- 捌章 -
慶東国を発ってから早七日。
隣国へ踏み入り一巡した後、関弓に私用があるという利広と恭国連檣で再会の約束を交わしてから、
勠秦は北北西の方角に位置する国―――柳北国へと足を踏み入れていた。
法治国家で知られる柳は今現在百二十年の治世を誇る。治安は良く、決して揺らぐ事のない印象を与える国はしかし、芝草への門を潜り抜けた先に広がる街の様子を視界に入れて、男の足が自然と止まった。
国によって必ず異なる街並みはしかし、そこに漂う雰囲気は確かに見覚えがあった。半年も経たぬ内に再度見える事となった、その光景。怪訝さを露呈させた
勠秦は留めていた足を進め、人の流れに乗じて広途を歩いていく。一先ずは腹拵えの為に飯堂を探し、ふととある一軒の店が目に付いた。半ば惹かれるようにしてふらりと立ち寄り、表に立っていた青年へ騎獣の手綱を預ける。青年は一礼の後に店の裏へ続いているであろう小路へ、吉量を連れ入っていった。その姿を見送ってから、飯堂へと足を踏み入れた。
狭い店内の中で空いていた片隅の席を見つけた
勠秦がそっと腰を下ろすと、厨房から出てきたらしき中年の男が湯呑を片手に近付いてくる。
「よぉ、兄さん。雁から来た旅人かい?それとも恭から?」
「雁国からだ」
中年の男を見上げた
勠秦は湯呑を受け取ると手元に下げる。二択の内前者を選び答え、ふと近隣の国情を思い出した。芳は王と麒麟が放伐によって不在、戴は王と麒麟が行方不明―――どちらの民も既に他国へ逃亡している。極国を巡り行く物好きな旅人は居らず、故に選択肢から抜かれているのだと気付いた。
「柳はどうだい?……まぁ、隣の国を見て来ちゃ質素に見えるだろうが」
「五百年と百二十年の差があるのだから、質素に見えても可笑しくはない」
「ああ、そりゃそうか」
客の答えを聞いた男は軽く笑う。三百八十年という時の差は国の発展に多大な影響を与える。もしも柳が雁のように五百年続くのならば、恐らく劉王は賢君と称賛されるに違いない。……尤も、それは現在の状況を脱した後の話だが。
勠秦は店内をぐるりと見渡すと、僅かに目を細めた。
「……賑やかだな」
「首都だからって事もあるが―――そうだな、最近はやけに賑やかだ」
ああ、と一つ頷いた男もまた店内に坐る客の姿を眺め、不思議そうに首を傾げる。……確かに、最近客足が増えている。芝草入りの旅人が増えている、という訳でもない。今さらながら不思議に思い始めた男はふと、視線を客の下へと下ろした。客は無言のまま店外の行き交う人の姿を見据えている。
「……」
「どうした?」
「いや、」
はっと我に返った
勠秦は冷静を装いながらも首を振り、早口で注文を頼む。男は相槌を打つと踵を返して厨房へと引っ込んでいく。その姿を目で追いつつ、ようやく一人になった事への安堵から溜息を零した。どうやら、首都に住む者達は国の些細な異変に気付いていないようだった。如何せん変化に敏感になってしまった者にとってはなかなか気が落ち着かないために長居は中止し、明後日には恭へ向けて出立する事を決した。
飯堂にて手早く食事を済ませ、代金を払い終えると足早に表へ出て行く。吉量の返還を頼むと、先刻表にいた青年が慌てて小路に駆け戻った。然程待たずに吉量を連れて来た者へ小金を渡した
勠秦はそのまま午門の方角へと歩いていく。今日の宿館を探すために周囲の建物を見渡し、ふと視界の中で過ぎ行く存在に目を惹かれた。―――男の故郷では、あまり見る事のない光景。
(改め思えば、巧の差別法は酷かった……)
十二国の中で巧国へ漂着する海客の数は三番目だというのに、多くの海客が裁かれたためにその数は少ない。そして、それと同様に少ないのは半獣の存在。差別法が人と海客や半獣との隔たりを作り上げてしまった。本来ならば、差別などあってはならないというのに。
そう思うも半獣が過ぎ行く度、思わず目で追ってしまう。
犬、兎、鼠―――。
「っと……」
「大丈夫か?」
吉量の嘶く声が男の耳元で聞こえる。そこで我に返った
勠秦は躓きよろめいた者の姿を捉え、咄嗟に腕を掴んで引き寄せる。後退を免れた者は紺青の髪をした綺麗な顔立ちの少女。彼女はどうやら、鼠の半獣の連れのようだった。
「―――足元には気を付けなさい」
「え、ええ……」
戸惑いつつこくりと頷いた少女に、
勠秦は苦笑を浮かべながら傍らを過ぎ行く。少女の視線を背に受けながらも、気にする事の無いまま午門への途へ歩を進めていった。
◇ ◆ ◇
芝草でさらに一日を過ごした
勠秦は、その翌日に恭国へ向けて旅立った。陸地に沿って上空を駆け、高岫山を越え、さらに疾走を続ける。連檣までの道程までに三度地へ降りては街々を見回ったが、在位九十年でこれ程安定した地を築いた事に少々驚き、そして関心を惹かれた。最年少の王であるとは聞き及んでいたが、果たしてどのような王なのか、と。
打ち合わせの通り、連檣山の麓に近い舎館を選んだ
勠秦は数日を客房で過ごした。国々を見て回り思うところが随分とあったのか、食事時以外にはよく思案に物耽る。そして、利広が合流したのは
勠秦が連檣へ到着してから四日後の事だった。
「済んだのか」
「うん。柳はどうだった?」
「……どうとも言えんな」
半ば言葉を濁すようにして告げる
勠秦に、利広は若干驚き目を一つ瞬かせる。それはどういう事かと追求の意を投げ掛けようとした直前、部屋内に低声が響く。
「これは軽口に乗せるべきではない」
「なるほど」
説明にもならない返答から導き出されるものに、ああ、と納得したように頷いた利広はそれ以上の追及を止めた。恐らくは前兆を見たのだろう、先程から浮かべている表情は苦渋の色にも似ていた。
さて、と話を切り替えようと笑みを浮かべた利広は明日の出発を告げ、ようやく顔を普段の穏やかなものへと変えた
勠秦がふと呟く。
「次は範か」
「当分の間、範は心配ないだろうね」
「……治世三百年か」
「それでも行くかい?」
「―――ああ」
匠の国―――範西国。治世三百年を誇る国の姿はさぞや立派だろうと、以前より範国の工芸品に関心を抱いていた事もあって期待は高まりつつある。雁にも似た街並みを想像していた
勠秦はしかし、唐突に名を呼ばれて意識を引き戻した。
「
勠秦」
さっと視線を転じる男に対し、利広は微笑を浮かべたまま付近の椅子へ腰を下ろす。膝上に肘を置き手を組み合わせる青年の動作はこれまでの旅にて
勠秦が何度か目撃していたが、それが癖であるのかは定かでない。穏やかな面持ちのまま、利広は口を開く。
「長生きをすると、どうしてもそういった変化が目に付いてしまう。たとえ気付いたとしても、わたし達はどうする事も出来ないんだ」
語りにも酷似した言葉。けれどもそれは、これまでに男の胸に閊えていた疑問と蟠る靄。些細な異変に気付いているのはおそらく己ただ一人。苦渋を浮かべるばかりで、何も出来ない事への微かな苛立ちが募っていた。だが―――その最中、心情を理解したように告げられた言葉が、男の胸中をほんの僅かに軽くする。
「助言、感謝痛み入る」
僅かに顔を綻ばせた
勠秦は背を正し、拱手と共に頭を深く垂れる。感謝の篭められたそれに、利広もまた笑みを浮かべていた。
翌日早朝――白藍の空が未だ色を薄めている頃、連檣を発った二者は趨虞と吉量を並行させたまま疾走していた。
冷え切った上空の空気が肌を刺し、鞍の手前に括っていた褞袍を解き着込んだ
勠秦は息を吐き出す。白くなった息は頬を掠め、後方へ流れては千切れ消えゆく。冬が間近に迫るだけあって、夜明けの気温は些か厳しい。
連檣の街並みが見えなくなり、それでも凌雲山の存在が薄くながら確認できるほどの距離まで来たところで、
勠秦はふと呟くように言葉を零した。
「世界が見えると、自分がちっぽけな存在だとつくづく思う」
「そうだね」
賛同するように頷いた利広もまた男の視線の先を倣い後方を見送る。……実のところ、恭へは一年に最低三度は訪れているため、利広の中で新鮮さや物珍しさはとうの昔に失われていた。だが、やはり世界の広さを改めて思えば自身の存在が決して大きくはない事を知る。吉量に騎乗する男は今回の旅でそれを感じたのだという。やはり国から出ることのない者と彷徨する者の違いだろうかと思いつつ、利広は傍らを見やった。
「―――この旅が終わったら、
勠秦はどうする?」
利広の問いに、
勠秦は言い澱む。
それはこれから考えねばならない一番大切な問題だった。時間を掛けて考えたいところだったが、如何せん彼にも生活が掛かっている。いくら仙籍に名が記載されているとはいえ、衣住食は必須であるのだから。
「それは―――」
思いあぐねながらも返答を言いかけた……その時だった。
点々とした黒の存在を上空で捉えたのは。