- 玖章 -
上空を真直ぐに駆け来る存在を認めて、二者は手綱を握り直す。空での遭遇に思わず顔を顰めたのは
勠秦だった。
「……空行師?」
「もし声を掛けられたら話はわたしが引き受ける。
勠秦は一言も喋らない方がいい」
「あ、ああ―――」
利広の指示におずおずと頷いた
勠秦は速度を僅かに落として並行を逸らす。先導するように趨虞をやや前方へ出すまま疾走を続けた。引き止められる可能性を考慮しての事だったが、騎兵は真直ぐに二者を目指して駆け来る。
―――やって来たのは、天馬が三騎。
「止まれ」
「州師の方とお見受けしますが、何か」
「巧国より逃亡を図った将軍を探している。逃亡の際に使用した騎獣は吉量だが……そっちは」
騎兵は利広から視線を転じ、吉量へ騎乗する男を訝しげに見やる。物言いたげな複数の双眸に、
勠秦は眉を潜めつつも利広の指示通りに閉口を保つ。代わりに口を開いた青年は、その男は口が利けないのだと偽りの説明を述べた上で笑み、言葉を紡いだ。
「奏国の隆洽に在住の友人ですが」
「……旌券を検める」
利広の説明には今一信用性が欠けていたらしく、騎兵の一人が片手を出しながらそう告げた。天馬が二騎の傍へ寄せられ、
勠秦はさらに顰めそうになった顔を何とか保つ。傍らでは懐から何かを探り当てた青年の姿があり、騎兵に向かい差し出されたのは彼の旌券だった。
騎兵は男に提示していたものの、些か逸れた応対をする青年に半ば呆れつつ、念のために旌券を受け取った。名を確認し、さらに裏書を目にして瞠目する。
「これは―――」
―――宗王御璽。
今現在最長の王朝を築く大国、奏。その頂点に君臨する王の御名御璽。付属する落款にも目を向け、次いで青年と旌券を見比べた後に丁寧な動作で返還をした。
「大変失礼致しました。どうぞお通り下さい」
言葉と共に、兵らは頭を深く垂れる。裏書の信用もあって、青年の友人であれば目的の者とは異なるだろうと信じて正面より退いたのだった。最後まで余裕の笑みを浮かべつつ趨虞の歩を再会させた利広の後に吉量へ騎乗する
勠秦が続く。
やがて天馬が再び情景の中に溶け込み行ったことを認めて、軽い溜息を零した
勠秦は前方を行く青年へ声を掛けた。
「利広」
「うん?」
「……旌券を持ち歩いていたのか」
「旅の基本だろう?」
手綱を片手のみで掴み後方を振り返ると、利広は先刻と変わらぬ笑みを男へ向ける。それが表上の面である事を知る事となった
勠秦は口元を引き攣らせるも、先程のやりとりを思い起こして漏れかけた言葉を直前に飲み込んだ。あの時、一人であれば彼に残されていた選択肢は間違いなく逃亡のみだっただろう。
「……今回は救われたな」
ぽつりと呟いた言葉は小さく。前方からふいと視線を逸らした勠秦はしかし、すぐに表情を曇らせた。
此処は恭――巧とは正反対に位置する国であり、追撃の命が他国にまで及んでいた事に驚きを隠せざるを得ない。……少なくとも、追放と称し暗殺を実行した者は皆既に他界しているためもう少々遅いものだと思っていたのだが。
貌に翳を落とし始めた男は手綱を握る拳に更なる力を加え、足元に視線を落とした。
「しかし、他国へ話が……」
「何かやらかしたのかい?」
「……いいや」
そう―――男は無実。
虚言を吐かれ、無理矢理な証拠を決め手として拘束され、国外追放の挙句に上空での襲撃。自分は無実であると事を否定するまでの十分な猶予など無く、冤罪を証明する為の証拠を集わせんと言わんばかりの行動が目に付いた。水面上へ出てしまえば一気に慎重の姿勢が崩壊したのだろう、謀に関わっていた官らは男の囹圄内での行動よりも、虚実を作り上げる事に専念していたように思われた。
―――あの者達は今、宮中でどうしているのか。
ふと脳裏に過ぎる面々の姿。殺刑は無くとも宮中での暗殺は密かに行われているだろう、拘束はされている可能性は十分に有り得る―――そう、思考が掘り下げられる度、
勠秦の心配は少しずつ募りゆく。
「とにかく他国へは今度にしよう。範と才にも伝わっている可能性がある」
「……ああ」
不安を知ってか知らずか、利広は慎重気味に方針を述べる。静かな返答と共に一つ首肯を示した
勠秦は遠景へと視線を上げる。遥か遠方では夜明けの射光で朧気になりながらもうっすらと窺える山々の輪郭。幾つかの山が重なり、山脈にも似た景色を作り出していた。
「
勠秦」
景色をぼんやりと眺めていた
勠秦は名を呼ばれて視線を僅かに逸らした。ん、と首を捻りつつ次の言葉を待つその顔には微かな憂いが見受けられるも、切り出した話を止める訳にはいかない利広は言葉を続ける。
「奏にもこの事が伝わっているだろう」
「うむ。だろうな」
奏と巧は隣国、追撃の協力要請が届いている事は間違いない。だが、それを確かめるべく奏へと足を踏み入れるにはある程度の覚悟は必須。隣の青年がいつまでも庇護する筈もない―――故に拘束も入国の折の可能性として挙げ、
「だからわたしに同行してほしい」
「―――なに?」
利広の言葉に、男は耳を疑った。
◇ ◆ ◇
瞠目した
勠秦は思わず手綱を手前へ引き寄せた。急に留まる吉量を視界の端に捉え、それに倣った利広もまた趨虞を宙で留めると、首を僅かに捻りつつ振り返った。一体何事かと問うたところで、説明を求める声が返り来る。恭と才、範の間に広がる虚海――白海を越える為に一日を要するのだが、本来利広はその最中に説明を入れようとしていた。だがしかし、垣間見える男の焦慮に急遽決行を早める事となったのだが。
再び四肢を動かし始めた二騎は並行のまま、本題の前に事の真相を
勠秦が事細かに述べた。同時に巧での身分を明かす事となったが、事態が思わぬ方向へ進行している事もあって
勠秦がそれを気にする余裕は無かった。
国内では国外追放令――無論冤罪だが――が下されたにも関わらず、国外へ逃げ延びた事が判明した途端に追討令へと切り替えられている。口封じの為とはいえ他国を巻き込む事に躊躇のない冢宰に、神経の異常さを次第に感じ始めていた。
時折何事かを思い出したように顔を顰め、或いは双眸に憤懣の色を灯しながらも話を綴る。大方話の整理を着かせた利広は軽く相槌を打つと、確認するように言葉を紡いだ。
「……それで、濡れ衣を着せられたと」
「ああ」
男の無実を再度確認して、利広は目を細める。奏上では時間を掛けずに説明を終わらせ、手早く本題へ移行させたい。
「奏だけでも令の解除を試みてみるが、暫くは他国へ出られない事を覚悟していてほしい」
「―――承知した。迷惑をかけてすまんな、利広」
青年が整え始めようとしている手筈に
勠秦は心底より感謝し、自然と笑みが零れ落ちる。そこで利広は、ようやくこれまでに抱えていた違和感に気付き、そして彼の欠落を見出した。
―――この男には、夏官或いは軍の兵が持ち合わせている鋭さが無いのだと。
二騎は並走を続けながら、今後の説明が利広の口から淡々と述べられていた。話の合間に相槌を打つ
勠秦であったが、瞬時に顔色が豹変したのは、奏上、と利広が口にした直後のこと。嫌な予感、とでも言うのだろうか。怪訝な顔へと変わりゆく男が説明に一時の制止を掛ける。
「待て利広」
「うん?」
「……同行の先は、まさか王宮ではあるまいな?」
「それ以外の何処がある?」
叶うならば外れてほしい
勠秦の予測。だが、期待していた否という反応はなく―――寧ろその問いを投げかけられた事に驚きを示したのは利広だった。何を今さら聞くのかと、さも男の言葉が異常であるかのように問いを返し、しかし
勠秦は顔色悪くも否定を繰り返した。
「待て待て待て」
「
勠秦も王宮勤めだったろう?」
「そういう問題ではない。ああ、くそ」
男は珍しくも吐き捨てた言葉と共に頭を強く掻く。確かに彼は宮中へ足を踏み入れることを許されていた存在だった。……だが、それはあくまで翠篁宮での話。他国の王宮ともなれば事情は全く異なる。青年が着いているとはいえ男の身分は既に無く、ただの難民に過ぎない。そんな者を宮中へ招こうとしている利広に、
勠秦は思わず頭を抱えた。
「珍しく自棄だね」
「当然だ、全く―――」
―――誰の所為だと思っている。
そう、男の含みある視線が言外に告げる。盛大な溜息を吐き、しかしながら他の打開策が中々見つからないためそれ以上の反論を止めたのだが。
「王宮へ向かったとして、私に何をせよと?」
「最初は太子と面会をしてもらう」
返り来る指示に一瞬動きを止めた
勠秦は青年をじっと見据え、次いで僅かに首を捻った。
「貴殿と?」
「違っていると分かった上での発言かな」
「……いや」
正式な面会として相対する可能性を入れての発言は、かえって利広を呆れさせた。
―――奏の太子は二人。英清君と卓朗君の二名。青年が指すのは前者であり、決して後者ではない。そもそも太子と面会をして一体どうするのか。事の顛末を事細かく伝える事は必要だが、如何せん重要か否かは判断し難い。それとも味方を増やそうとでも言うのだろうか―――。
「わたしはその間に奏上をしてくるよ」
「しかし―――」
利広の話は
勠秦の躊躇を余所に進行する。やがて男の胸中では自身の行動が他国への迷惑へと繋がってしまった事に対する申し訳のなさを覚え始めた。確かにこのままでは自身の身が危うく、一つでも安全な国があれば暫くの間そこへ潜伏していれば良い。……だが、それだけで済むだろうか。
他国の民ただ一人の為に余計な時間を煩わせてしまう事が、最良の策であると断言する事はできない。
「利広、」
説明の最中、その名をもう一度呼ぶ。予め呼ばれる事を知っていたかのようにゆっくりと振り返った利広はしかし、棘を含んだ声音を迷いなく発した。
「死にたくないなら腹を括れ、
稻 勠秦」
その言葉に、男は息を飲む。
生死の問われる問題に躊躇など無用。そう訴えるように細められた双眸が男を射抜き、
勠秦は思わず口を噤んだ。……実際、他国へ先手を打たれた時点で、彼の選択肢は既に絞られていたのだから。