまでも仕事によって移動する際の話である。
うん、と頷いた利広は区切ったばかりの言葉をすぐに続けた。
「何れは他の国も渡れるようになる」
「?」
青年の言葉の意味を理解し兼ねた
勠秦は徐に眉を顰めながら真意を訊ねる。が―――主たるものは言わずとも、察しの良い
勠秦は次の瞬間、すぐに目を見開いた。
「そうなるよう、上手く取り計らってくれるようだよ」
「なに?」
利広の言葉に誰が、と聞く事も無く目を見開いた
勠秦は、他国への掛け合いを意味するその言葉に思わず眉尻を下げた。
今や妖魔の跋扈する巧国の地に残る民は少なく、塙の瓦解によって逃亡を開始した人々は奏と雁の二国へ渡った。浮民、荒民と呼ばれながらも妖魔に怯える事もなく過ごせる地を誰もが求める。となれば当然大国に圧し掛かり始めた他国の民の救済作業で忙しくなり、対策を立てる一方で他国への通達を整える事は王の仕事を増やすも同然である。
「実情を聞いてしまった事もあるだろうから」
「……迷惑を掛けてしまったな」
配慮を有り難く思い礼を言伝として利広へ頼むと同時、胸中で感じるのは厄介事を運び入れてしまった事への申し訳の無さだった。だが、それを今更口にしたところでただの言い訳にしか成り下がらず、最中に口を噤んだ
勠秦は敢えて別の話題へと摩り替える。
「暫くは力仕事にでも精を出してみるか」
「杖身でもするのかい?」
「ああ、それは良いとは思うが、他国へ足を踏み込めぬ身故に当分後の話となろう」
何せ奏は安泰だからな、と。
奏では杖身の仕事が少ない理由を付け足した
勠秦の視線は、ふと路門の先へと転じられる。じき迎えるであろう陽の出の方角をじっと眺め、利広もまた隣へ並び明るくなり始めた雲海の下を一望する。今日はいい天気になると、外出の予定を何気なく組み立て始めた青年へ掛けられる言葉は、既にただ一つ。
「世話になった」
「ああ」
あっさりと見送りに徹した利広は階段を下り始めた
勠秦の背を暫しの間じっと見詰める。あの男ならば麓でも何とか渡っていけるのだろうと根拠のない安心感を覚えながら、利広は彼の背が点と化す前に路門からそそくさと身を引き返すのであった。