- 漆章 -
二月最下旬。
凌雲山の麓に広がる連檣の街並みは変わる事無く、ただ寒空の下で乾いた条風が大途に吹き巻いていた。
上空は薄明として月を白く変える。三月になろうというのに、未だ冷え込みは酷い。
その中で、皋門から少しばかり下った先の舎館に、その少女はいた。
「明日には出るからね」
厩舎の柵を越えて赤虎の元へ寄り添う。背を撫でると低く喉を鳴らす虎型の獣に、
江寧は微笑した。
しかし、今は長く居ることが出来ない。出立まではあと一日……他にやる事は残っている。
里家や舎館の者達への挨拶、荷詰め、それから少しばかりの野暮用。
赤虎の頭を一撫でして柵から出ると、既に起床しているであろう二人の元へ小走りで駆ける。慣れた道程を沿って、閉ざされた戸の前で足を止めた。
「起きてますか?
江寧です」
「ああ、入れ」
しっかりとした尭衛の声に、起床から大分経過しているのだと知る。そのまま押し開けた扉の向こう、朝餉を取る尭衛と榮春の姿があった。香ばしい匂いが漂って、
江寧は思わず頬を緩ませる。
「どうした?」
「ええ、旅立ち前の挨拶を」
「挨拶?まだ朝だぞ」
目を丸くする榮春と席を立ち驚く尭衛。双方の顔を交互に見やって、少女はうんと頷く。
「立ち寄りたい所があって」
「そうか……ちょっと待ってろ」
食事の手を止めた尭衛は、部屋の隅に置かれた行李の中から布に包まれた荷を取り出す。それは、と問いかけようとした
江寧を、榮春が制す。
「受け取らない、とは言わないでね」
「え?」
「騎獣の上じゃ風や衝撃の抵抗がないとはいえ、寒い所は寒いからな」
包みを開く。中には襦裙一式と袍衫一式が丁寧に折り畳まれ収まっていた。
江寧が着ているものよりも数段良質のそれに、慌てて手を振る。こんな、と口に出たは良いものの、榮春の言葉を思い出して言葉が自然と呑み込まれていく。先手を打ったのかと気が付いた時には、受け取れないとは言えなかった。
「……榮春、」
「大切にしてね」
「―――ありがとう」
再び包まれ渡された荷を大切そうに胸に抱く。その様子を見ていた榮春は、気に入ってもらえて良かったと微笑む。襦裙と袍衫の両一式が彼女の手作りだという事は、
江寧は知らない。だがそれで良いのだと、榮春は思う。
江寧なら、きっと大切に着てくれるのだろう……と。
「一応帰ってくる予定はあるだろう?」
「はい。ただ、雁の国府に用があるから、少し長引くかもしれないですけど」
「まあいいいさ。他国を見てちゃんと勉強して来いよ」
「ええ――行ってきます」
「行ってらっしゃい」
「道中気を付けてな」
見送りの言葉を掛ける二人に、
江寧は頭を下げる。それはまるで思いを込めたような深く長い一礼だった。
上げた顔には微笑みを灯して、包みを抱いたまま扉を開け放ち出て行く。その光景を眺め終えると、榮春はぽつりと呟いた。
「……どうか、無事に」
◇ ◆ ◇
荷詰めを終えると、荷を抱えて厩舎へ向かう。赤虎にはいつでも出発できるようにと鞍を着けていたため、後は僅かな荷を下げるのみだった。
二人から貰った中の袍衫一式に着替え、襦裙は詰めた荷の中へ共に入れておく。青稟から貰った矢筒は鞍に固定し、弓は肩へ斜め掛けにする。他二食分ほどの食料は袋荷として背に負うと、ようやく準備を終える事が出来た。
「長旅になるけど、宜しく」
柵を取り外すと出立の時を察したのか、赤虎はむくりと身体を起こす。ゆっくりと厩舎を出ると、柵を戻してその背に跨った。だが、やはり騎乗の感覚には慣れそうにない。
―――明朝。陽が昇る。
舎館の彼等はそろそろ仕事の時間だろう。そう漠然として思いながら、赤虎の手綱を強く引いた。
子供は未だ寝静っている最中、里家を訪れた
江寧は閭胥と少しばかりの会話を交わした。言葉は短く、子供が起きるその前に里家を後にする。
飛翔した赤虎は上空で留まる。何処へ行くのかと問うように喉を鳴らせば、その主は白海沿いの里だと返答をした。
江寧が指を差したその方向へと、空を駆け始める。
「見つかると良いけど……」
呟いた
江寧の言葉は、風に掻き消されていった。
江寧はようやく連檣を発ち、海岸沿いに集う里へと来ていた。
赤虎を引き連れている為に目立ちはするが、それでも世話になった家を記憶から掘り起こして探し回る。
「なかなか……一年以上経ってると思い出せないね」
苦笑を零して、広途の隅で立ち止まる。凌雲山の麓に広がる街よりはずっと小さな筈なのに、何故こうも見つからないのか。こうしていると、幸先が不安になってくる。
最中、一人の少女が
江寧に呼びかけてきた。
「ねえ、お姉ちゃん」
「ん……?」
ゆったりとした袖を引いて、
江寧の顔を見上げていた。彼女は見下ろした子供の顔に―――記憶を甦らせた。
「やっぱりお姉ちゃんだ」
江寧がこの世界へ来て、初めて出会った者。それがこの少女だった。少女とその両親に感謝を言う為に来たのだが、
江寧が周囲を見渡す限りいたのは少女一人だった。目線を合わせる為に地へ膝を着き、ゆっくりと頭を撫でる。
「元気だった?」
「うん!お姉ちゃんは、怪我大丈夫?」
……怪我。
そういえば、と思い出す。世話になった当初、足首が腫れていた。結局看てもらったのは国府で質疑を受けたその後だったが、それもかなり前のこと。今では怪我をしていた事すらも懐かしい。
「すっかり治ったよ」
「良かった……いま、夏喬がお母さんを呼んできてあげるね!」
江寧が頷くと、少女―――夏喬は走り去ってしまった。それを目で追いながら、赤虎の手綱を持ち直す。言葉が分かることが、こんなにも重要だったと今それを実感する。
暫くすると、畑の間……畦から小走りで近付いてくる二つの影があった。それに気が付いて、じっと影を見据える。やがて走ってきた人物の姿が鮮明となって、
江寧は顔を綻ばせる。
「あなた……」
「覚えて、ます…?」
「ええ。あの時の海客の方でしょう?」
微笑む母親に、
江寧は自分を覚えてくれていた事に内心安堵し、嬉しく思っていた。
江寧もまた微笑み、深く頭を下げる。
「あの時は、ありがとうございました」
「どういたしまして」
「お礼を、言いたくて」
「まぁ、それだけで来たの?」
「はい……お忙しい中すみませんでした」
上げた頭を、再び下げる。夏喬とその母親は顔を見合わせていたが、
江寧は深く頭を垂れている。それに対して、母親は柔らかく声を掛けた。おずおずと頭を上げる
江寧に、でもね、と母親は口を開く。
「お礼はあの時してもらったわ」
「え――――」
「部屋を出て行く前、貴方頭を下げたでしょう?あれだけでも十分だったのに」
あの時、
江寧は足が腫れているために歩けず、男性に抱え上げられて出て行った。その際、確かに一礼はした気がする。しかし、それで十分だったなんて―――そう困惑する
江寧に、くすくすと夏喬の母親は笑う。
「でも、私はちゃんとお礼が言いたかった」
「しっかりしてるのね」
「―――他の人にも、そう言われました」
王宮で働く女御に、という台詞を飲み込んで苦笑する。まぁ、と微笑む女性は優しい声だった。聞いていると落ち着くようなその声が、
江寧には心地好い。しかし唐突に、でも、と言葉を区切る。
「あの時の貴方、どこか苦しそうだったわ。身体ではないけれど」
「身体じゃない?」
「ええ」
「ずっと前のお姉ちゃん、とっても元気なかったもん。ね、お母さん」
にこにこと絶やさぬ笑顔を母親に向けて、袖をくいと引く。その様子にきょとんと目を丸くする
江寧の肩を、母親は軽く叩いた。
「子供は、人の気持ちもよく分かるのよ」
「……そう、みたいですね」
夏喬が浮かべる太陽のような笑顔に、二人はくすくすと笑いあった。
江寧は変わらず広途の隅でそろそろと飛び立つ準備を始める。
先程、これから範へ行くのだと告げると、親子に引き止められた。ここで待っているようにと言われたものの、この場所から範までは赤虎で半日から一日掛かる。そろそろ出なければ、夕方に着く予定が夜になってしまう。……尤も、治世三百年の国に妖魔が出る事はないため、野宿については心配など無いのだが。
そう思っていた
江寧の元に、ぱたぱたと軽い足音がやってきた。
「はい、これ!」
渡されたのは、少量の果物だった。それらは布袋に包まれて、
江寧の手元に渡される。どうしたの、と聞くまでも無く少女は遠ざかっていく。
「またねーっ!」
遠くにいた母親の元に駆け戻り、小さな手で大きく手を振る少女の姿。それに手を振り返すと、少女と母親は去っていった。
江寧は呆然と見送っていた。……また、会いに来てもいいのだろうかと、手元の布袋を見る。
―――ありがとう。
去っていった方角にもう一度深く頭を下げて、いよいよ恭国を出ることにした。
◇ ◆ ◇
「あの馬鹿は早く帰って来ないのか」
内殿の最奥、積翠台に留まる者はふたつ。居るべき者と、政務を促進する者。
彼が馬鹿と呼ぶ者の姿は此処に居らず、先日に行ってくると言葉を残し何処かへ消えてしまった。だが、五百年も共に居ればその行き先程度は読む事が出来る。
大方生まれ故郷にでも行っているのだろうと内心では思いながら、早く帰って来いと願う。早く帰って来んと、また何処かへ行ってしまうぞ―――と。
暫くの間見飽きた書房に目を据えていると、隣から男の声がする。
「迎えに行かずとも今年中には国府を訪ねて来るのですから」
「ああ……だが、六太は焦っている」
「泰麒―――ですか」
「お前は知っているか?胎果の麒麟が蓬莱ではいつまで生きられるのか」
「ええ……―――」
首を振る男――朱衡に、尚隆はああ、と腕を組む。
「十年前後、ですか」
「短命だが仕方なかろう、あちらは肉も好んで食べるのだからな。……麒麟にとっては、毒を食わせられているようなものだ」
棚から一つの書物を引き出すと、紐を解き目を通す。その王の言葉は、裏腹にあちらへ渡ってしまった麒麟の危険を表していた。
「だから六太は焦っている。なにしろ蓬莱に渡ったところで泰麒の居場所を見つけることも出来ていない」
「……やはり、台輔は蓬莱へ」
眉を顰める朱衡に目をやって、尚隆は大げさに肩を落とす。分かったところで当人が未帰還なのだから、小言を向ける事は出来ない。だが、突き刺さる視線は五百年が経過した今も変わる事はない。
―――六太が居らんと、俺にばかり矛先が来る。
そう内心げんなりとしていた尚隆に、決して小言ではない言葉が降り掛かった。
「それにしても、十七にして赤虎を捕らえるなど……」
「ん?」
「台輔がお探しになっていた少女のことですが……現在は本来の名ではなく
江寧と字を付けたそうです。赤虎を引き連れているのですぐに分かるだろう、と」
「そうか……」
江寧。
十二国の中で唯一、泰麒の居場所を知る存在。戴の者がそれを聞けば、必死になって少女を探すことだろう。そう思う手前、いいやとその考えを訂正する。
戴国は今、泰麒捜索に人員を割けるほどの余裕はない。寧ろそれどころではないのだ。
泰王は玉座を不在、泰麒は行方不明。斃れてはいない筈だ、白雉は未だ落ちていないのだから。
一つ頷く尚隆に、朱衡はもう一つ、と言葉を綴り続ける。
「巧が揺れているとか」
「……やはりそうか」
……何故こうも雁の周囲は揺らぐのか。そう頭を悩ませざるを得ない。慶も、戴も、巧も―――巧はまだいい。隣国は現在十二国の中で最長の朝を敷く奏国なのだから。だが、雁国は既に手一杯の状況。
それでも、まだ――――
「対策は練る。早々に手は打っておかねばな」
「そうですね」
書物を括り棚へ戻す。その後姿を暫し眺めていた朱衡は、後に久方振りに仕事をする真面目な主君の姿を見る事になった。